ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『絶頂の一族』- 30 ( 西村氏の遺言 )

2024-05-08 17:27:44 | 徒然の記

 〈 第3章 叔父・西村正雄 〉・・ ( 西村氏の遺言 )

  ・私が初めて西村の執務室で会ったのは平成18年6月初旬だったが、その後何度となく会っていた矢先の、同年8月1日西村は心不全で急逝した。73才だった。

  ・最後に西村と会ったのは、亡くなる4日前のことだ。手元にある取材メモから、西村が安倍晋三に何を伝えたかったかを、出来る限り再現したい。

 「ねこ庭」では、西村氏の意見を財界のリーダーとして相応しくないと考えていますが、松田氏は高く評価しています。

  ・西村のいわば遺言というべきものだが、元総理の安倍晋三の政治姿勢に対して、いささかも色褪せていない言葉の数々だ。

 他人を褒めるのは酷評するのと同じくらい難しいと、言われますがその通りです。馬鹿な人間を褒めると、褒めた当人の馬鹿を晒すことになります。「ねこ庭」のブログを14年間書いて、やっとこのことに気づきました。

 「ねこ庭の独り言」を冊子にして、息子たちに残したい・・・自分の意見が自己満足の産物でしかないと分かって以来、そんな思いが消えました。むしろ「ねこ庭の独り言」は、私と共にハイさようならが相応しいのです。松田氏にも伝えたいと思いながら、以下氏の説明を紹介します。

 〈 西村氏の遺言 〉・・・松田氏の取材メモより

  ・晋三は、小泉総理の靖国神社参拝を巡り、小泉総理と同様に「心の問題だ」と言う理屈を持ち出しているが、靖国神社参拝は「心の問題」ではない。

  ・歴史的事実の問題だ。一銭五厘の赤紙 ( 召集令状 ) 一枚で、強制的に徴兵されて戦死した兵士と、戦争を主導したA級戦犯の職業軍人らが合祀されている靖国神社への参拝が、アジアだけでなく国際的にも、「心の問題だ」と言う方便が通用しないと言うことが、晋三には全く分かっていない。

  ・戦死だけではない。南方では餓死が待っていた。軍部は負けると分かっていながら、兵士を投入し大量の犠牲者を出した。

  ・昭和6年 ( 満州事変  ) 以降は侵略戦争だ。あの戦争で他国を侵略し、無差別に民間人を殺した。その事実を消すことはできない。

  ・平成18年8月15日に小泉総理は談話を出し、侵略戦争を認めているではないか。

   「小泉談話」・・我が国は、かって植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて適切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する。

  ・晋三はあの侵略戦争が分かっていない。

  ・晋三は靖国神社参拝へのアジア諸国の反発に対し、「心の問題」と言うが、犠牲者が300万人だろうが1人だろうが、侵略は侵略だ。

  ・歴史的事実を踏まえて、けじめをつけなくてならない。

 歴史的事実を踏まえてと言うのなら、たかだか83年前の大東亜戦争からでなく、欧米列強がアジアを侵略した「東亜百年戦争」を語る必要があります。古くはスペイン・ポルトガルによる南米侵略から、イギリス、フランス、オランダによるインドを始めとするアジア諸国の武力侵略が出発点です。

 鎖国をしていても、海外情勢を知っていた日本の将軍や上級武士・学者たちは、欧米列強の侵略からいかに日本を守るかに腐心し、危機感と恐怖心を抱いていた歴史を語らずして先の大戦は説明できません。

 少なくとも江戸末期の170年前にペリーが軍船で訪れ、力づくで開国を迫り、不平等条約を結ばせた時からの歴史を語るべきでしょう。

 犠牲者が300万人だろうが1人だろうが、侵略は侵略だと、言葉の勢いで喋っているのだと思いますが、数字に几帳面な銀行家にしては乱暴な意見です。300万人の犠牲者を出せば侵略でしょうが、1人の犠牲者では侵略になりません。

 靖国参拝にアジア諸国が反対すると氏は言いますが、反対しているのは中国、韓国、北朝鮮の3国で、他の国々は何も騒いでいません。神社に政治家が参拝するかしないかは、それこそ中国が言うように「内政干渉をするな」の一言で済みます。

 済まないようにしているのは、西村氏のような有力者が「東京裁判史観」を鵜呑みにし、「日本がアジア諸国を侵略した」と国内で騒ぐため、中・韓・北の3国につけ入る口実を与えているからでしょう。

 「晋三はあの侵略戦争が分かっていない」と言う前に、ご自分が「東亜百年戦争」の歴史と事実を分かっているのですかと問いたくなります。

  ・終戦の年、広島、長崎に原爆が投下され、何十万人もの民間人が死んだ。

  ・沖縄では「姫百合の塔」に象徴されるように、年端もいかない数多くの女学生が自害した。まさに狂気の戦争だった。

 左翼系の学者が言うように、西村氏もこんなことまで政府と軍の責任にしますが、アメリカには次のような意見を言う団体があります。

 「破滅寸前の日本が何度も和平を打診して来たのに、ルーズベルトはそれを無視した。」

 「何もしなくても降伏するしかない日本だったのに、トルーマンは日本に原爆を投下した。広島だけで十分なのに、長崎にまで落とした。原爆の実験を兼ねていたからだ。」

 千葉の片隅の年金生活者の私でも知っている事実を、一流銀行のトップが知らないとしたら、知的な怠慢ではないでしょうか。原爆による広島の死者は20万人、長崎の死者14万人、B29による無差別本土爆撃による死者33万人ですが、文字通り女性や子供を含む民間人虐殺です。これこそアメリカによる「戦争犯罪」ですが、西村氏は目を向けません。

 「まさに狂気の戦争だった」と言う言葉は、東京裁判で一方的に日本を裁いたアメリカにこそ言うべきでしょう。しかし氏の日本批判はまだ続きます。こうなりますと松田氏が紹介する氏の「遺言」は、「ねこ庭」で読むと「まさに狂気の遺言」となり兼ねません。西村氏のためには著作で紹介せず、「メモ」のまま机の引き出しに仕舞っておけば良かったのではないでしょうか。

 とばっちりが私にも来て、今回も最終回にできませんでした。心の広い愛国者の方だけ、次回へお越しください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『絶頂の一族』- 29 ( 西村氏の安倍晋三氏批判 )

2024-05-08 12:02:58 | 徒然の記

  〈 第3章 叔父・西村正雄 〉・・ ( 西村氏の安倍晋三氏批判 )

 松田氏による、西村氏へのインタビューの続きです。

  ・西村は終戦の4ヶ月前に17才で早逝した姉の和子に話が及ぶと、低い声で怒りを露わにした。

    ・姉の和子は勤労動員で結核に感染し、それがもとで結核性脳膜炎で亡くなった。先立った母も、結核だった。

    ・姉は母親代わりになって私を育ててくれたんです。藤沢の家で、療養しながら亡くなった姉は、ある意味で戦争の犠牲者でしょう。

    ・姉の儚い死に、父が涙をボロボと流し慟哭していた光景を覚えています。

  ・戦争末期の昭和20年、西村は12才だった。旧制湘南中学に入学し、相模湾は米軍上陸の要所とされた。

    ・小学校から、僕は軍国主義の真っ只中にいたのです。近くの辻堂海岸で松林の根を掘らされました。飛行機の燃料代わりにする、松根油を採るためです。

    ・手には、直径約5センチの棍棒を武器として持たされました。「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神訓話が徹底して叩き込まれていました。20才までに死ぬと思っていた。

  ・神奈川県下への空爆は、昭和20年4月15日B29・200機による川崎・鶴見地区爆撃、同年5月24日のB29・250機による爆撃、同月29日ののB29・500機、P51・100機による横浜大空襲。これにより、横浜・川崎の二大都市が壊滅的な打撃を受けた。

  ・西村が迎えた終戦の日は、典型的な軍国少年が目標を見失う一方で、母や姉の不幸な死に報いるため、生きながらえる決心をした日だった。

  ・晋三の歴史観に対する、呵責なき批判の原点がここにある。

 松田氏は説明しますが、氏が紹介する西村氏の話のどこに呵責なき批判の原点があるのか、私には理解できません。

    ・占領軍のアメリカが来て、教科書が真っ黒く塗りつぶされた。

    ・新しい社会科やホームルームが出来た。アメリカが来て変わった。

    ・戦争中は、周りが非常にいびつな雰囲気だった。憲兵や特高が目を光らせていて、何より言論の自由がなかった。

  ・西村はそこで一息つくと、唐突にふと語った。

    ・戦争を知る人間が、その体験を戦争を知らない世代に語り継ぐことが、僕の人生の最後の役目です。

    ・戦争を知らない世代には、言うまでもないが僕の甥の安倍晋三も入っている。

 ここで私は、やっと西村氏の人となりが分かりました。敗戦となった日本がGHQの支配下に置かれた時、国民の多くがアメリカの寛大な統治に驚きました。「鬼畜米英」と教えられたのに、やって来た彼らは陽気なアメリカ人でした。

 「銃後の守りを固めよ」「勝つまで我慢 ! 」「戦意高揚、弱音を吐くな」と言われ、耐乏生活を続けてきたのに、ジープで街を走り回るアメリカ兵は子供たちにガムやキャンディーを気前良くれる。

 「これまでの我慢は何だったのか。」「国に騙されたきたのか。」

 呆然とした大人が沢山いましたから、12才の軍国少年だった氏が、「日本だけが、間違った戦争をした悪い国だ。」と言われ、その気になっても不思議はありません。私はここで、吉田元首相の著書『日本を決定した百年』の中の言葉を思い出しました。

  ・結果的には、アメリカの占領政策は、かなりの成功を収めた。理想主義的な改革は、戦後の混乱と絶望の状態にあった日本人に将来への希望を与えた。少なくともそれは日本人の生活を、単なるその日暮らしには終わらせなかった。
 
 つまり西村少年は、アメリカの占領政策によって希望を与えられたことになります。善良で一途な人であるほど強い感激をし、その反動が日本政府と指導者への不信感や怒りに変わりました。日本中の新聞が日本の軍国主義を批判し、連合国を称賛する記事を書いたので、一層世論がその方向へ向きました。
 
 そうなりますと善良な人は、西村氏のような気持になります。私も、アメリカ兵のジープを追いかけ、ガムをもらって喜んだ子供の一人でしたから、氏の気持が分からないではありません。

  ・戦争を知る人間が、その体験を戦争を知らない世代に語り継ぐことが、僕の人生の最後の役目です。

  ・戦争を知らない世代には、言うまでもないが僕の甥の安倍晋三も入っている。

 しかし氏が一流銀行の頭取をした人物なら、こんな考えで終わってはいけません。語り継ぐ戦争とは何を言うのか、その中身が問題です。ウクライナ戦争とイスラエル・ハマスの戦争を見ても、どちらの言い分に正義があるのか当事者以外には分かりません。

 双方が国の歴史と愛国心を背負い、相手を斃さずにおれないほどの怒りを燃やしています。そしておそらくこれが、国際社会で繰り返されてきた過去の戦争です。

 「日本だけが間違った戦争をした。」「悲惨な戦争を二度としてはならない。」

 安部元首相への怒りを燃やす西村氏の中にあるのは、残念ながら「東京裁判史観」であり、一面的な日本批判と言わざるを得ません。「悲惨な戦争を、二度と繰り返してはいけない」という思いは世界共通の願いなのに、なぜ戦争が無くならないのか。第一次世界大戦後に、国際連盟が作られた理由もそこにあったのに、なぜすぐに第二次世界大戦が起きたのか。

 日本の財界のトップにいる人物なら、そこまで考えて欲しいと思います。

 毎年8月15日になるとマスコミが恒例の行事として、「終戦の日特集報道」をします。市井の老人たちが、「二度と戦争をしてはならない。」、「どんなことがあっても悲惨な戦争はダメだ。」とテレビや新聞で語ります。

 西村氏が無名の一般老人ならそれで良いのかもしれませんが、財界のリーダー的立場にいる人物の意見には、相応しくありません。日本政府を憎み、安部元首相を攻撃するのでは、何の解決にもつながりません。

 そうなりますと西村氏の意見に賛成し、氏の言葉を借りて安部元首相を批判する松田氏にも、疑問が生じてきます。感情論ではありませんので、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々にはもっと具体的な説明が要ります。

 終わる予定が伸びますが、大切なことなので次回も氏の説明を紹介いたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする