だらだら日記goo編

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日本の美を求めて

2008-12-27 22:59:28 | インポート
カタログを見ると、パリでやった展覧会アンケートでも、「出港」が一番の人気だったようだ。
確かにこの絵はすばらしい、天然の岩絵の具にこだわるこの画家のよさが遺憾なく発揮されている、きらきらと光を反射して金色に輝く海に舟がただ一艘!
東京芸術大学副学長の田渕俊夫の退官記念の展覧会、日本橋三越だ。
田渕は若い頃は公募展に出品しても落選がつづいたという。
そんな失意のうちに大学院終了制作として作った「水」が学校買い上げとなり、28歳の「青木ヶ原」で、画壇で一目おかれる存在になったという。
田渕の作品は伝統的な日本画の世界に近く、花や自然を描いた作品が多い。
例えば「めだけ」といった雑草にもこだわる、しかもそのこだわりは尋常ではなく、同じ対象を何年にもわたって
スケッチするほどだという、雑草を通して人生が見える絵だ。
しかし田渕の絵は一筋縄ではいかず、ベトナムのバイクの喧噪を「時の証言」では表そうとする。
その方法が面白く、人形を透明なビニールでつくり、それを重ねて絵にする。
このベトナムの絵で、田渕は色彩は特に重要でないと気づいたという。
墨への挑戦がかくしてはじまる。
特製の土佐の和紙を使った滲む墨の世界だ。
圧巻は永平寺と鶴岡八幡宮に収めた作品だろう。
特に前者の作品は襖12面に表と裏に「春秋」と「雲水」が描かれている。
その他、若い時のアフリカ留学の作品、ヌードを描いた作品、都市を描いた作品と、抽象の世界へは行かずに、ソレでも現代性のある作品を堪能できる。
久しぶりに日本画の好い展覧会をみた。
年が開けると高島屋でも田渕の展覧会がある、期待したい。
カタログには画家自身の作品解説が収められています。


絵があるから生きている

2008-12-18 22:52:15 | インポート
寺田正明の言葉だそうだ。
あの戦争の中で、絵を描くことだけが自己の存在証明だった、そんな画家が八人集まり、戦争中わずか三回だけの
展覧会をやって解散したー集まった画家の名前は、靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本俊介ー会の名前を新人画会とした。
丁寧な展覧会で、定評がある板橋区立美術館が、またヒットの展覧会を開催した。
この新人画会を顧みる展覧会だ。
展示はこの第三回の展覧会が開かれた銀座の資生堂画廊の再現にはじまる。
資生堂画廊?そうだ、あの資生堂ギャラリーのことだ。
ギャラリーという言葉が敵国用語であることから、1943に名前を改めさせられたのだ。
しかし展示作品が少ないー当たり前だ、作品が戦災で消失したものが多いのだ。
三回の展覧会を合わせても、20点あまりしか確認できないという。
それを丹念で地味な調査をして掘り起こした板橋区立美術館には敬服せざるを得ない。
もっとも新人画会については、先行調査がある。
2001に広島県立美術館などで開催された、「靉光と交遊の画家たち」展だ。
その資料を元にしかし独自の調査で、はじめて東京で開かれるこの展覧会は勿論意義深いものがある。
三回の新人画会展では麻生三郎の作品が一番多く残っている。
特にアマリリスを描いた「花」は強烈に自己を主張している。
20点余りの確認された作品だけでは展覧会にならないから、1946にこの会が解散したあとの各画家の作品も展示ざれる。
特に1946に上海で夭折した靉光の自画像、これまた1948に夭折した松本に対して鶴岡は「死の静物(松本俊介の死)」で
是を弔っている。
研究所で学びながら、バーで働く大野五郎は居酒屋でビールでも飲んでいる「三人」が面白く、有名な井上の「東京裁判」などもある。
資料に目を移すと、例えば寺田の七三三一部隊への絵画慰問の様子やスケジュールも伺える。
戦争という狂気の中で画家たちが何を思っていたのか、重い課題を前に美術館をあとにした。


ホームページ更新してくれ!

2008-12-10 22:56:40 | インポート
某所から、うらわ美術館、氾濫するイメージのチケットが入った。
しかし、このうらわ美術館、ホームページの更新がまったく止まっている。
どんなイベントがあるのかとか、チラシの情報に頼るしかないのは情けない。
目黒区美術館も掲示板への返答がおろそかになっている。
今やネットも確実な情報源だ、美術館もまめに更新していただきたい。
さて先月のことになるが、相模原市民ギャラリーというところに行ってきた。
「片野湘雲とその一門」という展覧会をみるためだ。
片野湘雲といっても、こちらは名前すら知らないが、相模原は上溝に画塾を開き、吉川啓示といった院展画家を
排出したそうだ。
小さな塾から院展画家が複数出るとは、やはりすごいことなのだろう。
しかし、この人が変わっているのは、相模原におちつくまで、遍歴の生涯を歩んでいたことにある。
信州やら、東海やらにまでてくてく歩き、絵を描く。
その足取りがわかるのは、この人が写生帳をつけていたからにほかならない。
大きな足跡といえば、天龍市が天龍美術館を計画したとき、その計画に賛同して、趣意書に名前を連ねたこと、その中で荒木十畆と関わりがあったということだろうか。
画風は南画の様相がつよいが、独学で勉強したようだ。
謎の遊歴画家ーネット時代の今では求めるべくもないが、案外昔はごろごろいたのかもしれない。