雨の降り方が、朝の夢の中のそれに近く、ザンザ降りに近い音が聞こえる。雲はというと、真っ黒であって、まるで雪が降りそうだが、これはもう暗いから。予想外の、いいお天気、たとえば、乾きに乾ききった、土。その水の少なさに植物は、小動物はなかなかよみがえることが出来なかった。が、これでいくらかの土は流れるが、種もこれで発芽出来る。虫も出やすい。いつに、発芽のスイッチが入るか、いろいろ試してみる、そうゆうことも子供のときにあった宿題のようだが、大人というか歳だけ一人前でその解は出ない。草が少し大きくなった。この一週間の違いはというと、これが一番わかりやすい。そのうち、いやでも草とご対面となるが、今はかわいいが、この後が、いろいろな意味で怖い。
虫メガネというのも、なつかしい。しかし、本物の虫メガネというのは、なかった。昔、祖父は新聞を見るのに虫メガネを使っていて、その後に、それを父も使っていたような気がするが、そんなことも遠い昔の出来事で、しかし虫メガネの一つも残っていてもいいような気がするが、それがない。今虫メガネを必要とするのは私がその一人だが、そんなことは大したことではなく、虫メガネ一つのないことがおかしいのである。昔は、とまた過去に思いを馳せるが、二つはあった。その記憶もあいまいといえば、あいまいである。
ものが見えにくく思えるのは悲しい。今はメガネ一つで、何とかがんばっているが、辞書も字が細かい。ここはくっ付いているのか、何本線があるのか、これは漢字の話しだが、二本か三本か悩む。くっ付いているのか、離れるのが正しいのか。このときに、使っている虫メガネ、ルーペは何かのおまけのようなもので、これしかない。探せないのである。
いえの中の、あるものは増える。大体に私が使うものは増えるが、それでもなるべく、もうだめだというのは、外に出している。ぜんぜんいらない。20年使ったラジオも、ついに壊れて、さらに同じ年数使った電気ヒータも、外に出したが、この目で存在は確認出来る。もったいなくもないが、見えているとあー、あれにお世話になっていたと思うこと、もある。もっとも、この先のことを考えると、よくはない。というか、もう置く場所もない。あるものは消える。この一つに、虫メガネもある。もう少し高級なものもあった。しかし記憶は消え去るもので、ある意味それは楽に生きてゆく手段でも便法でもあるようで、それを必要としない人はいいが、それ以外だとあれがあったのにと思う。思うときが必ず来る。
ものの整理の仕方も、いろいろであって、残しておけ、というものが大体が基本、私の、だが、この記憶のなかから、少しずつ気付くのはふとこれがないという状態に陥ること。それは、自分のもの、個人的なもの、ではないが、ここにあったというもので、その他、だんだんとものはなくなってゆく。これがおかしいのであって、しかし自分でもそれを探すことは出来ない。その能力も昔はすぐれていたとか思ったが、何しろ捨てられるとどうしようもない。あるいはどこか、わからないところにしまわれる、収納されると、これも絶対といっていいほど、見つからない。
これは自分自身でも体験した、ただ、自分勝手ではあるけれど、ものを捨ててはいない方なので、どこかにはある。ものが自然と崩壊する、あるいは消失すると言うと、あるときには便利である。これで証拠も消え去る。しかし必要なときに消え去るものでもあって、これは現実にはない。だが、なかなかそれを探し出すのも大変なので、
先ほど、新聞の一面に出ていた、ある雑誌の広告に、ものの収納術関連のタイトルが目に入って、それの見出しを見て、さらには細かい文字も見ようとしたが、もともと大きな広告でもなく、虫メガネがどこかにないか、そう思ったのである。これで、もとに戻った。
収納術はたしかにあるし、ものを捨てるのがいいというのと、溜めるのが最高というのもあって、最後は結局それを利用するときに使えるかどうかだが、それは収納術というか、「いやとあるものとの付き合い方」と、協調的であるか、あるいは独立か?。
暖かいというか、汗も出そうな時間がある。この木はモチノキ。夏は、セミが大いに鳴く。
ここにも、ツバキの花が咲き誇っている。この姿を見るまで時間がかかった。
空に向かってこれから咲く、花。この花、道から見えているが、次は散っているということにもなりそうな気がする。
アジサイを見ると、しんみりしてしまう。去年の花がまだ残っている。それで、新しい葉っぱが出てくる。
アジサイは、雪に埋もれていても、大丈夫な強さがあって、この強さは、負け知らず。
水分の足りない、スイセンかもともとこうゆう品種なのか。つっぱっている。
出っ張ってもいる。新種?。
虫メガネというのも、なつかしい。しかし、本物の虫メガネというのは、なかった。昔、祖父は新聞を見るのに虫メガネを使っていて、その後に、それを父も使っていたような気がするが、そんなことも遠い昔の出来事で、しかし虫メガネの一つも残っていてもいいような気がするが、それがない。今虫メガネを必要とするのは私がその一人だが、そんなことは大したことではなく、虫メガネ一つのないことがおかしいのである。昔は、とまた過去に思いを馳せるが、二つはあった。その記憶もあいまいといえば、あいまいである。
ものが見えにくく思えるのは悲しい。今はメガネ一つで、何とかがんばっているが、辞書も字が細かい。ここはくっ付いているのか、何本線があるのか、これは漢字の話しだが、二本か三本か悩む。くっ付いているのか、離れるのが正しいのか。このときに、使っている虫メガネ、ルーペは何かのおまけのようなもので、これしかない。探せないのである。
いえの中の、あるものは増える。大体に私が使うものは増えるが、それでもなるべく、もうだめだというのは、外に出している。ぜんぜんいらない。20年使ったラジオも、ついに壊れて、さらに同じ年数使った電気ヒータも、外に出したが、この目で存在は確認出来る。もったいなくもないが、見えているとあー、あれにお世話になっていたと思うこと、もある。もっとも、この先のことを考えると、よくはない。というか、もう置く場所もない。あるものは消える。この一つに、虫メガネもある。もう少し高級なものもあった。しかし記憶は消え去るもので、ある意味それは楽に生きてゆく手段でも便法でもあるようで、それを必要としない人はいいが、それ以外だとあれがあったのにと思う。思うときが必ず来る。
ものの整理の仕方も、いろいろであって、残しておけ、というものが大体が基本、私の、だが、この記憶のなかから、少しずつ気付くのはふとこれがないという状態に陥ること。それは、自分のもの、個人的なもの、ではないが、ここにあったというもので、その他、だんだんとものはなくなってゆく。これがおかしいのであって、しかし自分でもそれを探すことは出来ない。その能力も昔はすぐれていたとか思ったが、何しろ捨てられるとどうしようもない。あるいはどこか、わからないところにしまわれる、収納されると、これも絶対といっていいほど、見つからない。
これは自分自身でも体験した、ただ、自分勝手ではあるけれど、ものを捨ててはいない方なので、どこかにはある。ものが自然と崩壊する、あるいは消失すると言うと、あるときには便利である。これで証拠も消え去る。しかし必要なときに消え去るものでもあって、これは現実にはない。だが、なかなかそれを探し出すのも大変なので、
先ほど、新聞の一面に出ていた、ある雑誌の広告に、ものの収納術関連のタイトルが目に入って、それの見出しを見て、さらには細かい文字も見ようとしたが、もともと大きな広告でもなく、虫メガネがどこかにないか、そう思ったのである。これで、もとに戻った。
収納術はたしかにあるし、ものを捨てるのがいいというのと、溜めるのが最高というのもあって、最後は結局それを利用するときに使えるかどうかだが、それは収納術というか、「いやとあるものとの付き合い方」と、協調的であるか、あるいは独立か?。
暖かいというか、汗も出そうな時間がある。この木はモチノキ。夏は、セミが大いに鳴く。
ここにも、ツバキの花が咲き誇っている。この姿を見るまで時間がかかった。
空に向かってこれから咲く、花。この花、道から見えているが、次は散っているということにもなりそうな気がする。
アジサイを見ると、しんみりしてしまう。去年の花がまだ残っている。それで、新しい葉っぱが出てくる。
アジサイは、雪に埋もれていても、大丈夫な強さがあって、この強さは、負け知らず。
水分の足りない、スイセンかもともとこうゆう品種なのか。つっぱっている。
出っ張ってもいる。新種?。