ダラダラとした時間を過ごしたという感じが強く、今は一週間があっという間に過ぎる
ようで、毎日でも三度の食事はとっているからありがたい話しである。そのうちにどうなる
か、わからないそうゆう不安というのがある。ここ10年の変化がもっとも激しく、この先の
一年いちねんというものもあるところ、ある意味では激しい感じもある。どう考えても、
若くない。もう年老いたいう感じが強い。
精神年齢というのがあるか、というとないと思う。精神に年齢はない。脳にはあるかも
知れない。この脳年齢はどうか、というとあまり昔と変わらない。子供の、学生の、
それより先に大して変化なくここまで、ダラダラ来てしまった。おとなと呼ばれる年齢で、
恥ずかしい気もする。内心だけど。多少は気の弱さはなくなったと思うが実際は変わらな
い。気の小さい、性格的にしつこい、それに加えて何があるか、言い方の問題だが、
大人ではなく、結局子供っぽいまま。変わらない。
人はある年齢に達すると、もしかして、子供のときの、考えとか環境とか、育てられ
方というものが復活するようで、昔はよかった、などいう。私の母も、私の態度は一体何だ、
それが親に対する口のききかたかというようなことを最近よく言う。昔はなかった。
それで多少は「いいほう」だと思っていたのかも知れないが、とんでもなかった。化けの皮が
はがれて、それも久しいがこうゆうことを書くのが目的でもないので、でもいい子供ではない
ことはたしかで、今は何とか親孝行ではないが出来ることはする、という考え方。これ
しか自分をあるところで救う方法はない。人というのはいつどこで、どう変わるかわから
ない。でも最後の方で、もとに戻るというのはありそうだ。だから、それが親に対する
口のききかたかという言葉も出る。その反対のことを私は私で思ったりもする。これ以上は
出来ないなー、という思いである。
もう新しい年がきたと考えておかしくない感じがする。2010年の0月だと考えてもいい。
誰がゼロを発見したか、この数字というか、言葉というか、記号、概念その他、このゼロに
勝てるものはなさそうで、どうがんばっても人は最後は消えてなくなる。これが大体
ゼロというものと似ていて、真実かも。何もかもなくなってしまう。どこから現われたか、
その予想はつくが最後はみなもとに戻る。何もない状態、ゼロ。どうがんばっても、
最後は0で、これは面白い。同時に、0というものがあるので、これで割り算ができないと
いうことにもなって世の中、特に学者の皆さんは苦労したというか、気が滅入ったらしい。
逆にいうと、無限大という概念も出てくるからで、それも何もかも無にしてしまうことに
通じる。有限、有界でないと現実というのはあり得ない。
でも宇宙の始まりというのも、もっともゼロに近い数字で、どう考えてもそのような
ことを想像できないが、その時期を過ぎるとものは安定して存在する時間を迎えるときが
出来たという。それよりも、例えば、これから先のこと、その反対の、過去のこと、こうゆう
ものは、無限に続いてきたと考えるのが気分的にはもっとも安心できると思う。始まりも
なく、終りもない。そうあると嬉しい。悩みも少し減る。
ただ、こうゆうことはあり得る。太陽系の安定性。もっというと、太陽が安定した
活動をして、エネルギを供給してくれる時間というのは、限られる、ということ。これに
は、間違いがないと思える。もっともその時間というのもまだまだ先まで心配に及ばない。
それよりも、人類の歴史も相当長いようで、しかし結構人類そのものが人類を滅ぼすと
いう悪夢が、本当になりそうな気もしないわけではない。
残り一ヶ月というか、もう2010年の0月になってしまった、と思うことにすると、
なんだかいいような悪いような、ニ、三のことが思い浮かんだが、それにしても悲観的な
考え方が主なようで、なかなか「0」でもいいというところに達しない。せいぜい、明日から
自分の医療費でも計算しておくことにしよう。
剪定の跡。木もただ切られると黙ってはいない?。
赤いサザンカ。垣に使われるサザンカはこれが多い。なんどもどこでも今は
このサザンカを見る。毎度これを書いている。
この赤いサザンカの色が、暗い感じの多い今の季節に希望を与えて
くれる感じがする。
赤い色というと、もう一つヤマハゼがあるようで、この葉っぱの色も
印象的で、どこにでもあると思える。
そのヤマハゼの横に、黄色い色の葉を付ける木がある。当然少し前は緑。
これも同じだろうか。塀の上から覗き込むような感じである。木の密集する
ところ。外からのみ観賞できる。
ようやく、園芸店の前にある、パンジー、三色スミレのあるところに来た。
植物は自然が一番とか言いつつ、それでもやっぱりこれを見ると足が
自動的にそちらに向かう。
この花を生産される人がおられて、それを見て美しいと思う人がいて
それはその人のもとへと移動する。
明日は0月であり、2009年の11月の最後の花は、スイセン。何と四つも咲いている。
この秋の一番最初のスイセンと同じ個体のはずで、最初は二つしか花は
なかった。しおれる感じもあったが、ここまで立派になった。
ようで、毎日でも三度の食事はとっているからありがたい話しである。そのうちにどうなる
か、わからないそうゆう不安というのがある。ここ10年の変化がもっとも激しく、この先の
一年いちねんというものもあるところ、ある意味では激しい感じもある。どう考えても、
若くない。もう年老いたいう感じが強い。
精神年齢というのがあるか、というとないと思う。精神に年齢はない。脳にはあるかも
知れない。この脳年齢はどうか、というとあまり昔と変わらない。子供の、学生の、
それより先に大して変化なくここまで、ダラダラ来てしまった。おとなと呼ばれる年齢で、
恥ずかしい気もする。内心だけど。多少は気の弱さはなくなったと思うが実際は変わらな
い。気の小さい、性格的にしつこい、それに加えて何があるか、言い方の問題だが、
大人ではなく、結局子供っぽいまま。変わらない。
人はある年齢に達すると、もしかして、子供のときの、考えとか環境とか、育てられ
方というものが復活するようで、昔はよかった、などいう。私の母も、私の態度は一体何だ、
それが親に対する口のききかたかというようなことを最近よく言う。昔はなかった。
それで多少は「いいほう」だと思っていたのかも知れないが、とんでもなかった。化けの皮が
はがれて、それも久しいがこうゆうことを書くのが目的でもないので、でもいい子供ではない
ことはたしかで、今は何とか親孝行ではないが出来ることはする、という考え方。これ
しか自分をあるところで救う方法はない。人というのはいつどこで、どう変わるかわから
ない。でも最後の方で、もとに戻るというのはありそうだ。だから、それが親に対する
口のききかたかという言葉も出る。その反対のことを私は私で思ったりもする。これ以上は
出来ないなー、という思いである。
もう新しい年がきたと考えておかしくない感じがする。2010年の0月だと考えてもいい。
誰がゼロを発見したか、この数字というか、言葉というか、記号、概念その他、このゼロに
勝てるものはなさそうで、どうがんばっても人は最後は消えてなくなる。これが大体
ゼロというものと似ていて、真実かも。何もかもなくなってしまう。どこから現われたか、
その予想はつくが最後はみなもとに戻る。何もない状態、ゼロ。どうがんばっても、
最後は0で、これは面白い。同時に、0というものがあるので、これで割り算ができないと
いうことにもなって世の中、特に学者の皆さんは苦労したというか、気が滅入ったらしい。
逆にいうと、無限大という概念も出てくるからで、それも何もかも無にしてしまうことに
通じる。有限、有界でないと現実というのはあり得ない。
でも宇宙の始まりというのも、もっともゼロに近い数字で、どう考えてもそのような
ことを想像できないが、その時期を過ぎるとものは安定して存在する時間を迎えるときが
出来たという。それよりも、例えば、これから先のこと、その反対の、過去のこと、こうゆう
ものは、無限に続いてきたと考えるのが気分的にはもっとも安心できると思う。始まりも
なく、終りもない。そうあると嬉しい。悩みも少し減る。
ただ、こうゆうことはあり得る。太陽系の安定性。もっというと、太陽が安定した
活動をして、エネルギを供給してくれる時間というのは、限られる、ということ。これに
は、間違いがないと思える。もっともその時間というのもまだまだ先まで心配に及ばない。
それよりも、人類の歴史も相当長いようで、しかし結構人類そのものが人類を滅ぼすと
いう悪夢が、本当になりそうな気もしないわけではない。
残り一ヶ月というか、もう2010年の0月になってしまった、と思うことにすると、
なんだかいいような悪いような、ニ、三のことが思い浮かんだが、それにしても悲観的な
考え方が主なようで、なかなか「0」でもいいというところに達しない。せいぜい、明日から
自分の医療費でも計算しておくことにしよう。
剪定の跡。木もただ切られると黙ってはいない?。
赤いサザンカ。垣に使われるサザンカはこれが多い。なんどもどこでも今は
このサザンカを見る。毎度これを書いている。
この赤いサザンカの色が、暗い感じの多い今の季節に希望を与えて
くれる感じがする。
赤い色というと、もう一つヤマハゼがあるようで、この葉っぱの色も
印象的で、どこにでもあると思える。
そのヤマハゼの横に、黄色い色の葉を付ける木がある。当然少し前は緑。
これも同じだろうか。塀の上から覗き込むような感じである。木の密集する
ところ。外からのみ観賞できる。
ようやく、園芸店の前にある、パンジー、三色スミレのあるところに来た。
植物は自然が一番とか言いつつ、それでもやっぱりこれを見ると足が
自動的にそちらに向かう。
この花を生産される人がおられて、それを見て美しいと思う人がいて
それはその人のもとへと移動する。
明日は0月であり、2009年の11月の最後の花は、スイセン。何と四つも咲いている。
この秋の一番最初のスイセンと同じ個体のはずで、最初は二つしか花は
なかった。しおれる感じもあったが、ここまで立派になった。