11月のような天気で、でも冬かというと秋だし、晩秋というと違うなという感じも
ある。北陸も広いので、どこが北陸かと言われそうで、北陸もどこまで、というのは自分
でもわからない。新潟県はどうなるか。違うようだ。北陸三県とかよく聞く。だから
三県なのだろう。でも位置的には日本列島の真ん中辺りで、なぜ北陸かという疑問があって、
なら越中の方がわかりやすい。何も、越中だからどうのこうのはない。越前があって、
越後があり、だから真ん中で越中がある。越というのがみな揃う。だから越なのだろう。
なるほど、峠も高峰もあるし、扇状地で川中島で、どこへも河を越えないと、山を登ら
ないといけない。でも大体
日本列島はそうゆう風に出来ているし、むかしは日本海も大陸だったとかいう。
みな移動する。あるところは高くなって、あるところは今度は低くなる。昔々になると、
五大陸はみな一つだったとか言うこともある。本とか嘘か、その辺りがわからないところ
がいいところ。
このところ冴えない天気が続いているので、時間を見てどこそこへということも出来ず、
そうゆうことで何か「へま」も出来ないのでおとなしくしている。雨も降れば傘を差すから、
また風が吹けば傘を両手で押さえないといけないし、どうにもこうにもならない状態で、
カメさんの出番もない。防水カメさんというのも考えたことがあるが、やめた。そこまで
しなくていいだろうという思いがあって
恐らく、海に潜ったりする人はそうゆうカメさんこそ求めるものであろう。知らな
かったが、水中で、カメさんを操作するのは大変そうだが、空気中と違って光の屈折率が
違うから、視界が狭くなるそうだ。そうゆうものかな、こん辺の理屈もわからないようで
は、防水カメラを使う資格はないだろう。雨というのも、いざとなると気にもしない、気にも
出来ないものがあるが、普段は結構雨には気を使う。なんでか、というとカメさん持ち
だからというわけでもないけれど、傘の一つも持たないと安心感はない。
その点、結構身軽な方はいる。どこどこに出かけても何も持たないという感じで、
そうゆうまねは出来ない。
ずっとというとこれは嘘で、3、4日というと当たっているが、本当に冴えない天気で、
買い物とかは行くがその他は歩くのが精一杯で一々辺りを観察するということも出来ない。
いつも不思議に思うが、こうゆう時期は何をしていたのか、特にブログに関して、写真の
一つもないと書くこともなくなるようで、それでは止めとけばいいとか思うものもあるが、
そこの踏ん切りがつかない。ほどほどに書いてというと大袈裟だが、それをやっているが、
それにしても、そろそろ考えを変えないと、ただただ惰性でやっている感じがあって、
ってこうゆうことを書くのも嫌いではないが、困ったものだし、変化といってもそうは
簡単に変えられないから、堂々巡りが始まる。
今年ももう残り何十日という程度で、地球はどんどんと回転して、太陽は冬至点に
どんどん近づいている。ただ時間だけが、ありふれた空間ではゆっくりとしかし止まること
なく進んでいる。時間が進むのかどうかわからないが、時間は今のところ止まらないよう
だ。また逆に進む、過去に遡ることもないようで、なんだか安心している。いずれ自分の
持つ時計は止まるが、これもあまりにもたくさんの人が時計を持つと世の中が窮屈になり
過ぎる。ある時間がくれば、それなりにその人の固有の時計が止まるというのはなかなか
よく出来たもので、神様にも感謝したくなる。
それこそ、何百年という単位で人が生き続けたらと思うと、これはぞっとする。
ほどほどの時間が来ればその人の時計が止まるというのは、うまく出来ている。もっとも
無理に止める必要はなく、理不尽な出来事で止まるというのはこれは納得がいかないし、
あるべきではなく、当然認められない。
ただ思うことを書いているとあまりいい方向にはいかない。多少は憂鬱なのでこう
ゆう考えも出てくる。
身近な紅葉というのはそこにあるが、なかなか気が付かないなど思っていたのだが、
それとはちょっと違う方へと進んだようだ。
いかにも賑やかな紅葉というもの。
ちょっと地味。久しく出なかった、大木の紅葉。
晴れ間もあるので、身近で、葉っぱ。
きのうか気が付いたが、ツツジの花。咲きそうで、咲かない。
少し離れるが、身近な紅葉のうち。うまく光が当たる時間でないと
この色はわからない。
一部を、拡大。
拡大のその二。限界というのがやっぱりある。もっとも、等倍表示よりは
縮小している。
元に戻って、少しだけ位置をずらした。
ある。北陸も広いので、どこが北陸かと言われそうで、北陸もどこまで、というのは自分
でもわからない。新潟県はどうなるか。違うようだ。北陸三県とかよく聞く。だから
三県なのだろう。でも位置的には日本列島の真ん中辺りで、なぜ北陸かという疑問があって、
なら越中の方がわかりやすい。何も、越中だからどうのこうのはない。越前があって、
越後があり、だから真ん中で越中がある。越というのがみな揃う。だから越なのだろう。
なるほど、峠も高峰もあるし、扇状地で川中島で、どこへも河を越えないと、山を登ら
ないといけない。でも大体
日本列島はそうゆう風に出来ているし、むかしは日本海も大陸だったとかいう。
みな移動する。あるところは高くなって、あるところは今度は低くなる。昔々になると、
五大陸はみな一つだったとか言うこともある。本とか嘘か、その辺りがわからないところ
がいいところ。
このところ冴えない天気が続いているので、時間を見てどこそこへということも出来ず、
そうゆうことで何か「へま」も出来ないのでおとなしくしている。雨も降れば傘を差すから、
また風が吹けば傘を両手で押さえないといけないし、どうにもこうにもならない状態で、
カメさんの出番もない。防水カメさんというのも考えたことがあるが、やめた。そこまで
しなくていいだろうという思いがあって
恐らく、海に潜ったりする人はそうゆうカメさんこそ求めるものであろう。知らな
かったが、水中で、カメさんを操作するのは大変そうだが、空気中と違って光の屈折率が
違うから、視界が狭くなるそうだ。そうゆうものかな、こん辺の理屈もわからないようで
は、防水カメラを使う資格はないだろう。雨というのも、いざとなると気にもしない、気にも
出来ないものがあるが、普段は結構雨には気を使う。なんでか、というとカメさん持ち
だからというわけでもないけれど、傘の一つも持たないと安心感はない。
その点、結構身軽な方はいる。どこどこに出かけても何も持たないという感じで、
そうゆうまねは出来ない。
ずっとというとこれは嘘で、3、4日というと当たっているが、本当に冴えない天気で、
買い物とかは行くがその他は歩くのが精一杯で一々辺りを観察するということも出来ない。
いつも不思議に思うが、こうゆう時期は何をしていたのか、特にブログに関して、写真の
一つもないと書くこともなくなるようで、それでは止めとけばいいとか思うものもあるが、
そこの踏ん切りがつかない。ほどほどに書いてというと大袈裟だが、それをやっているが、
それにしても、そろそろ考えを変えないと、ただただ惰性でやっている感じがあって、
ってこうゆうことを書くのも嫌いではないが、困ったものだし、変化といってもそうは
簡単に変えられないから、堂々巡りが始まる。
今年ももう残り何十日という程度で、地球はどんどんと回転して、太陽は冬至点に
どんどん近づいている。ただ時間だけが、ありふれた空間ではゆっくりとしかし止まること
なく進んでいる。時間が進むのかどうかわからないが、時間は今のところ止まらないよう
だ。また逆に進む、過去に遡ることもないようで、なんだか安心している。いずれ自分の
持つ時計は止まるが、これもあまりにもたくさんの人が時計を持つと世の中が窮屈になり
過ぎる。ある時間がくれば、それなりにその人の固有の時計が止まるというのはなかなか
よく出来たもので、神様にも感謝したくなる。
それこそ、何百年という単位で人が生き続けたらと思うと、これはぞっとする。
ほどほどの時間が来ればその人の時計が止まるというのは、うまく出来ている。もっとも
無理に止める必要はなく、理不尽な出来事で止まるというのはこれは納得がいかないし、
あるべきではなく、当然認められない。
ただ思うことを書いているとあまりいい方向にはいかない。多少は憂鬱なのでこう
ゆう考えも出てくる。
身近な紅葉というのはそこにあるが、なかなか気が付かないなど思っていたのだが、
それとはちょっと違う方へと進んだようだ。
いかにも賑やかな紅葉というもの。
ちょっと地味。久しく出なかった、大木の紅葉。
晴れ間もあるので、身近で、葉っぱ。
きのうか気が付いたが、ツツジの花。咲きそうで、咲かない。
少し離れるが、身近な紅葉のうち。うまく光が当たる時間でないと
この色はわからない。
一部を、拡大。
拡大のその二。限界というのがやっぱりある。もっとも、等倍表示よりは
縮小している。
元に戻って、少しだけ位置をずらした。