ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

回 帰

2010-04-15 17:18:21 | 随筆

 誰にも、一度はそんな時期があると思うのだが、若い頃の私は、何でも欧米の方がずっと進んでいて、日本は遅れている国だと思い込んでいた。

 映画は、洋画の方が断然面白かったし、家だって和式より洋風の方が、格段に便利でスマートに見えた。とりわけ私が嫌悪していたのは、義理人情の世界だった。日本映画のメインテーマである義理・人情は、学校で教えられる人格の尊厳や、民主主義の精神と真っ向から対立し、国の近代化や個人の独立を阻害する、唾棄すべき観念と思えた。

 筋立ても中身も、大して違わない忠臣蔵や水戸黄門という映画が、当時は毎年作られ、沢山の大人たちが見に行った。多作される安っぽい日本映画が、多数の観客を動員するというのは、国民の知的レベルの低さの証明だと、軽蔑していた。

 六十を過ぎた今、何時からそうなったのか分からないが、日本の映画や音楽や、絵画の馴染み易さにひたっている。水戸黄門などの分かりきったパターンでも、結末の見せ場になると涙が浮かんでくる。親子の絆や、兄弟の思いやりなどが演じられると、思わずハンカチで目や口を押さえてしまい、そばで家内が呆気にとれられている。

 老化による、知的レベルの低下があるのだとしても、ここまで変貌した自分に驚き、妻が目を丸くするよりずっと以前に、自分自身が呆れている。

 だがそれは、果たして驚くべき現象なのか。目を閉じ、心静かに思いをめぐらせてみれば、身の回りに、いくらでも似たような人間がいる。

 特に過去の人々の中に、若いときはモダーン一本で、旧弊な日本を否定し、ひたすら外国に憧れ、信奉し、身辺の一切合切を、西洋で飾った人間が、年を取ったら、スッカリもとの日本人に戻ってしまった、という事例がいくつもある。

 いくら否定したところで、自分の育った国で受け継いだものは、無意識のうちに体内で育まれ、ひょいとしたキッカケで、突然出て来ると、そういうことなのだろうか。蔑んだり卑下したりしても、自分の国がなかなか捨てたものでないことは、年を重ねるに従い、分かってくる。

 日本は理想の国ではないが、もっと状況の悪い国 ( 具体的に云うのは憚られる ) が、世界には無数にある。

 こうして書きながら発見するのだが、自分がそうなった原因として、二つのことが思い浮かぶ。一つは、私が子供だった時代は、敗戦直後だったということだ。荒廃した日本が貧しかったから、豊かな西洋諸国がどうしても子供には、素晴らしい国に見えた。

 今でこそ「メイドインジャパン」は、高級品の代名詞みたいに云われるが、当時の「メイドインジャパン」は、「安かろう・悪かろう」の代名詞だった。

 今は粗悪な中国製品が、世界をかき回しているが、日本だって、あの頃は、中国に負けない粗悪品の輸出国だった。中国の肩を持つつもりはないが、歴史の流れとして、そのうち、「メイドインチャイナ」が、高級品の代名詞になる日が来るのだろう、と思っている。

 原因の二つ目は、新聞 ( 当時テレビは、まだなかった ) に、代表されるマスコミだ。だいたい新聞の多くは、国の悪口を書くのが使命とでも思っているのか、日本の不合理、不条理、後進性を、欧米先進国との比較で、毎日これでもかと報道していた。

 「英国は紳士の国で、誰もがキチンと時間を守ります。」「日本人は、約束の時間を守らず、いくら遅れても平気です。」「これでは、いつまでも世界の笑い者です。」

 英国滞在経験者の記事が、権威をもって紙面を飾り、少年だった私は本気で日本人であることが情けなくなったものだ。政治も経済も社会も、この調子で語られ、進歩主義者と呼ばれる文化人たちの、最もらしいお喋りが、恥じらいもなく全国に報道された。

 軍国主義者たちが、日本を無謀な戦争へ導き、愛国心を鼓舞する者は、すべて右翼であり、間違った人間なのだと、新聞の記事は、そういう論調で書かれていた。

 日の丸や君が代が、声高く否定され、平和憲法が讃えられた。

 今にして思えば奇妙なことだが、大いに議論・検証すべき現実が無視されていた。「一億玉砕」から、「一億総懺悔」へと、この掌を返すような戦前戦後の風潮を、先導したのがマスコミだった。

 これを進めていくと、また別の話になりそうなので、マスコミ論はこの辺りで中止だ。 つまり私は、時代とマスコミのお陰で、国を愛する心をなくした少年として、育ったという面があることを知り、自己責任も感じている。次の文章は、24歳のときの私が、ノートに残していた、永井荷風の小説からの抜き書きだ。

 「桜咲く三味線の国は、同じく専制国でありながら、」「支那や土耳古のように金と力がない故、万代不易の宏大なる建築も出来ずに、」「荒涼たる砂漠や原野がない為に、孔子釈迦キリストなどの考えだしたような、宗教も哲学もなく、」

 「又同じような暖かい海はありながら、何と云う訳か、ギリシアのような芸術も作らずにしまった。」「多年の厳しい制度の下に、吾等の生活は、」「遂に因習的に、活気なく、貧乏臭くだらしなく、」「頼りなく、間の抜けたものになったのである。」

 「その堪え難きうら寂しさと、退屈さを紛らす、せめてもの手段は、」「不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟でもなく、」「ぐっとさばけて諦めてしまって、そしてその平々凡々極まる、無味単調なる、」「生活の一寸した可笑しみ、面白みを発見して、」「これを頓智的な、きわめて軽い芸術にして、」「侮ったり笑ったりして、戯れ遊ぶことである。」

 24歳の私は、これを新聞と同様の、日本蔑視の考えと誤解し、日本人であることのやり切れなさを、さらに深めた。だがこれは、ひねくれ者だった、荷風特有の言い回に過ぎなかった。

 荷風は彼なりに、西洋から日本へと内面で回帰し、晩年はどっぷり日本に浸かりきって生きた。同じ作品を読んでも、このように昔と今では、逆の解釈になるのだから、自分の知識の貧弱さを恥じたくなる。

 我田引水が許されるなら、私の変貌は老化でなく、荷風のように「内面からの日本回帰」と、そういう風にこじつけてみたい。

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