ボッカリと空いた目の穴をひといちばい美意識の鋭敏な彼女は、わたしに見られたくはなかったのだろう。
穴があいている。醜い穴があいている。
暗い穴があいている思われることがいやだったのだろう。
そう思っても、彼女を失った悲しみしは癒されることはなかった。
年老いてわたしも白内障の手術をすることになった。
当然のことのように彼女への想いが生々しく蘇った。
いや、片時も忘れたことはなかった。
宇都宮の街はどこもかしこも餃子の匂。
一杯飲みたいのをがまんした。
Y眼科病院は建て増ししてむかしの倍近く病棟が広く、立派になっていた。
そしてここは、気がつけば、わたしが幼少の頃入院した病院の跡地だった。
幼少のわたしがアノモノと会った場所だった。
教会から晩鐘が鳴り響いているではないか。
わたしは病院に忍び込んだ。
忍びはわが家のDNAに深く潜在している。
先祖が忍者だったらしいのだから。
体が自然と動いてくれた。
彼女の入院していた部屋が見たかった。
彼女の死んでいった部屋にいけば彼女に会えるかもしれない。
わたしは常軌を逸していた。
あれから何年たっていると思うのだ。
会いたい。
もういちど**子、会ってあなたをつれて逃げられなかったことを詫びたい。
そうしていれば、あなたは死ななくてすんだはずだ。
世間体とか、親の反対とか、そんなことを蹂躙してしまえばよかったのだ。
わたしが臆病であったがために……あなたを死なせてしまった。
リノリュウム張りの長い廊下には人影はなかった。
病院は医師や看護師、各部署のスタッフがいて、患者がいるから世間とつながっているのだ。夜の人気のひいていた病院は異界に変わる。
異形のものが跳梁していても違和感はない。
そんなことを考えながら歩きまわった。
手術室の在る場所もかわってしまっていた。
めざす、病室もわからない。
帰ろうかと思ったとき、院長室からかすかな笑い声がもれてきた。
わたしは、その声をきいただけで身の毛がよだった。
恐怖の発作におそわれた。
たえてひさしい……あの忌避してきた声だ。
取り入ろうとして卑屈。
脅そうとして傲慢。
いかようにも声を変えることのできる者が部屋には存在している。
ともかく、声をきいているだけで、蛇の穴になげこまれたような恐怖を覚える。
ぬらつく感触で体をなでまわされる。
探られる。嫌悪感が襲ってくる。
それはいっぽうてきにかかってくる闇からの電話の声。
巧みな誘惑の声。
あの声が部屋からしていた。
こちらで呼び出しに応じなければいつまでもなりひびく悪魔からのコーリング。
電話に出ればでたで、性懲りもない契約への勧誘。
エデンの園からうけついできた最強のセールストーク。
よほど強固な意思の持ち主でないと逆らえない。
蛇がのたくっている。
肌に感じる嫌悪感だけではすまされなかった。
生臭い臭いまでしてきた。
骨の髄まで恐怖が染み込んでくる。
わたしは、それでもおそるおそるドアを開けた。
広い洋間には黒い薄煙のようなものが漂っていた。
いや、淡いブルーも混じっている。
わたしは、できることならこのままドアを閉めて立ち去りたかった。
心拍の高鳴りが警鐘だ。
立ち去る、なんて生易しい行動ではもうまにあわない。
逃げるのだ。
逃げるのだ。
だが、そうしなかったのは好奇心からではなかった。
怖いものを見たいという心の動きからではなかった。
彼女が手術された現場、あるいは死んでいった部屋を見たかったのだ。
生来、心臓の弱かった彼女が手術のショックから立ち直れないで死んでいったという病室を探していた。
わたしは、彼女へのいまにいたるまでの強い愛にささえられていた。
革張りのおおきな椅子にだれか座っている。
その周囲で青と黒の霧はさらに濃く邪悪さを秘めて渦動している。
飴でもしゃぶっているような音がチュウチュウとしていた。
信じられなかった。
Y院長はむかしのままの若さを保っていた。
息子だとしても若すぎる。
孫か?
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