生まれも、育ちも違う、という場所が今はいるところで、ここで、今はいない父や、
それから同じように高齢である、叔母が育ったところ。それで、知っている、ここの過去
というと、母と一緒に来たという、そうゆう子供のときを除くと、そこに残るのは祖父母の
姿と、昔はよかったのではないかという田舎の風景と、それから電車に揺られて行く街が
あって、その街は特に田舎だからどうも違うという感覚はなく、それなりの街らしさがあり、
楽しいものでもあって、そうゆう時代というのはいかにも昔的で、今でも「当時のそんな
生活」を学生のときにおくっている人はいないのではないか、というくらいのんびりと
したもので、大時代がかる感じがある。
そうゆうものの何かが残っているかというと、ここのうちの場合だとそれこそ石だの、
木だのとなる。その狭い感じの玄関から先の通路は昔と同じで、車が入れないように出来
ている。石も邪魔をして、これを動かそうとする人がいたが、無論動かない。だんだんと
その時代のものがなくなって、また街中も最近は行かないが、行ったときの感想というと、
そうゆう「いいとき」のものが大体なくなってしまった。というのがはっきりとした印象で、
それで今頃活性化がどうのなどいうのがいかにもおかしいのである。昔が賑やかで、
今は閑散としている。時代というのは変わらざるを得ない運命にあって、盛者必衰の
理どおりになっているから、それも昔からわかっていたという感じは、たしかにあって、
古典というものもなるほど今に活きて理解出来る。時代がどう古典を利用するのかそんな
ことは知らないが、その通りであることを、遠い昔の人は見破っていたから、これはれっき
とした法則のようだ。
昔から、世のあり方を理解している人がいて、今そのことがわからない自分がいるの
は、古典に関係なく、なるほどねーと今頃わかってきたというものがあるからで、わから
なくなるものが多い中で、そうゆう大まかで、しかし法則、掟というものがあると気が
付くのはいかにも皮肉である。
これまたそうゆうことと関係なく、この周りの小さな世界で印象的なところという
のは、少しだがあって、それは散歩道でもあり、その周りで見る景色であり、また生き物
の姿でもある。昔は電化されていた鉄道の跡は道路となり、それで見る影もないが、
ここが駅だったというのは記憶にある。そのころのその道の様子というのは無論ぼんやり
して、しかし今その跡から何か思い出すことが出来るかというと、そうゆうものはない。
きれいさっぱりとなくなって微塵も残らない。
記憶でいうと、お寺は昔もあったし、酒屋さんもあって、これはまーいいか。
他だと道が広くなったが、しかし建物が移動したということはない?から、絶対的な
建物の違和感というのは、いえの近くだとない。話しが今の時代になかなか帰って来ない。
知っているようで、夢の中のようなものがその先にあると思っていた時代は意外と
長く、つまりは知らなかった。で、その辺りのところを歩くというのが、今のここの辺り
の印象となるけれど、それも少しずつ、あるいは大胆に変わり、言ってみると昔の人は
もういなく、昔知らない人が知っている人になる。変わらない言葉、方言があって、戸惑うが、
それもしょうがない。
モチノキもそうだが、サザンカもそうで、だんだんと時間がたつと、一々驚くことも
なくなるが、それがあちこちにあることを知る。知らなかったことだが、突然ぱっとそれが
わかるときが来る。これも印象的なもので、で、それ以外に
初めてのバラの姿というものを見つけるというときもある。バラはどこにでもあり
そうで、そうでもない。ここの書き込みでも最初のうちは、画像も少なくそれを見習わない
といけないと思うが、それを2年ぶりかで、また見るときがある。いくつか、そうゆう印象に
残るものに出会うと、そうかこれが、最初のバラの花だったか、それを思い出すことに
なった。街の印象も変わり、街の中身も変わる。それは鄙の方でも同じで、まー変わる方が
多いというのは当然のようで、極最近と思えたものも、それの印象の具合によっては、
いやはや懐かしいという思いにとらわれる。なんだか、毎度のことをやっていると、
感動も印象もなくなって惰性でやっているとも思える。何がどうなって、というか善悪も
あるのだろうが、まだ多少は印象がどうのと「青臭い」ことも書けるのも悪くはないような
気もした。
建物のある風景で、これは最近知ったもの。
葉の色でいうと、ハナミズキ。違うかも知れない。
これは花全体が、黄色の菊。
白い菊もそばにあり、またよく使われる白いビニルの紐も写っていたりする。
大きすぎた、サザンカの画像。ときどき程度がわからなくなる。
咲いている、遅咲きのヒマワリ。
マリーゴールドとか、
サルビアには、長く咲いてもらって、いつも美しい花を見せてもらって
チョウも引き寄せてもらった。感謝というのは、これらの花のために
ある言葉だとやけにしんみりして思う。
それから同じように高齢である、叔母が育ったところ。それで、知っている、ここの過去
というと、母と一緒に来たという、そうゆう子供のときを除くと、そこに残るのは祖父母の
姿と、昔はよかったのではないかという田舎の風景と、それから電車に揺られて行く街が
あって、その街は特に田舎だからどうも違うという感覚はなく、それなりの街らしさがあり、
楽しいものでもあって、そうゆう時代というのはいかにも昔的で、今でも「当時のそんな
生活」を学生のときにおくっている人はいないのではないか、というくらいのんびりと
したもので、大時代がかる感じがある。
そうゆうものの何かが残っているかというと、ここのうちの場合だとそれこそ石だの、
木だのとなる。その狭い感じの玄関から先の通路は昔と同じで、車が入れないように出来
ている。石も邪魔をして、これを動かそうとする人がいたが、無論動かない。だんだんと
その時代のものがなくなって、また街中も最近は行かないが、行ったときの感想というと、
そうゆう「いいとき」のものが大体なくなってしまった。というのがはっきりとした印象で、
それで今頃活性化がどうのなどいうのがいかにもおかしいのである。昔が賑やかで、
今は閑散としている。時代というのは変わらざるを得ない運命にあって、盛者必衰の
理どおりになっているから、それも昔からわかっていたという感じは、たしかにあって、
古典というものもなるほど今に活きて理解出来る。時代がどう古典を利用するのかそんな
ことは知らないが、その通りであることを、遠い昔の人は見破っていたから、これはれっき
とした法則のようだ。
昔から、世のあり方を理解している人がいて、今そのことがわからない自分がいるの
は、古典に関係なく、なるほどねーと今頃わかってきたというものがあるからで、わから
なくなるものが多い中で、そうゆう大まかで、しかし法則、掟というものがあると気が
付くのはいかにも皮肉である。
これまたそうゆうことと関係なく、この周りの小さな世界で印象的なところという
のは、少しだがあって、それは散歩道でもあり、その周りで見る景色であり、また生き物
の姿でもある。昔は電化されていた鉄道の跡は道路となり、それで見る影もないが、
ここが駅だったというのは記憶にある。そのころのその道の様子というのは無論ぼんやり
して、しかし今その跡から何か思い出すことが出来るかというと、そうゆうものはない。
きれいさっぱりとなくなって微塵も残らない。
記憶でいうと、お寺は昔もあったし、酒屋さんもあって、これはまーいいか。
他だと道が広くなったが、しかし建物が移動したということはない?から、絶対的な
建物の違和感というのは、いえの近くだとない。話しが今の時代になかなか帰って来ない。
知っているようで、夢の中のようなものがその先にあると思っていた時代は意外と
長く、つまりは知らなかった。で、その辺りのところを歩くというのが、今のここの辺り
の印象となるけれど、それも少しずつ、あるいは大胆に変わり、言ってみると昔の人は
もういなく、昔知らない人が知っている人になる。変わらない言葉、方言があって、戸惑うが、
それもしょうがない。
モチノキもそうだが、サザンカもそうで、だんだんと時間がたつと、一々驚くことも
なくなるが、それがあちこちにあることを知る。知らなかったことだが、突然ぱっとそれが
わかるときが来る。これも印象的なもので、で、それ以外に
初めてのバラの姿というものを見つけるというときもある。バラはどこにでもあり
そうで、そうでもない。ここの書き込みでも最初のうちは、画像も少なくそれを見習わない
といけないと思うが、それを2年ぶりかで、また見るときがある。いくつか、そうゆう印象に
残るものに出会うと、そうかこれが、最初のバラの花だったか、それを思い出すことに
なった。街の印象も変わり、街の中身も変わる。それは鄙の方でも同じで、まー変わる方が
多いというのは当然のようで、極最近と思えたものも、それの印象の具合によっては、
いやはや懐かしいという思いにとらわれる。なんだか、毎度のことをやっていると、
感動も印象もなくなって惰性でやっているとも思える。何がどうなって、というか善悪も
あるのだろうが、まだ多少は印象がどうのと「青臭い」ことも書けるのも悪くはないような
気もした。
建物のある風景で、これは最近知ったもの。
葉の色でいうと、ハナミズキ。違うかも知れない。
これは花全体が、黄色の菊。
白い菊もそばにあり、またよく使われる白いビニルの紐も写っていたりする。
大きすぎた、サザンカの画像。ときどき程度がわからなくなる。
咲いている、遅咲きのヒマワリ。
マリーゴールドとか、
サルビアには、長く咲いてもらって、いつも美しい花を見せてもらって
チョウも引き寄せてもらった。感謝というのは、これらの花のために
ある言葉だとやけにしんみりして思う。