気温が高いというと、この反動は必ずありそうで、それも予報を見て聞いて、そうだった
と思ったりもする。作用があれば、反作用がある。そうゆうことを習った記憶があるが、一体
何のことだといぶかしく昔は思った。そんな繊細なことを感じるわけがない。この辺りが、
何かを分ける時間の始まりのようで、具体的な出来事がないと、簡単にその真理を理解できない
という現実。
他に幅を利かせるのが保存されるものがあるというもので、これも何のことかわからん
なーというのがずっと長い間思っていたこと。ご飯を食べれば無くなるし、お小遣いだって、
お年玉だってなくなってしまう。その代わりに、何かを手元に置いたところで、それも
食べれば無くなるもので、またものであっても、ただただものであり続ける。何の役にも
たたない。等価の交換ではないではないか。商売というのはうまいこと出来ている。しかし
痛手というのを片方は負うわけだから、何が保存されるものがあるか、という理屈になって、
保存がどうのというのは、やっぱりわけわからん、ということになってしまう。
対称性という言葉もよく聞く。何を対象にするか、というのもあるが、世の中には、
いろいろと、利益だとか、損得勘定とか、また儲けた、損したとかいう、勘定が私もそうだが、
やっぱり流行していて、利益を求めるなかれ、などいう人のことは、信用できないとかも
あるし、そう言いながら、それがご利益につながったりもするから、もともと矛盾に陥り
やすい。もっとも、言葉のあやとか、あるいは単純に命題がどうのではなくて、感情的にも、
あるいは人道的にもこれはやはり正しいと思えるものはあるし、大体そうゆうものは、
まずはニュースにもならないし、表面に出ることもない。名もなく、生まれ出て、名も知れず
なくなってゆく。
しかしこれでは、伝えるということも出来ず、文言でも残らずで、どうしたことか、
真実で、真理のあり方は、むつかしい。
いろいろ錯綜するものがある。何をいまさらという感じである。
それで頭が痛い。物理的に痛いので、高気圧か、気温が高いせいか、あるいはそれ以外の
何かの疾病かと思うが、こうゆうこともなかったとはいえない。もう少しして、これにも
慣れると、どうにかおさまったと言うことにもなるが。頭痛のタネは小さくなることは
あっても、なくなることは無さそうで、例えばブログ、書き込みのネタみたいなことを、私も
考えることがあって、これもおかしなことだ、と思う。何もさほど悩むようなことでもない
だろう。その通り。どっちだというと、お金を注ぎ込んでいる。これが傑作で、あれこれ
自分で理由を作ったりもするが、それが結局は、このブログのためだったりもする。その通り
なのであって、また
どこに出かけるか、これは少しオーバで、さてどこの辺りに何があるだろうか、考え
たりもするから、自分もおかしいと思う。それゆえ、頭も痛く目も疲れるので、これは
病気である。まったく、これを直すのは簡単そうで、そうでもない。
サザンカの花というのがある。昔は、ほとんど気にせず、それよりもツバキの方が
わかっていたつもりで、これの方が自分の中では、知っているというものだった。サザンカは、
歌ではあったという程度で、歌から花を思い出すことはない。そのサザンカがこの辺りでは
結構多い。これに気が付くのも時間がかかって、あるときにこの辺りはサザンカだらけだ、
と思うに至った。何しろ、ここのいえにもあるからで、それを長く知らなかった理由というと、
一つは、その花を一々見なっかった、ということに尽きる。昔は、たしかに植物園とかに
行った。しかし、サザンカの花を見にという考えというか意思はなかった。大体、花との
付き合いの程度がわかるというものだが、今はどちらかというとそれを「探す」から、これも
人はいかにも簡単に変わってしまうことを示していないか。
これも、もう少し何かないか、考えてみると、最近は虫、その中でもチョウがいない。
いないと書くとまたおかしいから少なくなった。少なくなって、逆に増えているものもある
が、少なくともファイルになるチョウは少ないかいない。
いっときの出来事が夢のようにも思われる。シジミチョウがある、セセリチョウはあまり
追いかけなかった、それからタテハチョウ。いいチョウに巡り会えたというのが幸運だった。
そのチョウも今は、それこそ「かする」こともなく、たしかに今日も、ツマグロヒョウモンは
最後の力を振り絞って飛んでいた。でも、やっぱり近寄ると、本能的に逃げるのである。
自然界の、掟というもの。それに、保存されるものがあり、また対称的なものもある。
春が来てチョウが咲き乱れて、秋が来て、サザンカが咲く。サザンカは、冬も咲き続ける
はずだから、この花こそ、雪の降るそうゆう地域のための花だと思える。この花、咲かない
木から咲き始めたりもする。サザンカは、何か保存されるものがあり、また対称となるべく
生き物もいるのだろう。それは何か、まー今はそれを急いで知ることもない。
離れて見ていると、まるでサルスベリの色、咲き方も同じだと思った。
これを近づいて見ると、ようやくサザンカとわかったようなで、逆光である。
最初のものも、露光を+補正している。
同じようなところ、をどれが一番感じよく、サザンカが出ているか、
並べてみた。押しなべてきれいな花が揃っている。
横から見たところ。
サザンカは長持ちもする。この花、個体もかなり前から咲いて、咲いては
散りをすでに繰り返しているようである。
全体の様子。盛んであることがわかる。
これは朝の光での、サザンカ。
と思ったりもする。作用があれば、反作用がある。そうゆうことを習った記憶があるが、一体
何のことだといぶかしく昔は思った。そんな繊細なことを感じるわけがない。この辺りが、
何かを分ける時間の始まりのようで、具体的な出来事がないと、簡単にその真理を理解できない
という現実。
他に幅を利かせるのが保存されるものがあるというもので、これも何のことかわからん
なーというのがずっと長い間思っていたこと。ご飯を食べれば無くなるし、お小遣いだって、
お年玉だってなくなってしまう。その代わりに、何かを手元に置いたところで、それも
食べれば無くなるもので、またものであっても、ただただものであり続ける。何の役にも
たたない。等価の交換ではないではないか。商売というのはうまいこと出来ている。しかし
痛手というのを片方は負うわけだから、何が保存されるものがあるか、という理屈になって、
保存がどうのというのは、やっぱりわけわからん、ということになってしまう。
対称性という言葉もよく聞く。何を対象にするか、というのもあるが、世の中には、
いろいろと、利益だとか、損得勘定とか、また儲けた、損したとかいう、勘定が私もそうだが、
やっぱり流行していて、利益を求めるなかれ、などいう人のことは、信用できないとかも
あるし、そう言いながら、それがご利益につながったりもするから、もともと矛盾に陥り
やすい。もっとも、言葉のあやとか、あるいは単純に命題がどうのではなくて、感情的にも、
あるいは人道的にもこれはやはり正しいと思えるものはあるし、大体そうゆうものは、
まずはニュースにもならないし、表面に出ることもない。名もなく、生まれ出て、名も知れず
なくなってゆく。
しかしこれでは、伝えるということも出来ず、文言でも残らずで、どうしたことか、
真実で、真理のあり方は、むつかしい。
いろいろ錯綜するものがある。何をいまさらという感じである。
それで頭が痛い。物理的に痛いので、高気圧か、気温が高いせいか、あるいはそれ以外の
何かの疾病かと思うが、こうゆうこともなかったとはいえない。もう少しして、これにも
慣れると、どうにかおさまったと言うことにもなるが。頭痛のタネは小さくなることは
あっても、なくなることは無さそうで、例えばブログ、書き込みのネタみたいなことを、私も
考えることがあって、これもおかしなことだ、と思う。何もさほど悩むようなことでもない
だろう。その通り。どっちだというと、お金を注ぎ込んでいる。これが傑作で、あれこれ
自分で理由を作ったりもするが、それが結局は、このブログのためだったりもする。その通り
なのであって、また
どこに出かけるか、これは少しオーバで、さてどこの辺りに何があるだろうか、考え
たりもするから、自分もおかしいと思う。それゆえ、頭も痛く目も疲れるので、これは
病気である。まったく、これを直すのは簡単そうで、そうでもない。
サザンカの花というのがある。昔は、ほとんど気にせず、それよりもツバキの方が
わかっていたつもりで、これの方が自分の中では、知っているというものだった。サザンカは、
歌ではあったという程度で、歌から花を思い出すことはない。そのサザンカがこの辺りでは
結構多い。これに気が付くのも時間がかかって、あるときにこの辺りはサザンカだらけだ、
と思うに至った。何しろ、ここのいえにもあるからで、それを長く知らなかった理由というと、
一つは、その花を一々見なっかった、ということに尽きる。昔は、たしかに植物園とかに
行った。しかし、サザンカの花を見にという考えというか意思はなかった。大体、花との
付き合いの程度がわかるというものだが、今はどちらかというとそれを「探す」から、これも
人はいかにも簡単に変わってしまうことを示していないか。
これも、もう少し何かないか、考えてみると、最近は虫、その中でもチョウがいない。
いないと書くとまたおかしいから少なくなった。少なくなって、逆に増えているものもある
が、少なくともファイルになるチョウは少ないかいない。
いっときの出来事が夢のようにも思われる。シジミチョウがある、セセリチョウはあまり
追いかけなかった、それからタテハチョウ。いいチョウに巡り会えたというのが幸運だった。
そのチョウも今は、それこそ「かする」こともなく、たしかに今日も、ツマグロヒョウモンは
最後の力を振り絞って飛んでいた。でも、やっぱり近寄ると、本能的に逃げるのである。
自然界の、掟というもの。それに、保存されるものがあり、また対称的なものもある。
春が来てチョウが咲き乱れて、秋が来て、サザンカが咲く。サザンカは、冬も咲き続ける
はずだから、この花こそ、雪の降るそうゆう地域のための花だと思える。この花、咲かない
木から咲き始めたりもする。サザンカは、何か保存されるものがあり、また対称となるべく
生き物もいるのだろう。それは何か、まー今はそれを急いで知ることもない。
離れて見ていると、まるでサルスベリの色、咲き方も同じだと思った。
これを近づいて見ると、ようやくサザンカとわかったようなで、逆光である。
最初のものも、露光を+補正している。
同じようなところ、をどれが一番感じよく、サザンカが出ているか、
並べてみた。押しなべてきれいな花が揃っている。
横から見たところ。
サザンカは長持ちもする。この花、個体もかなり前から咲いて、咲いては
散りをすでに繰り返しているようである。
全体の様子。盛んであることがわかる。
これは朝の光での、サザンカ。