ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

学校崩壊 - 3 ( いじめの定義 )

2020-10-31 18:52:55 | 徒然の記

 いじめに対する「マスコミの批判」への、氏の反論の5番目です。

 5. いじめが確認できないのは、教師が信頼されていないからだ。

 「担任教師が、自分のクラスで、生徒がいじめられているというサインを、」「見落とすことは、まず無いと言っていい。」「教師はそれほど鈍感ではない。」「問題は、ここから先である。」

 「問題を確認するため、いじめられている子供を呼んで、話を聞いたとしても、」「別になんでもありません、という答えが返ってくるのがオチである。」

 ここで氏は、理由を4つ挙げます。

「 1. 子供の世界のことは、そう簡単に教師 ( 大人 ) に喋らない。

 2. いじめを訴えるのは、本人のプライドをひどく傷つけることでもある。

 3. 教師が介入すれば、自分が子供の世界からはじき出される恐れが大きい。

 4. 最近の教師の力に対する不信 ( 本当に抑えられるだろうか )も、あるだろう。」

 「ことは単純に、信頼のあるなしの問題では無いのだ。」「いじめは、そう簡単に確認できることでは無いのである。」

 氏はこう言って、4.番目を締め括りますが、1.3.4.の理由は、私から見れば、「教師への信頼」が、生徒から得られていない事実そのものです。二人で話をしても聞き出せないというのなら、教師の力量がないのか、信頼されていないのか、そのいずれかでしょう。納得できませんが、先へ進みます。

 6. いじめは、はじめから事実として存在する。

  私はこの項目の説明が、何度読み返しても、ピンときません。マスコミの批判が、こういう言葉でされていたという記憶もありませんし、意味不明の文章です。理解しておられる人がいれば、説明してもらいたいくらいです。

 「いじめは最初から、事実として、そこに存在しているわけではない。」「それぞれの生徒、教師、親が、それがいじめであると認定した時、」「初めて姿を表すものである。」

 え ! いじめは、そんな次元の話なのですか。氏の説明に、私は目を丸くします。

   我思う、故に我ありと、デカルトは言いました。つまり認識しないものは存在しないと、確かそういう意味だったと思います。いじめも、当事者や教師や親が認識しないと、見えないものなのでしょうか。三者が同時に認識しないと、存在しないのか。三者のうちの一人でも認識すれば、存在するのか。なんとも奇妙な意見です。

 「しかもそれは、それぞれの立場で、」「全く違った様相をしており、多数決で、」「民主的に、どれかに決めることなどあり得ない。」

 氏は一体、何を言っているのでしょう。こんな思考は、どこから発生するのでしょうか。自殺する子供がいて、その命を救うための検討をしているときに、「多数決」とか「民主的」とか、どこからそんな発想が生まれるのでしょう。

 「いじめた生徒が、いじめを認めないことなど、普通のことだし、」「周りの生徒も、他人に関心が薄いから、」「気が付かないことの方が多い。」

 ここまでくると、氏の意見は支離滅裂となります。ならば氏が、前項で述べた意見はなんだったのか。

 「担任教師が、自分のクラスで、生徒がいじめられているというサインを、」「見落とすことは、まず無いと言っていい。」「教師はそれほど鈍感ではない。」

 みんなが無自覚でしているいじめは、認識できないというのなら、教師は鈍感ということになります。この書き方では、いじめられているサインを常に見落としていることになると、私には受け取れます。転記する気になれませんが、締めの言葉を紹介します。息子たちも、「ねこ庭」を訪問される方々も、それぞれで判断してくださいと言うしかなくなりました。

 「とすると、誰かが " いじめの物語 " を作って、」「それを、関係者に押しつけることが、必要になってくるわけだ。」「学校では、教師がその役割を担うことになるだろう。」「教師がいじめを確認しようとするとき、」「ある種の力が必要なのは、そのためである。」

 現在、221ページの本の、50ページです。いわばまだほんの一部ですから、氏の力作を無碍に否定するのもためらわれます。多様な意見があるのですから、短慮に走らず、平常心を持たなくてはいけません。これまでだって、どれだけの悪書と、どれだけの反日・左翼学者に出会ったのかを、振り返ることで気を落ち着けます。

 本の裏扉に、出版社の推薦の言葉が印刷されています。長いので、その一部を紹介いたします。

 「これは、30年間現場の教師として、生徒と格闘し、」「10年前から、学校の危機に警告を発してきた著者が、」「今学校で起こっていることを、つぶさに報告し、」「なぜ現在のような状態に、立ち至ってしまったのかを示すとともに、」「再生への道を探った、衝撃的な本である。」

 氏の意見がどうであれ、日本の学校教育の現状を知るのは、重要なことです。出版社も、ここまで読者に推奨していますから、気を取り直し、ブログを進めます。次回は、最後の項目です。

 7. 校則・体罰・管理教育が、いじめを生み出すのだ。

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学校崩壊 - 2 ( マスコミの糾弾 )

2020-10-31 16:42:06 | 徒然の記

 昨日の続きから始めます。いじめに対する、「マスコミの批判」への氏の反論です。

 4. 自殺するのは弱いからだ。鍛え直さなれければならない。

  「最近のいじめは、歯止めがない。」「あっという間にエスカレートし、限界を超えてしまう。」「昔のガキ集団では、この限界が大体はっきりしていた。」「大人が、小さい時からそれを教えていたということがあり、」「ガキ集団のリーダーが、限界を超えさせないよう、」「力を発揮していたということもある。」「つまり、大枠を大人が抑えていたのである。」「最近は、それが全く崩れてしまったのだ。」

 「昔いたガキ集団のリーダー」というのが、氏の主張の一つのキーとなります。こうなりますと、私と氏の時代経験が一致します。私は少年時代、熊本、日奈久、北九州市と、何度か引越ししましたが、どこの土地へ行っても、年齢に関係なく、近所の子らが集まり、かくれんぼをしたり、缶蹴りをしたりしていました。

 集団には必ず「ガキ大将」がいて、その子が統率していました。一番年長で、力が強く、誰からも恐れられ、しかも慕われていました。隣の畑のトマトを盗んでこいなどと、よからぬ指示もしましたが、仲間内での弱いものいじめは許しませんでした。そういう時のガキ大将は、大人顔負けの裁定をし、喧嘩する双方をなだめ、叱り、納得させていました。「パン屋のよっちゃん」とか、「鍛冶屋の達彦さん」とか、顔は思い出せませんが、名前だけは今も覚えています。しかしそんな集団は、いつの間にか、無くなってしまいました。

 「最近、子供たちは、好きなことは何をやってもいい、」「というふうに、育っている。」「親は子供の欲しがるものを、なんでも買い与え、」「やりたいことは、なんでも認めてしまう。」「個性尊重、自由・人権第一という考え方が、それを支えている。」

 「世間の大人や学校までもが、子供を叱ったり、拒否することをやめつつある。」「欲望だけがどこまでも肥大化し、文化 ( 生活の仕方・人とのつき合い方 ) を、」「きちんと身につけることが、ほとんどなくなってしまったのだ。」

 「その一方で親は、自分の理想像に子供を当て込むことに熱中し、」「幼稚園の頃から、学習塾だ、ピアノだ、スイミングだと、」「必死に子供の尻を叩いている。」「子供は親の期待に沿うように、健気に努力するわけだが、」「遅かれ早かれ挫折するのは、目に見えている。」

 「誰もが、できるようにはならないからだ。」「しかし親はそうなった時、もっとがんばれ、やればできると、」「ハッパをかけるだけである。」「子供が生きる自信を失うのも、仕方のないことだ。」

 この意見に、私は半分賛成で、半分疑問を呈します。親の責任ばかりが大きなように聞こえますが、果たしてそうなのでしょうか。世間や学校が、子供を叱るのをやめつつあるのは感じていましたが、私はそうしませんでした。

 「銀( しろがね )も黄金も玉も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも、」と山上憶良の気持ちそのままに、私は子供たちを愛していましたが、叱る時は容赦しませんでした。今でも昔を思い出し、幼い息子たちを涙ぐませたことに、胸が痛む時があります。低学年の時から、スイミングや習字に通わせたこともありますが、自分の理想像に当てはめるためなど、一度も考えたことがありません。

 スイミングの目的は、体を丈夫にするためでした。泳げないままですと、海や川で溺れてしまいますから、自己防衛のためでもありました。きれいな字が書けないと、恥をかくことがありますし、立派な字が書ければ、それだけで尊敬される場合もあります。だからといって、ハッパをかけたこともなく、嫌ならやめさせました。子供に、生きる自信を失わせるような強制をする親は、たとえいたとしても、多数であろうはずがありません。氏の意見は、あくまでも事実の一部ではないのでしょうか。

 自分の子や孫も含め、子供たちは日本の宝ですから、自殺する子をそのままにしてはおけません。対策を考えているという点において、氏も私も、真剣さは同じだと思います。しかしその原因の分析方法というのか、アプローチの仕方というのか、うまく言えませんが、どうも噛み合いません。氏の言葉には、何か引っかかるものがあります。

 「こうして子供は、一方で甘やかされ欲望を膨らませ、」「他方で無理な努力をさせられて、自信を失い、」「生きている実感を、持てないでいる。」「こういう子供では、いじめられた時、」「割合簡単に参ってしまうことは、容易に想像できる。」「自殺するのは弱いからだというのは、その通りだとしても、」「そんなことを言っても、実践的には意味がない。」「言われたって、そう簡単になんとかできることではないのだ。」

 批判するだけでは、子供は救えないという、氏の意見に賛同します。現実に弱い子がいて、自殺しているのですから、助けることの方が優先します。

 「いま子供は、生と死の境目がはっきりせず、」「ダラーッとした生き方しか、していない。」「全ての子供が、危機的状況にあると言っていい。」「弱いのは、全ての子供なのだ。」

 これが 4.番目の項目の、結びの言葉です。たまにしか中学生を目にしない私と、毎日彼らと顔を合わせている教師との違いなのでしょうか。

 「今の子どもは、ダラーッとした生き方しかしていない。」という断定の仕方たに、強い違和感と不快感を覚えます。こんな目でしか生徒を眺められない人間なのかと、軽蔑したくなります。問題の深刻さを強調するため、「全ての子供が」と言っているのかもしれませんが、乱暴なくくり方ではないでしょうか。

 批判ばかりしていると先へ進めませんので、次回は残り3項目を紹介します。( 自分自身の子供時代と、自分の子供たちの昔を振り返りながら、私は読み続けました。)

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