組閣後わずか1ヶ月で、盧溝橋事件( 昭和12年 )に遭遇したのが近衛内閣でした。そのまま氏の著書を転記します。
「近衛内閣は閣議ののち、〈 政府は重大決意の上、華北派兵のための措置を行う。〉」「と声明を出し、国民の協力を求め、」「事件を〈 北支事変 〉、呼ぶことに決定した。」「するとその直後に、現地から、日中停戦協定成立の報告があったので、」「3個師団の動員は、延期することとなった。」
ところが閣議における動員の決定が、なぜかたちまち中国全土に伝わり、中国側の態度を硬化させてしまいます。まず蒋介石が、民衆をあげて徹底抗戦するという談話を発表しました。不拡大方針で事件の解決に動いていた、冀祭(きさつ)政権の首脳もこれに追随する態度を取り、現地日本軍の交渉が再び困難になりました。
日本軍の中で、拡大派と不拡大派が激論を戦わせている一方で、蒋介石もまた、国内の共産党勢力と戦っていました。共産党は日本と蒋介石に共通する敵ですから、現地日本軍首脳は、蒋介石と妥協したり、戦ったりしています。詳しい事情を知るほどに、戦後の左翼学者の単純化した説明の粗雑さが見えてきました。
蒋介石は、国民政府の中から共産党勢力を追放し、その後「中共軍討伐戦」を4度も行い、彼らを四川省から陝西省へと追い詰めて行きました。10万の軍を率いる中共のトップに立った毛沢東が、有名な「八・一宣言」( 昭和10年) を出したのはこの頃でした。
話が飛びますが、中国共産党の発展に注目したコミンテルンが、大正15 ( 1926 ) 年に、毛沢東に次のような指示を出しています。
・「国共合作」を推進すること。
・労働者・農民の武装化を進め、人民内の革命的勢力機構を打ち立てること。
・中国共産党が、革命の主導権を握ること。
コミンテルンの指示は、毛沢東の率いる中国共産党に、はかり知れない励ましを与えたと言いますから、下記「八・一宣言」はこの線に沿って出されています。45ページの、氏の叙述から転記します。
・中国は今や抗日しなければ、民族が滅びるほかはない。
・あらゆる政党・政権は、政見や利害にどのような不一致があろうとも、一切の内戦を停止し、抗日連合軍を組織せよ。
「毛沢東はこのように呼びかけ、最も敵視し、最後まで協調しようとしなかった、」「国民党をはじめ、各党各層に向って、抗日戦に同調するよう、」「活発に要求したのである。」
先に中国国内から共産党勢力を駆逐し、その後抗日戦をするという蒋介石に対し、毛沢東は、日本軍を絶滅させる方が優先すると主張します。毛沢東は後にソ連共産党と仲違いしますが、当時は信奉者ですから、コミンテルンの指示を守っていたと思われます。
昭和16年から17年にかけて、ソ連のスパイだったゾルゲと尾崎秀実が逮捕され、死刑になりますが、尾崎秀実は昭和12年から、近衛内閣のブレーンとなっています。そうなれば日本の重要政策は尾崎を通じ、ゾルゲに伝えられ、コミンテルンに届いていることになります。コミンテルンは、毛沢東に日本の動きを知らせているはずですから、すでにこの頃から、日本は大東亜戦争の泥沼に引き摺り込まれていることが分かります。
「負けると分かっている戦争に、軍人たちが走った。」「無謀な戦争に、国民を駆り立てた政治家たちの責任を問うべきである。」という、戦後の学者や評論家の意見には、やはり馴染めないものがあります。
「日本が戦争をやめようと思っても、火つけ強盗が火事を起こすから、引きずられてしまった。」
正確には覚えていませんが、林房雄氏が、著書の中でそのようなことを述べていました。コミンテルン、毛沢東、そして蒋介石を支援する米英の反日勢などが動き、日本はすでに、抜けるに抜けられない戦争に引き摺り込まれていたと言えます。単純な図式にすれば、蒋介石と日本政府は、世界の資本主義勢力と共産党勢力の代理戦争をさせられていたという、一面が見えます。
昭和13年の5月に、毛沢東が発表した『持久戦論』の背景には、複雑な国際情勢だけでなく、コミンテルンからの情報があったのではないでしょうか、
〈 持久戦論 〉
・戦争の勝利を得るのは、正規軍による戦闘だけではない。
・一般大衆を立ち上がらせ、これと組んでゲリラ戦をやることが極めて重要だ。
・人間そのものが武器であり、中国には億単位の武器がある。
・最終的には、中国の「人民ゲリラ戦」が必ず勝利を収める。
当時の中国の人口がおよそ13億人で、毛沢東は、一億人の人間を武器として消耗しても、国のためなら当然だと、考えていたと言われています。日本の人口が、7千万人くらいの時ですから、この点だけでも日本と毛沢東の物差しは違っています。
次回は、氏の著書から、毛沢東の共産党についてもう少し拾ってみます。