だらだら日記goo編

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上野の森で観音と出会う

2008-08-28 22:34:05 | アート・文化

会場はガラガラだった、しかし僕には知らないことが多すぎた。

まずこの「悲母観音」、仏教の「大慈大悲」に由来し、両性具有だとは。

そして画家は「悲母観音」を制作する前に、フリーア美術館所蔵の「観音」も描いている、二つを比べると後者の観音は男性性が勝り、前者の観音は女性性が勝る。

画家の心境に何があったのかわからない、しかし描き直した画家の心を思う。

下関出身の画家、東京美術学校日本画担当に任命され、しかし開校直前に死亡した画家、狩野芳崖、その回顧展を藝大美術館に観る。

展示は地下二階に限られ、三階の展示室では無料で台東区の催しもやっている。

しかし展示は充実したもので下関時代の絵画から、フェノロサに出会って狩野派の絵画に西洋絵画を取り入れようとして白羽の矢がたったこと、そして「悲母観音」への道と続く。

芳崖が活躍したのは幕末から明治への動乱期だ、その中で和洋折衷の独特の様式をあみだした。

具体的にはフェノロサの日本画革新運動でたとえば「仁王捉鬼図」、1886では輸入色料が多く用いられる。

驚くのは伊藤博文に贈った巨大な「大鷲」で、五大州世界をつかむ意味をこめたという。

ユニークなのはこの画家の国家的な仕事は弟子らと力を合わせてという考えで、下絵には芳崖以外の筆も入っていたとか。

そして「悲母観音」へと行くが、自身観音様と呼んでいた妻「よし」が死亡したり、「悲母観音」の幼児のモデルとして孫が推測されているそうだが、観音様が柳の枝を手にしている楊柳観音は病難救済を目的としているということから、著しく芳崖の個人的な状況を反映しているのではないか。

そのことは「悲母観音」の下のほうに妙義山が描かれるが、芳崖は妙義山に取材して「ここに観音様が降りたらよからう」と語ったということからも推測される。

ともあれこの「悲母観音」を絶筆として芳崖はあの世へ行った。

その後は模倣作多く「芳崖作」などと主張する者もあり、状況は混とんとしているという。

そのほか芳崖芸術の基礎として「模本」があげられるが、特に雪舟に近づくなどこの展覧会に新しい調査をして、芸術大学が行うにふさわしい立派な展覧会だ。


楽しみながら現代美術

2008-08-24 22:13:51 | アート・文化

東京都現代美術館が久しぶりに面白い。

といっても企画展示「スタジオジブリ・レイアウト」や「パラレル・ワールド」のことではない。

MOTコレクション「新収蔵作品展―若手作家を中心に」が面白いのだ。

それは若手作家たちが楽しみながら作品を作っていることに尽きると思う。

僕は「パラレル・ワールド」の招待券で観に行ったが、この企画展示には全く歓心しなかった、そのかわり常設展示に感心したわけだ。

まずは島袋道浩の映像作品から笑わせる。

「そしてタコに東京観光を贈ることにした」だ。明石の海でとったタコに東京観光の時間を贈る、何たる発想!

またこの人は「南半球のクリスマス」という写真作品も作る。暖かい季節にサンタになったら南半球のどこかにいる気持がするかなと、春の神戸でサンタの格好。

その島袋の作品の後ろではやかましい音が響く。

田中功紀だ、七つのビデオが流れる、ものがぶつかり合う映像だからやかましいのだ!

やかましいといえば田中敦子の「ベル」、二十個の電動ベルを一列に配置した!

ベルを鳴らすにはボタンを23秒以上押し続けなければならない。

もはや大家といえる奈良美智、草間彌生も登場、一階はこれで終わる。

岡本太郎の「明日の神話」が展示してあった三階へ行くとまた面白い。

ヤノベケンジの「ロッキング・マンモス」だ。

愛知万博で読売新聞が冷凍マンモスを発掘したアンチテーゼだ。

ロボットマンモスをマンモスが発掘されたシベリアの永久凍土の中に埋め一万年後に掘り起こすという途方もないプロジェクト、作家はそれを「巨大な20世紀の欲望」の象徴とビデオでいう。

大カタログの発売遅延が物議をかもした大竹伸朗の「ゴミ男」、目黒での個展の記憶も新しい小林考旦の大作品が「明日の神話」を飾った壁面を埋める。

そして最後は現代美術館で個展をやったマルレネ・デュマスの「ツイステッド」でしめるのもよい。

繰り返すが若手作家の遊び心、それが今日の僕のハートを撃った。


建築という舞台

2008-08-22 22:30:09 | アート・文化

戦争中は「資本論」を読んでいた人だ「あれは全く聖書だと思います」とカタログ収録のインタヴューに答えている。

しかし晩年は洗礼を受けた、洗礼名は「アッシジのフランシスコ」

この人の心中を思う。

建築家村野藤吾、その回顧展を松下電工汐留ミュージアムに観にゆく。

この人の回顧展は目黒区美術館でもやった、まあ、現在の目黒区総合庁舎がこの人の設計だから目黒でやるのも当たり前だ。

この人は油土模型によるスタディを欠かさなかったという、それと関係あるのかこの人の建築の特徴は土と建物を融合させつなぎあわせるところにあるといわれる。

手がけた建築物もすごい、長生きしたためもあったろうが、「自分の建築学的生命をこれにかけよう」としたそごう心斎橋、1936に始まり、世界記念平和聖堂、1954、日生劇場、1963、千代田生命本社ビルー現在の目黒区総合庁舎、1966、新高輪プリンスホテル、1982と続く。

しかしこれでは単なる建築の紹介で、今週号の「週刊新潮」にも載っていたが、この展覧会の最大のハイライトは、1938年に南米移住者輸送を目的に作られた「あるぜんちな丸」とその姉妹船「ぶら志る丸」のインテリアデザインを写真と大画面の3DCGによって再現することにあるといえるだろう。

これが晩年のホテル建築の原点となっていく。

日生劇場もまたすごく、そのこけら落としは1963/10,「フィデリオ」だったというが指揮者はベームだったろうか。

ホール天井には二万枚のインド産マド貝が使われたという!

最後の建築は谷村美術館、新潟県糸魚川市だったという。

木彫作家澤田政広という人の仏像彫刻を展示するための施設だそうだが、まさに大地とつながった建築の集大成がここにはある。

この人は頭に浮かんだものをすぐにメモ、メモ帳に間に合わないときは何でもかんでもにメモする性格だったとか、スケッチブック「筆のすさび」というのをあらわし、様々な人々の後ろ姿や斜めからの姿を描写したというが、その中に指揮者ホルスト・シュタインがあるのも面白い。

自宅は宝塚に、1940代から45年住み続け、庭を飾る花を美しく見せていたというが阪神大震災で被災して往時の姿はないという。

しかしこの人の建築物はこれからも僕たちに何らかの示唆を与えてくれるように思う。


アートを着る

2008-08-18 22:35:11 | アート・文化

いやいや流石松坂屋だ、すごいものをお持ちだ。

はじめは女性の昔の服がただ展示してあるのかと行く気持ちもあまりなかった、チケットがあるから行ってみただけというのが正解だ、しかしその豪華絢爛たる世界は!

ただし場所は松坂屋ではない、サントリー美術館は「小袖」の展覧会だ。

まず小袖とはなんぞやということになるがカタログによると平安時代の上層階級の人々が下着として着用していたものが室町以後刺繍などによって美しく飾られ表着となったという。

で、何が描かれているかというと日本的な花鳥風月の世界であったり、「源氏物語」「伊勢物語」といった伝統的物語であったりする。

中には散らされた文字が描かれてあり、そこから何が読み取れるかという判じ物めいたものもある。

展示品は展示変えがあるが、僕のみるところ一番輝いていたのは「鶴小花模様腰巻」で、鶴が金で、その羽根を広げた姿は圧巻といえる。腰巻と小袖の関係はカタログ126ページ参照あれ。

洋画家岡田三郎助の作品もあった、岡田は絵の題材に古い時代の染織品を集め、特に古代裂のコレクターだったという。

岡田の「支那絹の前」と「婦人像」は全期を通して展示され、そこに描かれている小袖も合わせて展示されている。

展示の最後は松坂屋京都染織参考館がコレクションとして持っているものが展示されているが、「道成寺」の女がつけるお面とか、能装束の中でも最も豪華といわれた「唐織」とか、17-8Cにインドで作られた小袖とか、これに東京会場では展示されないが「源氏物語図屏風」とか「誰が袖図屏風」とか一級品をもっていることがわかる。

カタログの作りもよろしくてうまく自然風景の写真と組み合わせてみたり、「ひいなかた」と本物を組み合わせてみたりいつまで観てても飽きない。

さてさて今のへそ出しルックのお嬢様にこういう日本古来のDNAは伝わっているだろうかー美しいものをまといたいのは皆同じだから僕は然りと答えたい。


本当の幸せはどこにあるのか

2008-08-12 22:23:33 | アート・文化

「わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」

言うまでもなく宮沢賢治の人口に膾炙した詩の一節だ。

僕たちは「青い」という言葉に注目しよう、賢治は自らを「青い」といっているのだ。

今でこそ誰もが知っている賢治だが生前刊行されたのは「春と修羅」と「注文の多い料理店」にすぎなかったという。

しかも前者は自費出版で後者は自ら父から借金して二百部買い上げると、出版当初はほとんど注目されなかったらしい。

全国を巡回して今日本橋三越に「絵で読む宮沢賢治展」、東京新聞主催というのがきている。

しかしこの展覧会標題には語弊がある。

展覧会は二部構成で第一部は膨大な資料から宮沢賢治の生涯を読み解くというもの、第二部は賢治の童話に触発された人たちの絵本の原画を展示したコーナーだ。

第一部でも僕たちは知らない賢治にたくさん出会える。

有名な「雨ニモマケズ」の詩は手帖に書かれ死後トランクから発見されたこと、そこには1931.11.3という日付が載っていることー。

また賢治は大変なレコード収集家で畑を歩く有名な写真はベートーヴェンを意識していたこと、浮世絵の収集家でもあり、自ら水彩画も描いていたこと、しかし水彩画はあまりにグロテスクー地面から手が五本生えてくるという作品まである!-で意外な賢治を知ることもできる。

さて第二部、いろいろな童話にいろいろな人が挿絵をつけている、さらっと観ることもできるし、冒頭の賢治の「青」を意識しつつ、いろいろな表現を比べるのも一興だ。

カタログにはそれぞれの作家の賢治への思いがつづられていて、たとえばいわさきちひろは「はじめのうちは彼の作品が素晴らしすぎて手も足も出せないと思っていた」と語るが大方の作家にとってそうではないか。

しかし、と思う。本当の幸せを願った賢治、それはどこにあるのかと?

「イーハトーヴ」という地名が「著者の心象中」に「実在した」ものにすぎないように、法華経信仰を抜きにすれば本当の幸せもまたユートピア、つまりは「どこにもない場所」ではないかという疑念が僕にはぬぐえないのだ。

カタログはよく売れているようで見本がソファに置いてあるのに売ってないので係員に訊いたら「補充しています」とのこと、賢治人気の高さをうかがわせた。

このあと大丸神戸、川越市立美術館と巡回して全国展はやっと終わります。