会場はガラガラだった、しかし僕には知らないことが多すぎた。
まずこの「悲母観音」、仏教の「大慈大悲」に由来し、両性具有だとは。
そして画家は「悲母観音」を制作する前に、フリーア美術館所蔵の「観音」も描いている、二つを比べると後者の観音は男性性が勝り、前者の観音は女性性が勝る。
画家の心境に何があったのかわからない、しかし描き直した画家の心を思う。
下関出身の画家、東京美術学校日本画担当に任命され、しかし開校直前に死亡した画家、狩野芳崖、その回顧展を藝大美術館に観る。
展示は地下二階に限られ、三階の展示室では無料で台東区の催しもやっている。
しかし展示は充実したもので下関時代の絵画から、フェノロサに出会って狩野派の絵画に西洋絵画を取り入れようとして白羽の矢がたったこと、そして「悲母観音」への道と続く。
芳崖が活躍したのは幕末から明治への動乱期だ、その中で和洋折衷の独特の様式をあみだした。
具体的にはフェノロサの日本画革新運動でたとえば「仁王捉鬼図」、1886では輸入色料が多く用いられる。
驚くのは伊藤博文に贈った巨大な「大鷲」で、五大州世界をつかむ意味をこめたという。
ユニークなのはこの画家の国家的な仕事は弟子らと力を合わせてという考えで、下絵には芳崖以外の筆も入っていたとか。
そして「悲母観音」へと行くが、自身観音様と呼んでいた妻「よし」が死亡したり、「悲母観音」の幼児のモデルとして孫が推測されているそうだが、観音様が柳の枝を手にしている楊柳観音は病難救済を目的としているということから、著しく芳崖の個人的な状況を反映しているのではないか。
そのことは「悲母観音」の下のほうに妙義山が描かれるが、芳崖は妙義山に取材して「ここに観音様が降りたらよからう」と語ったということからも推測される。
ともあれこの「悲母観音」を絶筆として芳崖はあの世へ行った。
その後は模倣作多く「芳崖作」などと主張する者もあり、状況は混とんとしているという。
そのほか芳崖芸術の基礎として「模本」があげられるが、特に雪舟に近づくなどこの展覧会に新しい調査をして、芸術大学が行うにふさわしい立派な展覧会だ。