頭が良いことはいいことだ。だが頭が良すぎるということはまた困りものだ。
普通の人が習得するのに時間がかかるところをさっさとマスターする。
普通の人の手の負えないところもさっさと習得する、すべてを習得して「絶対知」にいたったらどうなるか、もうほかに学ぶものはないから自己を神格化するか破滅するかだ。
三島由紀夫という人はそういう人だったと思う、今見てきた神奈川近代文学館の展覧会を観てそう感じた。
何しろその知識量が中途半端ではない。
学生時代に「王朝心理文学小史」なる「論文」を書き、詩もやる小説もやる、古典にも歌舞伎にも哲学にもなんにでも通じている、並大抵ではない。
ニーチェやボードレールは出て来るは、クラシック音楽に触発されて「蝶々」をかくは、ドイツ語は当たり前、「潮騒」はギリシアの「ダフニスとクロエ」が原型だし、「豊饒の海」とはラテン語が元になっているという。
三島をナルシストだという人は多い、だけどただのナルシストではない。
細江英江に写真を撮らせたのだって刺激がほしかったのであろう。
クレド・レーニとか言う人の「聖セバスティアン」の絵でオナニーしたという三島は、中年になってラ・トゥール描くセバスティアンに扮して写真を撮った、この時代にラ・トゥールを知っていることが驚きだが、その写真は「死の準備」だという。わずか四十とちょっとで「死の準備」とは!三島は明らかに「絶対知」に達している。
三島は「孤立のすすめ」でこういっている、「人間が理解しあえるという嘘」と。
他者を理解できないのだから自己を神格化するよりほかない。
そして自己の神格化も滅びたとき待っているのは「虚無的宇宙」だ。
「豊饒の海」の最後があのような形になったのは必然的に僕には思える。
しかし三島は心やさしい人だったのだろう。
何より猫を愛した、そして大神神社に取材に行ったときは母親のために百合を大事に持ち帰った。
専門家の三島の評価は知らない、ただ僕にはなんとなく彼の気持ちがわかるのである。
三島が現代に生きていたらどうか思う、高齢化、スローライフ、それでも死を選んだろうか。
人間とは平凡で愚鈍なほうがよほどいいのだ。
ほかのお客さんもそうだが、熱心に見ていたので帰りに寄ろうとした大佛次郎記念館に行く余裕がなくなった。
港の見える丘公園でケイタイを開き日本ハムが勝った事を知りうれしくなった。
僕はまだ当分死ねそうにもない。
普通の人が習得するのに時間がかかるところをさっさとマスターする。
普通の人の手の負えないところもさっさと習得する、すべてを習得して「絶対知」にいたったらどうなるか、もうほかに学ぶものはないから自己を神格化するか破滅するかだ。
三島由紀夫という人はそういう人だったと思う、今見てきた神奈川近代文学館の展覧会を観てそう感じた。
何しろその知識量が中途半端ではない。
学生時代に「王朝心理文学小史」なる「論文」を書き、詩もやる小説もやる、古典にも歌舞伎にも哲学にもなんにでも通じている、並大抵ではない。
ニーチェやボードレールは出て来るは、クラシック音楽に触発されて「蝶々」をかくは、ドイツ語は当たり前、「潮騒」はギリシアの「ダフニスとクロエ」が原型だし、「豊饒の海」とはラテン語が元になっているという。
三島をナルシストだという人は多い、だけどただのナルシストではない。
細江英江に写真を撮らせたのだって刺激がほしかったのであろう。
クレド・レーニとか言う人の「聖セバスティアン」の絵でオナニーしたという三島は、中年になってラ・トゥール描くセバスティアンに扮して写真を撮った、この時代にラ・トゥールを知っていることが驚きだが、その写真は「死の準備」だという。わずか四十とちょっとで「死の準備」とは!三島は明らかに「絶対知」に達している。
三島は「孤立のすすめ」でこういっている、「人間が理解しあえるという嘘」と。
他者を理解できないのだから自己を神格化するよりほかない。
そして自己の神格化も滅びたとき待っているのは「虚無的宇宙」だ。
「豊饒の海」の最後があのような形になったのは必然的に僕には思える。
しかし三島は心やさしい人だったのだろう。
何より猫を愛した、そして大神神社に取材に行ったときは母親のために百合を大事に持ち帰った。
専門家の三島の評価は知らない、ただ僕にはなんとなく彼の気持ちがわかるのである。
三島が現代に生きていたらどうか思う、高齢化、スローライフ、それでも死を選んだろうか。
人間とは平凡で愚鈍なほうがよほどいいのだ。
ほかのお客さんもそうだが、熱心に見ていたので帰りに寄ろうとした大佛次郎記念館に行く余裕がなくなった。
港の見える丘公園でケイタイを開き日本ハムが勝った事を知りうれしくなった。
僕はまだ当分死ねそうにもない。