だらだら日記goo編

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朝の儀式

2005-05-06 23:09:23 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、朝起きるとサラダなど軽い朝食をとり、薬を飲んでからコーヒーを飲みつつ新聞に向う。
徐々に眼が覚め、薬も効いてきてさあ一日がんばろうという気持ちになる。
毎日30分以上は新聞に向う、それが今日は新聞休刊日だ。
どの新聞もいっせいに休む必要はないとの意見も聞くが、東京新聞と毎日新聞は同じ販売店だ。
東京もはずれのほうに行くと産経の販売店はなく、讀賣に委託している。
という販売店の事情もあり一斉に休むのだろう、仕方ない。
しかし新聞がないのはさびしい、ということで今日は数日前からの新聞記事で読んでないところを探して読んだ。
国際、社会、スポーツ、読み飛ばしていたところがたくさんある。
麻布中学、高校の文化祭で、模擬店から食中毒が出たという記事もあった。
帰ってから麻布中高校のホームページを探して見てみたが、実に良くできたサイトだ。
「休み中に読みたい本」の紹介や、学園までのアクセスのページも丹念に作ってある。
それでいて食中毒のお詫びが儀礼的なのはいかがとも思うが、ともかくよくできておりのぞいてほしい。
http://www.azabu-jh.ed.jp

それはともかく、新聞のすみっこの記事やら広告やらいろいろ読み返すと面白い。
広告といえば去年「時代のアイコン」なる展覧会が松屋銀座であった。
僕は招待券を毎日新聞からもらっていったが、確かに広告は時代を映す鏡ではある。
トヨタの一連の「環境にやさしい」広告やら、東京メトロの広告、百貨店の広告工夫されていること工夫されていること。
こうやって新聞を丹念に読み返すと新聞を読まない人の気持ちがわからない。
やれネット社会だ、新聞は不要だととく人もいるが、所詮ネットでは自分に関心のあるテーマしかみないのだ。
新聞はありとあらゆるテーマを運んでくれる、ちょっと興味を持った記事をネットで調べると新しい世界が開ける。
先の麻布の件などいい例だ。
ネットは新聞を殺すのではなく、両者は補い合うのであろう。
帰ってみると新聞社から夕刊が配達されている、僕は朝しかとっていないので「無料」のサービスとある。
で、夕刊をみながらこの記事を書いているが「ベルリン、僕らの革命」という映画を観たくなった。
早速ネットで調べよう、また新しい世界が開ける。


人は死んでもその業績は残る

2005-05-05 22:47:34 | 日記・エッセイ・コラム
今日はさすがに毎日出かけて疲れたので休もうと思っていたら日本橋高島屋の芹沢ケイ助の展覧会が今日までということを知る。ここは午後六時以降に入場すると半額になるが、最終日は六時までということであわてていく。
一通りみてカタログを買って眺めなおすと展示品に物足りない、カタログにはあって展示されていない品がたくさんある。
しかし今日はあとで述べるが、展示内容について書く気分ではない、印象に残ったのを一点だけ。
芹沢はキクラデスというエーゲ海の島の石像を好んで描いたというが、それを描いた絵だ。
暗闇の中でその石像が小さく描かれている、まるで宇宙の沈黙の中でその存在を必死で主張しているようだ。
勿論芹沢の描いた意図はわからない、しかし僕にはそう思えた。
宇宙の沈黙におびえた哲学者はパスカルだ。しかし宇宙は神が支配しているともいえる。
実際カントが自然をきわめて合目的的に捉えたということは、自然法則と道徳法則が神の産物だからといえる。
そうであれば死後の世界というものも肯定的に捉えることができる。
イエスの十字架の最後の言葉は福音書記者によって異なる。
前に書いた「我が神我が神、なぜわれを見捨てたまいしか」が本当の言葉であると解釈されるが、神が宇宙の支配者なら「我が霊を御手にゆだねます」というルカも捨てがたい。
芹沢からこんなことを書いたのは事情がある。
忠節橋さんという人がいる。
国会議員秘書を務め、「薄れゆく記憶のなかで」という映画のDVD普及に尽力した人だ。
僕がネットをはじめたときからのお付き合いだが、さすが何事にも造詣が深い。
その方が重病におちいり、植物人間状態になってもう一年半になる。
ご家族の方がもう延命治療は必要ないと判断されたようだ。
おそらくもうじきお亡くなりになるだろう。
だが、忠節橋さんーあなたがこの映画のDVDに尽力されたことはみんなが知っている。
この映画とともにあなたを常に思い出すー安らかに眠ってほしい。
僕はあなたに嘆きや怒りの音楽ではなく、静かなフォーレの音楽を贈りたい。
死後の世界はわからない、しかし芹沢の絵のような無限の沈黙ではなく、神が支配している世界であると今は信じたい。


生きる力

2005-04-30 19:34:24 | 日記・エッセイ・コラム
世田谷文学館に「宇野千代」の展覧会をみにゆく。
一階の企画展示の場所だけではスペースが足りないので、二階の常設展示の一部も使った展示だ。
僕は宇野さんについて何も知らないが、感じたのはこの人が実にポジティブな思考をする人だということだ。
画家の東郷青児、評論家の小林秀雄、石原慎太郎、果てはアランまで交友関係も幅広い。
それでいてキモノの研究所まで作る。
会場には宇野がいろいろな人にしたためた手紙も数多く展示されていたが、細かい字で延々と続く長い手紙が多い。
どこからこんなエネルギーがと思うが、生きる力があふれていたのだろう、どんどん行動してポジティブに生きたから百歳近くまで生きられたのだろう。
宇野の言葉だ、「生きていくことが上手な人は、何よりも快活な人である。生きていくことが上手で、それで陰気な人、というのを私は見たことがない」「人はどうか知らないが、私はこの年齢になっても、好奇心がとても旺盛である。まるで子どもと同じである」
僕のようなうつの人とは違って、意欲の元となる神経伝達物質セロトニンがこの人の脳から常に出ていたのだろう。
羨ましさの限りだ。
この人にはおおよそ老いというような言葉は似合わない。
昨日紹介した79歳でブログをつくっている人と共通したところがある。
反対にいえば世の中にはこういう人と正反対の若者も多い。
引きこもりだ、ニートだなんだと言うが、たとえばネットの2チャンネルなどで時間をつぶすもの、まるで世の中を悟りきった風情をしているもの、金がすべてだというホリエモンなどなと゜。
僕も含めて宇野さんに学ぶべきことは多い。
帰ってアエラで紹介されていたセブンイレブンの野菜のサンドイッチを食べてみた。
レタスの歯ごたえがなんともいえない。
明日もまたがんばろうという気力が出てきた、幸福なんてこんなものかもしれない。


ゴールデンウィークはすいてる美術館

2005-04-27 17:02:08 | 日記・エッセイ・コラム
ゴールデンウィークの予定。混む美術館は避けて、郊外の美術館へ行こう、予定。

・世田谷美術館、世田谷文学館。
・府中市美術館
・川崎市民ミユージーアム
・川崎市岡本太郎美術館
・町田市国際版画美術館
・国立近代美術館工芸館

デパートの美術展もいろいろある。
松坂屋上野、空海と善通寺
高島屋日本橋、芹沢ケイ介

こんなとこを予定。
デパートは夜遅く行けばすいてるだろう。
「ぐるっとパス」の割引、毎日フレンドの会員割引も使いたい。
母の施設入所は六月なので一つ一つ準備している。
母が「現況届け」を出さなかったのでとまっている年金も5/13にまとめて振り込まれることを確認。
施設では利用料は年金でまかなうから大事だ。
案ずるより生むがやすしともいう、なるようになるとかまえていこう。



山を愛する人

2005-04-24 19:13:34 | 日記・エッセイ・コラム
いつごろから山に登っていないだろうか。
本格的な登山は高校時代だ、妙高山に登った。
朝の四時おきである、今ではそんなに感じないが当時はできるとは思わなかった。
途中でおにぎりの朝食だったがのどを通らなかった。
高山植物に感激したりいつの間にか頂上へ、佐渡が見えたときはひどく感激した。
あの感動を繰り返したくて、大学へ行ってからも高尾や秩父の山に日帰りで出かけた、いつごろからか山へ行くのをやめてしまった。
こんなことを考えたのは写真美術館で田淵行男の展覧会をみてきたからだ。
山岳写真家としての彼が記録したモノラル、カラーでの写真さまざま、安曇野の写真さまざま見ごたえがあった。
この人は心のそこから山が、そして小さな生き物が好きなんだなあと感じた。
ただの写真だけの展示でなく、写真についての田淵の言葉が引用されているのも良い。
ともかくスケールが大きい、大いなる山を前にしては、そこを歩いている人々の姿など米粒のようだということがよくわかる。
人はなぜ山に登るのか、そんなことは聞くほうが野暮というものだ。
しかしその山々にも今は環境問題の波が押し寄せているという。
田淵はまたそのことを警告した人であった。
ゴミの問題はいざ知らず、富士山の雪が解けるという話もあるーこれは田淵とは関係ないが。
総じて山を愛する人は礼儀正しい。
高尾の山を歩いていても、すれ違うと挨拶したものだ。
今の山事情はどうなっているのだろう。
季節もちょうどいい、ふと何年かぶりに山に行きたくなった。
展示の最後に安曇野のわさび田の写真があった。
なんともいえず懐かしさを感じさせた。
山を愛する人の心が今も昔も変わりないことを祈りつつ、会場をあとにした。
久しぶりだ、この美術館で良かったと思ったのは。
直写真美術館開館10周年の企画展示も同時に開催されていて、友の会会員あるいはぐるっとパス利用の方はそちらは無料です。ついでにどうぞ。