ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『絶頂の一族』- 28 ( 異父兄弟の再会 - 2 )

2024-05-07 21:15:03 | 徒然の記

  〈 第3章 叔父・西村正雄 〉・・ ( 『追悼秘話 安倍晋太郎』 )

 松田氏が西村氏の手記から引用する、氏の言葉です。

  ・兄の立場で言えば、確かに岸元首相の長女・洋子さんと結婚し、岸氏の秘書官をやったりした。政治をよく学ぶ機会を与えられたと思います。

  ・それはおそらくプラスです。だけれども、少なくとも、岸は岸、自分は自分で、岸の力で偉くなろうとか、そういうことは、全然思っていない。

  ・世間は勝手に苦労のないお坊ちゃんのように見ているが、とんでもない。内心では強く反発しながらも、表にはそれを表さず、そう言われることに言い訳をしない。

  ・しかし見てろ、ということだと思うんです。そこは多分に私と共通点があると思っています。私は安倍晋太郎が兄であることを、全然重荷に感じていない。

  ・おそらく兄も、岸さんの存在に関しては同じ心境だと思います。

 西村氏の言葉の意味を、松田氏が補足説明しています。

  ・この手記は晋太郎の死の直後に書かれたものだが、晋太郎は終生、岸は岸、安部は安倍と、言葉にしなくとも両家の血筋に一線を引いていたことが窺える。

 岸家へ養子に来たわけでないのに、妻の洋子氏も子供たちも岸氏になつき、岸氏だけを尊敬するように育てられています。これでは晋太郎氏が面白い訳がなく、家庭では隙間風が吹いていたことになります。

 次に松田氏は、二人が初めての再会の後、西村氏から晋太郎氏へ宛てた長文の手紙を要約して紹介します。

  ・母静子は明治38年11月、本堂恒次郎と秀子の次女として生まれた。

  ・恒次郎は岩手県の士族で陸軍軍医、秀子は山口県出身の陸軍大将大島義昌の長女

  ・大島家は、安部家のある旧日置 ( へぎ ) 村の隣村菱海 ( ひしかい ) 村の旧家

  ・こうした関係から静子は、安部家の当主安倍寛と結婚、兄晋太郎が生まれた

  ・理由は分からないが、母静子は生後85日目の兄を残し安部家を離れた

  ・父西村謙三と結婚したのは昭和2年で、同年10月姉和子が生まれた

  ・横浜正金銀行に勤める謙三は、家族を残してパリ支店に単身赴任。

  ・昭和10年に静子が発病し、東大病院に入院するも結核性脳膜炎として翌年の6月に亡くなった

  ・30才余りの短い生涯で、この時正雄は3才半だった

  ・姉和子は高等女学校へ入り、昭和19年勤労動員で胸を冒され、母と同じ経過を辿り終戦の4ヶ月前に17才で亡くなった

  ・母は、腹を痛めた兄弟が巡り会えたと知って、草葉の陰でどのように感じているでしょうか。

 手記を詳しく紹介しているのには、理由があります。西村氏の「憲法改正」絶対反対の根拠が、この経歴の中にあるからです。話があちこち飛びますが、以後の説明は平成20年に、松田氏が西村氏に直接したインタビューの内容になります。

 〈第3章 叔父・西村正雄〉のサブタイトルに、氏が「唯一晋三を批判できた、晋太郎の異父弟」とつけていますが、いよいよここから「安部元首相批判論」になります。

  ・私が西村と会ったのは、平成18年6月初旬のことだった。みずほファイナンシャルグループの名誉顧問を務めていた西村の執務室は、八重洲口から歩いてすぐのビルの7階にあった。

  ・長身でどこか相手に親しみを感じさせる柔和な笑みは、在し日の晋太郎にそっくりだった。西村は薄いブルーの背広を脱ぎ、白いワイシャツの襟を捲り上げて私と向かい合った。

  ・応接テーブルの隅には、晋太郎の追悼文集『安部晋太郎  輝かしき政治生涯』が置かれていた。

  ・晋三は当時51才にして、小泉政権の官報長官だった。その3年前の平成15年9月には小泉によって、まだ49才で自民党幹事長に抜擢され、駆け足で政権中枢に上る。

  ・しかし私は晋太郎が死を覚悟して特攻を志願した夜、徹夜で父と、別れた母や生きた時代について語り明かしたような、ある芯のようなものが晋三からはなぜか感じられなかった。

  ・平成20年晋三は総理に就き、「戦後レジームからの脱却」を掲げるが、一方であの15年戦争や原爆投下の廃墟から、日本がどう立ち上がってきたか、その不幸な時代を背負う言葉が抜け落ちているような気がしてならなかった。

  ・晋三は一体、その目で何を見て、嘆き、悲しんできたのだろうか。

 なかなか厳しい安部元首相批判です。昭和29年生まれの氏は私より10才年下になりますが、東條氏の自決失敗、吉田元首相のGHQとの対応、岸氏の巣鴨プリズンへの収容などの説明について、似たような印象を受けました。

  「松田氏は一体、その目で何を見て、こんな軽い説明をするのだろうか。」

 その氏が安部元首相を批判するのですが、事実を説明しているのでなく、自分の印象を述べているのですから間違いとは言えません。

  ・人は一人では生きられない。その来歴と彼を取り巻く人々を語ることは、とりもなおさず安倍晋三という人間がどこから来た、何者かという人間性を解き明かすことになるだろう。

 こういう意図を持ち、氏はこの著書を書き、人間としての芯のない安部元首相の姿を読者に伝えようとしました。そして現在「ねこ庭」のシリーズが28回となりましたが、私には安部元首相の姿が氏の意図と重なっていません。どうしてこういうことになるのか、結論を急がず考えてみたいと思います。

 予定がどんどん伸びますが、乗りかかった船ですから次回も続けます。 

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『絶頂の一族』- 27 ( 異父兄弟の再会 )

2024-05-07 15:06:03 | 徒然の記

  〈 第3章 叔父・西村正雄 〉・・ ( 『追悼秘話 安倍晋太郎』 )

 本のカバーには安倍元首相を中心に5人の顔写真が並び、この人物たちが「6人のファミリー ( 一族 ) 」でした。

  1.  岸信介 ・・ 安倍晋三の祖父、安倍晋太郎の義父 安倍洋子の父

  2.  安倍洋子・・ 岸信介の長女 安倍晋三の母 安倍晋太郎の妻

  3.  安倍晋太郎・・元衆議院議員・安倍寛の長男 安倍洋子の夫 晋三の父

  4.  西村正雄 ・・安倍晋太郎の異父弟 日本興業銀行元頭取 みずほホールディングス元会長

  5.  安倍昭恵 ・・安倍晋三の妻 森永製菓元社長・松崎昭雄の長女

  6.  安倍晋三 

 松田氏は岸氏の説明に著作の半分を使い、残り半分で5人の解説をしています。今回私が紹介しようとしているのは、4. 番目の西村正雄氏です。他の人々はこれまで何らかの形で姿を見せていますが、西村氏は全く語られていない異質のファミリーです。「憲法改正」反対を断固として主張する氏に、松田氏が自分を投影させているようにも思えます。

 果たしてうまく伝えられるか、そして今回を最終回にできるのか。二つの意味で私の足枷となっています。

 西村正雄氏を説明するには、安倍晋太郎氏の父・安倍寛氏の紹介が欠かせません。ウィキペディアでは、氏の略歴を次のように説明しています。

  ・安倍寛は明治27年、山口県長門市生まれ、衆議院議員、戦後は日本進歩党に所属した。

  ・安倍晋太郎は長男、安倍寛信、安倍晋三、岸信夫は孫。

  ・妻・静子は陸軍軍医監・本堂恒次郎の娘 のち離婚 

  ・終始一貫して戦争に反対し、軍部に睨まれ、選挙妨害を受けた
 
  ・昭和21年死去、52才

  ・若いころ、脊椎カリエスと肺結核を患い、健康的には恵まれなかった

  ・大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰(昭和の吉田松陰)」なと呼ばれ人気が高かった

  ・赤城宗徳とは当選が同期で、公私にわたって親交が深かった

 洋子氏がそうだったように、父の姿を見ながら育った晋太郎氏は父・寛氏を尊敬し誇りに思っています。また寛氏と岸信介氏は、戦前からの縁がありました。岸氏が東條首相と対立し大臣を辞め郷里へ戻った時、「防長尊攘同志会」を結成したことがありました。

 軍の支配下で政党政治の復活を目指したのですが、この時療養中の安倍寛氏が参加しています。後に洋子氏と晋太郎氏の結婚話が持ち上がった時、岸氏は「大津聖人の息子なら、間違いない」と喜んだと言われています。

 父・寛氏が若くして急死したため、地元山口県では岸氏の方が有名になり、もてはやされるようになります。細君の洋子氏も子供たちに岸氏のことばかりを語り、晋太郎氏は忘れられていく父・寛氏への思いが募っていきます。

 義父信介氏の後ろ盾で政治家の道を進んでいる晋太郎氏は、周りに語れない複雑な孤立感を抱いていました。そこでもう一度、安倍寛氏の略歴へ戻ります。

  ・妻・静子は陸軍軍医監・本堂恒次郎の娘 のち離婚

 晋太郎氏の母・静子氏は、乳飲児だった晋太郎氏を残して安部家を去りました。母は死んだと聞かされて育った晋太郎氏が、母が東京で生きていると知るのは大学生の時だったそうです。『絶頂の一族』と華麗な言葉が飾ってていますが、内容を知りますと『心労の一族』と読み換えたくなります。

 松田氏が引用しているのは、西村正雄氏が晋太郎氏の死後に出した手記です。

 『追悼秘話 安倍晋太郎』・・副題「兄は今、生涯探し求めていた母の元へ帰った」(  『月刊 Asahi』平成3年7月号 ) 

  ・兄晋太郎と巡り会ったのは、昭和54年5月46才の時だった

  ・「兄貴がいるのを知っているだろう。会わないか。」元興銀常務・伊藤三良氏から、声をかけられたのが最初だった

  ・兄晋太郎は政界で脚光を浴びていたので、名乗り出て迷惑をかけてはならない、自分の胸にしまっていた方が良いのではないかと考えていた

  ・何よりも、相手が自分の方を知っているかどうか、確かめようがなかったからだった

 伊藤氏の声かけがきっかけとなり、西村氏と晋太郎氏が初めて顔を合わせることになります。

  ・会った場所は、虎ノ門のホテルオークラ内の中華料理店の一室

  ・自分は、母と自分の子供の頃の写真と西村家の戸籍謄本を用意し、兄晋太郎は両親の結婚写真を手に携えていた。それが残された唯一の母の写真だった。

 その夜西村氏は、晋太郎氏に宛てて長文の手紙を出し、この手紙も手記に収められています。また晋太郎氏はこの再会を子供のように喜び、郷里の安部家の親類の人々に語っていたそうです。「僕に、弟がいるんだよ ! 」

 次回は、西村氏が兄晋太郎氏の秘めていた思いを語り、それを松田氏が手記から紹介してくれます。最終回にする予定でしたが、今度もそうなりませんでした。興味のある方だけ、次回の「ねこ庭」へお出でください。

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