ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『太平洋戦争 - 上』 - 3 ( 日独防共協定の失敗 )

2021-11-22 19:09:18 | 徒然の記

 上田主席秘書官の談話です。

 「その結果、大使館員とナチとの連絡も密接になったが、」「陸軍側とナチとの関係は、想像以上に深く、」「最後には、大島中将のような陸軍武官が出て、」「日本軍人かドイツ軍人か、全くわからぬ態度や行動をとった。」

 大島浩武官の父親の大島中将まで登場し、初耳の話が、さらに続きます。

 「この日独防共協定に対して、ヨーロッパ各国に駐在する、日本の外交官たちからは、」「ドイツはヨーロッパの嫌われ者で、そんなものと提携しては、」「日本はますます、国際間での孤立を深める、」「断じて不可 ! という反対意見の電報も、連日、」「広田弘毅首相や有田八郎外相の元に、寄せられていた。」

 「西園寺公望公も、結局ドイツに利用されるばかりで、」「日本はむしろ、非常な損をしたように思われる。」「日本の地理的環境から言えば、英米と仲良くすることが最も良いのである、」「との態度をもらしていた。」

 しかし昭和10年から11年にかけて、大島武官とドイツ側の交渉で条約案文が出来上がり、覆せませんでした。

 「一度墨で書かれたものは消えないから、せめて濃い墨でなく、」「薄墨色程度の協定を結ぶ、」「と有田外相が語り、この協定はソ連を対象とするものではないという、声明を出した。」

 しかしその秘密付属協定には、次の二項が含まれていました。

  1. 日独両国の一方が、ソ連から攻撃または威嚇を受けた時は、他方は、ソ連の負担を軽くするような措置を取らない。

  2. 両国はこの協定と両立しない、ソ連との政治的条約を結ばない。

 戦後史を語る学者の意見で、近衛文麿首相は優柔不断で国の運命を誤らせたと教えられましたが、広田首相や有田外相も似ていたことが分かりました。

 「昭和3年から、敗戦の20年までの17年間、」「内閣は、16回交代している。」「しかもその理由は、主として、閣内の意見不一致によるものである。」

 渡部昇一氏の言葉を読めば、戦前のご先祖さまは、惑いつためらいつつ、その場その場を凌いできたのだと、分かります。緊張した国際情勢の中で、総理大臣の決断がいかに難しいのかという、証明でもあります。先日組閣したばかりの岸田総理についても、「優柔不断」というレッテルが貼られ、保守の評論家も批判していますが、もう少し様子を見てはどうかと言いたくなりました。

 現在は岸田派と名前を変えていますが、元々リベラルと言われる宏池会は、左翼系親中派の議員が多い派閥です。憲法改正反対、再軍備反対、中国の反対する政策に反対という、いわば党内野党勢力です。派閥領袖の岸田氏が、外相に親中派の林芳正氏、幹事長に同じく親中派の茂木敏充氏を当てましたが、私は驚きません。

 そんな岸田氏が、安倍内閣以来の日本学術会議委員の任命拒否を踏襲していることや、中国が嫌がるクアッドの、日本開催を進めていることの方に注目しています。

 世界の大国アメリカも、不正選挙で当選した大統領が、反トランプ政策を標榜しながら、中国に妥協するようなしないような、不思議な舵取りをしています。一方の大国中国の習近平氏も、毛沢東を真似て「漢民族の帝国」を再興しようと頑張っていますが、頑張りすぎて、「世界の嫌われ者」になっています。

 歴史を振り返りますと、岸田氏ばかりを責めるわけにはいきません。批判することは大事ですが、憎しみを先行させ、汚い言葉を浴びせるのだけはしたくないものです。衆議院の選挙で、国民の多くが岸田氏の自民党に票を入れたのですから、感情的な批判はやめようと思います。

 話が脱線したと思われる方もいるのでしょうが、そうではありません。本を読んでいても、「憲法改正」と「皇室護持」の旗を忘れることはしません。

 ここでもう一度、大畑氏の著書に戻ります。28ページです。

 「防共協定を各国との間に広め、日本の国際的地位の向上に役立たせたいとした、」「広田首相の構想は、民主主義諸国との関係では、見事に失敗した。」

 「こうして防共協定は、実際には、現世界秩序に叛逆しようとする、」「ファッシズム諸国との団結を、誇示する結果となった。」「このことはその後の日本の進路を制約し、新しい問題を今後に残すこととなった。」

 やはり私は、氏の説明に違和感を感じます。「現世界秩序に叛逆」という言葉で、氏は何が言いたのでしょう。ドイツと日本を除く、当時の世界秩序は、欧米列強によるアジア諸国の植民地体制でしたが、それが正しい秩序だというのでしょうか。

 氏の意見は、「現在から見た後づけの理屈」でしかありません。ドイツと日本が勝利していたら、その時はまた別の理屈で、敗戦国を語るのではないでしょうか。いずれにしても氏は、日本を愛する学者でなく、時流を上手に泳ぐ人物でないかと、そんな気がしてきました。

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『太平洋戦争 - 上』 - 2 ( ドイツと日本陸軍 )

2021-11-22 12:37:50 | 徒然の記

    1.  『日清戦争』   工学院大学教授 松下芳雄

   2.  『日露戦争』   東京大学教授 下村冨士夫

   3.  『第一次世界大戦』 早稲田大学教授 洞富雄

   4.  『満州事変』   武蔵大学教授 島田俊彦

   5.  『中国との戦い』  評論家 今井武夫

   6.  『太平洋戦争(上)』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

   7.   『太平洋戦争(下) 』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

 読書計画も、あと二冊となりました。今井氏と大畑氏の著作は、同じ時代を扱っていますため、内容が重なります。著者が違うと、視点が異なりますので、同じ事柄でも印象が変わります。

 「満州事変と、その後の中国に対する軍事行動が、」「世界列国の反発を招いて、日本は侵略者の烙印を押された。」「昭和8年、国際連盟を脱退し、日本は極東の孤児となった。」

 今井氏は満州事変について、もう少し丁寧に説明していましたが、大畑氏は簡単に片付けています。

 「極東で日本が、中国大陸への武力侵略を続けているのと並んで、」「ヨーロッパではナチス・ドイツが、再軍備宣言、ラインランド進駐など、」「次々とベルサイユ体制打破を、実行していった。」

 「世界の現秩序に挑戦した、この東西の反逆児が、」「防共の名のもとに手を組んだのが、昭和11年の〈日独防共協定〉である。」

 ナチスドイツと並べて語るトーンに、日本を犯罪国家として描く意図が感じられる気がします。私の理解では、大東亜戦争は「世界秩序の破壊」でなく、自衛のための戦争です。ドイツにしても、第一次世界大戦の敗戦の結果、過大な賠償金を要求されたと言う事情がありました。

 「元々〈防共〉は広田内閣にとっても、外交上の一枚看板であった。」「広田は中国に対し、〈防共提携〉を要求しているが、」「この提携を列国との間に広め、これによって国際的孤立を脱却するとともに、」「外交のイニシァティブを、なるべく軍から政府の手に回復していこうと言うのが、彼の大きな狙いであった。」

 「しかし現実には、日独防共協定の交渉は、軍のイニシアティブによって進められ、」「ドイツ駐在陸軍武官の大島浩と、リッペンドロップとの間で、」「正規の外交ルートを無視して進められたもので、それをのちに、」「政府の方針として決定、承認したものであった。」

 この意見も私には新しい視点です。ドイツとの連携を主張し、強引に押し進めたのは松岡外相と聞いていますが、氏の著書ではほとんど語られません。学者次第で歴史が書き換えられるという、一つの例と言う気がします。

 「問題の立役者大島武官は、初め対ソ情報入手のため、」「ドイツとの協力を使命の一つに課せられていたが、やがて大使館や外務省にも知らせず、」「ドイツ側と、防共協定の交渉を行っていたのである。」

 「彼は、大隈内閣・寺内内閣の陸相、大島健一中将の長男で、」「陸軍屈指のドイツ通であり、ドイツ語の会話力は、」「ドイツ在留邦人の中でも、並ぶ者がなかった。」「ドイツの政界、軍部に非常な信頼があったが、」「それだけにまた、ドイツの利益は、日本の利益であると考えるようになったところがあった。」 

 日本が国際連盟を脱退した昭和8年に、ヒトラーが政権を獲得しています。大畑氏の説明では、この時から日本の陸軍とのつながりが始まったとし、当時のドイツ大使だった小幡酉吉 (  ゆうきち ) 氏の談話を紹介しています。

 「ナチが政権を把握すると、日本の軍人が、ナチの言うことを無条件に信用し、」「次第に接近して行き、ナチと日本軍人が結びつき、」「ドイツ人のような日本軍人が、出て来るのではなかろうか。」

 ドイツ大使だった時の談話か、退任した後のものなのか、氏は時期を書いていません。

 「それでなくとも日本軍人の中には、ドイツ贔屓が多いのに、」「この上ドイツ心酔者が多くなってきては、国家のために大変なことになる。」「できるなら、ドイツグループ以外の軍人を、」「大使館付武官や、補佐官に持ってくるようにしたい。」「またナチとの連絡も、陸軍側ばかりにせず、」「大使館の書記官が努めてナチと接近し、連絡を緊密にしていかねばならない。」

 小幡氏の名前を初めて聞きますので、調べてみますと次のような経歴の持ち主でした。

  ・1933(昭和8年)5月に、外務省を依願退官した。

  ・1934年(昭和9年)7月から、1940年(昭和15年)4月まで貴族院議員。

  ・その後枢密顧問官となり、制度が廃止される昭和22年5月まで務め、同年8月9日に死去。

 今日からすれば、重要な二人の談話だと思いますが、世間でほとんど取り上げられていません。さらに氏は、当時のドイツ大使館上田首席秘書官の談話も、紹介していますが、スペースの都合で、次回の報告といたします。

 「ナチスとともに、17年間、超党派で、」「侵略計画を立てたと、言いたかったのだろうが、」「そんなことはない。」

 賀屋興宣氏がこう言って、東京裁判の不合理性を批判しましたが、もしかすると小幡氏は、ウエッブ裁判長やキーナン検事の「共同謀議説」を肯定している学者なのでしょうか。今は判断がつきませんので、このまま読んでいきたいと思います。

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