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鄧小平秘録 (上) - 2

2015-11-25 17:10:00 | 徒然の記

  鄧小平秘録(上巻)を読み終えた。

 彼の生涯が、毛沢東との闘いだったということがよく分かった。毛沢東は「清貧な社会主義」と「共産党の一党独裁」を信念としたが、リアリストの鄧小平は「豊かな社会主義」と「共産党の一党独裁」を信じた。共産党の独裁については同じだが、経済に関する主張が土台から違っていた。

 穏健な周恩来は終生毛沢東に異議を唱えなかったが、鄧小平は節を曲げなかった。だから彼は、劉少奇と共に反革命分子や走資派などと批判され、二度も毛沢東から失脚させられた。だが有能な彼は何故か毛に庇護され、職位剥奪で冷遇されても決定的な処分を受けなかった。

 鄧小平は歯ぎしりするほど毛沢東を恨んでいながら、彼へ敬愛の念を失わないという矛盾の中で生きた。その思いが阿吽の呼吸で毛沢東に伝わっていたことが、首の皮一枚で彼が命を長らえた理由だったのかも知れない。生涯を傍で支えてくれた周恩来について、毛沢東はつれない評価をしている。「彼は言われたことはなんでもするが、それだけの人間だ。」

 当時ナンバーツウだった林彪を事故に見せかけて粛清した毛沢東は、周恩来が末期ガンと知った時、後を任せられるのは鄧小平しかないと即断した。文革四人組と言われる江青夫人などの猛反対があったにもかかわらず、地方に蟄居していた彼を、すぐさま北京へ呼び戻した。

 こうしてみると、毛沢東も鄧小平もよく似ている。共に、「目的のためなら、手段を選ばない」人間だったし、己の信念を絶対と信じる彼らは、逆らう者を容赦なく切り捨て、自分に献身した者でも、裏切りを見せられると即座に断罪した。

 本のあとがきにある石平氏の言葉が、鄧小平の矛盾をよく伝えている。
氏は昭和37年に四川省で生まれ、北京大学卒業後に日本へ留学した。天安門事件後の中国に失望し、日本に帰化した人物である。時々テレビに顔を出す、とても辛辣な中国批判者だ。日本人には彼の批判が心地良いのだろうが、私には別の思いがある。生まれ育った自分の国を悪く言うのは、たとえそれが正論であったとしても聞き苦しい。

 反日売国の人間たちが、日本の悪口を平然と口にするのを聞く時と同じ不快感があるからだ。しかしこのあとがきを読み、石平氏が平気で祖国を貶しているのでないと理解できた。内面の葛藤を抱えつつ批判をしているのであれば、義において非としも、情において是とするものがある。長くなっても、氏の言葉を引用したいと思う。

 「私の世代の中国人にとって、鄧小平を語ることは、すなわち自身の人生と、私たちの生きて来た時代を語ることである。」「1977年に鄧小平が文革後の失脚から復活した時、私は高校に入る直前だった。」「この年の秋に、鄧小平は改革・開放推進の一段として、長年中止されていた大学入学試験の再開を決めた。」

 「77年以前、高校卒業と同時に農村へ送られ、過酷な肉体労働を強いられた多くの先輩たちと比べれば、私たちの世代はあまりにも幸運であった。鄧小平の決断一つで、人生が開かれたわけである。」

 「その恩恵を受けたのは、私たちの世代だけではない。ある意味では、その時の鄧小平に感謝しなければならないのは、中国という全体である。」「彼の復活によって、人民はやっと毛沢東政治の暗黒から脱出して、再生の希望を見いだしたからだ。」「鄧小平という三つの文字は、まさに希望と安心の代名詞であり、正しい道へと進むための道標であった。」

 「しかし、この夢と情熱の時代に終止符を打ったのも、ほかならぬ鄧小平である。」「89年6月4日の未明、温厚な常識人指導者として慕われてきた、この " 小平爺 " は一転して冷酷非情な暴君となり、本格的な戦車部隊を出動させて、丸腰の学生たちを手当たり次第に殺していった。 」「毛沢東の恐怖政治よりも酷い仕打ちである。」

 つまり、これが第二の天安門事件だ。この日を境に石平氏は共産党政権に幻滅し、心で決別を告げた。この時の思いを、氏が語る。「もはや何も信じられないというニヒリズムの時代がやってきて、無力感と空虚感が国に満ちていた。」

 「しばらくすると、この絶望的な閉塞状態を打ち破り、国民に新しい希望を与えたのが、またもや小平である。」「彼は乾坤一擲の思いで " 南巡講話 "を行い、" 発展こそが絶対の道理 " と唱えて、資本主義市場経済への全面転向を呼びかけた。 」「中国という国は、それで生気と活力を取り戻し、経済成長への道を歩み始めた。」

 「考えてみれば、私たちの世代にとって、鄧小平は感謝すべき恩人であると同時に、憎むべき敵であり、追随すべき良き指導者であると同時に、反抗すべき暴君でもあった」「私たちの世代は結局、鄧小平が敷いたレールの上で人生の道を走り、彼が作り出した時代の波に乗っていく運命にあった。」
「孫悟空が、いくら飛んでも釈迦の手の平の上にいるのと同じように、我々は最後まで鄧小平の手の平から逃れることができなかったし、今でも私たちはそうである。」

 「私は今、日本という安住の地を得たことで、中国政府を自由に批判できる立場にあるのだが、国内の親族が迫害を受けずに済んだのも、鄧小平が確立した " 温和政治 " の賜物と言わざるを得ない。」「20年前に、私が海外留学することができたのも、鄧小平改革のおかげである。」「私と私の世代の運命は、やはり鄧小平を抜きにしては語れない。」

 感謝しつつも、否定せざるを得ない鄧小平という人物。愛と憎しみの対象として、鄧小平を語る氏の言葉を聞いていると、苦悩が伝わってくる。国や指導者を批判する言葉は、返す言葉で自らも傷つける。傷の痛みに耐えながら、言わずにおれない祖国の有様・・、氏の心情には分かるものがある。平穏な日本で反日の合唱をする売国の徒と彼とは、ここに一線がある。

 理解していても反抗せずにおれない鄧小平について、もう少し氏の叙述を引用したい。
「経済改革・開放路線の始動以来、中国の未来を決定するいくつかの歴史の節目において、左右両派の主張を撥ねつけ、衆議を排して、自らの信念を貫き、孤独の決定をたしのは、常に鄧小平であった。」「華国鋒などの守旧派を政権から一掃するための、権力闘争もやり抜いた。」「この間に彼は、胡耀邦と趙紫陽という、自らが指名した後継者の二人をも切り捨ててしまった。」

 沢山の問題を抱えながらも、中国は今世界の経済大国となっている。氏はこれを全て、鄧小平の力だと評価する。「非凡な政治力をもって断行した彼がいたからこそ、今の中国がある。」とまで述べる。胡錦濤も江沢民も、鄧小平路線の継承と推進をしているだけで、彼と比べるにはあまりにも小物で、とても彼のようなグランドデザインは描けないと言う。

 従って氏の予想は、暗い未来になる。「鄧小平のような、かけがえのない賢明な指導者はどこにもいない。」「鄧小平亡きあとの中国は、どんな国になるのか誰にも分からない。」「守護神と救世主のいない共産党政権は、果たして生き延びることができるのか。」「これはもう神のみぞ知る問題であり、今世紀初頭の世界に存在する最大の問題である。」・・・と、氏は結んでいる。

 本のおかげで、私は毛沢東と鄧小平の政治家としての偉大さを理解した。
突出した凄い政治家であることも理解した。だが、理解することと受容することは別物である。彼らが敷いた路線に乗っかり、我が国を貶め、歴史を歪め、世界中に悪評を振りまく中国を許す気にはなれない。彼らは彼らの国益のため政治を行っているだけの話で、日本は日本の国益のために動けば良い。

 独裁政権の中国から支援を得ている反日野党は致し方なしとしても、反戦・平和に騙されて自分の国を責めるお花畑の国民は、どうすれば目を覚ますのだろうか。軍隊の弾圧もなく、官憲の暴力もない今の日本の素晴らしさが、どうして分からないのか、不思議でならない。まして皇后陛下までが、反日の「九条の会」に心を寄せられるなど、あって良いことなのだろうか。


 すっかり冷え込んだ、雨の一日だった。朝からストーブを入れている。ヤカンのお湯が湧き、暖かい湯気がガラス窓を曇らせている。先ほど家内が、ストーブの上に銀紙に包んだ芋を乗せたので、焼ける匂いが漂い始めた。
と、そんな環境の中で、私はこれから「鄧小平秘録」の下巻へと進む。王侯貴族の贅沢さはないが、この平穏な日常を私は誰に感謝しようか。独裁者のいない日本だから、それはもう、沢山のご先祖様や日本の国そのものへの感謝しかない。

 有難うございます。

 

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