元東大総長の南原繁氏は、GHQに協力し、「東京裁判史観」の集大成である「日本国憲法」成立に尽力した人物です。第3回目のブログで、私が整理した「年表」をもう一度転記します。
《・昭和20年9月 ミズーリ号にて降伏文書調印 GHQの統治始まる
・昭和21 南原繁東大総長 「東京大学社会科学研究所」設立 ( 反日・左翼学者中心 )
・昭和21 南原繁東大総長 「憲法研究委員会」設立 ( 反日・左翼学者中心 )
・昭和21 「日本国憲法」公布 ( 東京裁判史観による憲法 )
・昭和23 「日本学術会議法」公布 ( 注 : 日本学術会議設立には、GHQが関与し、物理学者仁科芳雄氏と共に、旧体制を刷新 )
・昭和24 「日本学術会議」設立 》
南原氏は、GHQの統治が始まった翌年に、反日・左翼系の学者を集め、「東京大学社会科学研究所」と「憲法研究委員会」を立ち上げています。昭和26年に、岩波書店から出された、『憲法を生かすもの』( 憲法問題研究会編 ) を読みますと、当時の状況が詳しく書かれています。
年表を見て、一番不思議に思ったのは、まるで氏が、GHQが作る憲法草案を待っていたかのように、学内の一流学者を集め、「日本国憲法草案」の検討を始めた、手際の良さでした。
ルイス・ベネディクトの「菊と刀」を読んだ人には、分かると思いますが、米国は日本統治をする前から、日本社会を学者に研究させています。彼らが作る「日本国憲法草案」も、日本の学者の誰に検討させれば良いのか、すでに個人名で把握していたのではないかと、私は推察しています。
先ほど偶然、面白い資料をネットで見つけました。国会図書館の電子資料で、『日本国憲法の誕生』と言うデータです。その一部を転記します。
「昭和20年2月、」「ホイットニーGHQ民政局長は、マッカーサーに対して、」「極東委員会が、憲法改正の政策決定をする前ならば、」「憲法改正に関する、GHQの権限に制約がないと進言し、」「GHQによる、憲法草案の起草へと動き出した。」
「2月3日、マッカーサーは、」「憲法改正の必須要件(マッカーサー三原則)を、ホイットニーに示した。」「翌4日、民政局(GS)内に作業班が設置され、」「GHQ草案(マッカーサー草案)の、起草作業が開始された。」
極東委員会には、ソ連がいます。占領軍が占領した国の憲法を作り替えることは、もともと国際法違反でしたし、ソ連がこれを知れば、厄介なことになります。「日本国憲法」の作成については、極東委員会の干渉を排除するため、マッカーサー自身も急いでいました。
ですから年表で見るとおり、こんな重要な「日本国憲法」が、昭和21年内に成立し、公布されています。こんなやっつけ仕事の、米国押し付けの憲法を、いまだに多くの国民が有難がっているというのが、私には不思議でなりません。
不思議といえば、もう一つあります。いろいろなデータを検索する中で知ったのですが、南原繁という人物は、反日・左翼でなく、左翼にも右翼にも批判的な、中庸の人物です。武力放棄の憲法を作らせておきながら、「軍隊のない日本は、独立国でなくなるが、それでいいのか。」と、当時の吉田総理に問いかけています。
この点を調べ出しますと、とんでもない横道へ入りますので、ここで止めます。私が引っかかるのは、果たして氏を「獅子身中の虫」、「トロイの木馬」と決めつけて良いのかという点です。どのようにしてGHQが、氏を屈服させたのか、もちろん私は知りません。当時のマッカーサーは、天皇陛下さえ呼びつけるような、絶対権力者でしたから、東大総長を従わせるなど、造作もなかったのでしょう。
ホイットニー少将の率いる民政局は、共産党員のスタッフが集まっていましたから、嗅覚の鋭い南原氏は、彼らに合わせる形で、東大の反日・左翼教授たちを集めたのでしょうか。
事情が色々あるにせよ、氏が、米国の作った「日本国憲法草案」を、国際法違反にならない形で成立させ、私たち国民を苦しめているという事実は、変わりません。氏もまた、敗戦後に「変節した学者」の一人であることを、私たちは知っておくべきです。
私の予定では、今回で「日本学術会議」のブログを終わる予定でしたが、新しい資料の発見があり、そうなりませんでした。「東京大学社会科学研究所」と「日本学術会議」が、GHQ統治下に作られ、いずれの組織も、民政局にいた共産党員スタッフとつながりがあるのだと、それを説明する予定でした。
息子や孫たちのためには、やはりそこまで書き残しておかなければと、そんな気がしています。「ねこ庭」を訪れる方々も、よろしければ、次回に足をお運びください。