だらだら日記goo編

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

作品「見張る女」

2006-06-20 22:02:59 | アート・文化

別に友の会会員ではないが、世田谷美術館友の会の会報誌を読んだ。

世田谷美術館は友の会活動が非常に活発なところだ。

なんでもエイプリルフールの日、偽者の館長が美術館館内ツアーをやったという。

その中で「こちらの作品を御覧ください」

「見張る女」という看板の元本物の監視員が客の視線に耐えて座っているという、そんな場面もあったそうだ!

「見張る女」つまりは監視員は公立の美術館は特に厳しい。

いちいち書いているものが鉛筆かどうかチェックに来る。

作品に近づくなとかあれこれうるさいから観客とのトラブルも多いだろう。

美術館側としても困った事態たが、世知辛い世の中だからこそ、そんな監視員を作品「見張る女」として笑い事の種にした美術館の工夫には笑える。

そのうちエイプリルフールの珍事ではなく、実際「見張る女」という彫刻作品ができるかもしれない。


人物画を描かない画家

2006-06-18 22:09:10 | アート・文化

この人の青い空の絵を観ていると、以前何度も旅した九州の広大な風土を思い出した。

こういう広大な風土には放牧されている馬が似つかわしい。

画家もそう思ったようで阿蘇や雲仙にも取材旅行に訪れたようだ。

フランス留学前は牛にこだわり、帰ってきてからは馬というなんとも面白い画家だ。

石橋美術館開館五十周年記念第二段は地元久留米の画家坂本繁二郎だ、この展覧会も気合が入っている、会場のブリヂストン美術館は普段の常設展示をすべて取りやめ、坂本繁二郎一色となっている。

初期のこの人はイギリス風景画の影響があったようだが、39歳でパリへ留学、エコールドパリの真っ只中に留学するが、ピカソなんかよりコローに関心を持ったらしい、留学時期に比較的人物画を描くが、取り上げるのが乞食だったり、家政婦だったりまあ変わっている。

帰国後は故郷の馬の絵や静物画、能面などを描くが、能面などは普通人がかぶっているところを描くだろう、しかしこの人は能面だけを描く、人は描かない。

最晩年になると月を描くが雲にかかる深夜の満月でなければいけないと変なこだわりがある。先週の高野野十郎の月とは違ってこの人の月は黄色く妖しい存在感がある。

視力を失っても絵を描いたこの人は、記憶のなかの馬と月を組み合わせて内的世界を描いたりもする。

それにしても展示133の母子馬など、なんと慈愛に満ちていることか!

この人がなぜ人物を描かなかったのかはわからないが、この人唯一の戦争画とか、初期の生活を支えるための漫画寄稿とかいろいろ展示されていて面白い。

カタログは分厚いことこの上ないが値段は二千円と良心的、石橋財団は本当にすごい。


彼岸を垣間見た人

2006-06-11 22:27:05 | アート・文化

「椿」「けし」二つの絵だ、魂が吸い込まれていきそうな不思議な感覚を覚えた。

ともに赤い花が描かれているなんということはない絵ともいえようが背景が不思議に訴えているのだ。

そもそもこの画家の経歴からして尋常ではない、東京帝国大の農学部水産学科を首席で卒業するもその経歴とは無縁に絵の路に生きた人である、しかもどの団体にも属さないからごくさいきんまで知られていなかった画家だ。

ある人への手紙には「小生の研究はただ自然あるのみ」で上野の西洋名画展などまったくいきたいとも思わない、武蔵野の写真集を送ってくれた人がいるが迷惑だなどと平然と述べる人である。

でもって長瀞に取材したときは水の流れが止まって岸辺の巌が動くのが見えたなどと言う画家だ。

前置きが長くなったが画家は高島野十郎、その回顧展を三鷹市美術ギャラリーに観に行く。

一般には蝋燭の画家として知られている。

カタログコラムに今はなき久世光彦さんが述べるごとく「高島野十郎は独りの小屋に閉じこもって、夜な夜な蝋燭の炎を描き、それを惜しげもなく近隣の人たちに、挨拶代わの名刺のように与えていたらしい」なんとも奇妙な画家である。

この画家は蝋燭を描こうとしたのではないだろう、もう一つのこの画家のモチーフは月だが月ではなく闇を描きたかったというようにこの画家の関心は明らかに精神的なことにある。

そこには彼が親しんでいた仏教哲学があるのかもしれない。

この画家はひまわりを描いた裏に「色即是空 空即是色」などと書いて作品名を「空」とした。なんとも不思議な画家である。

カタログ別のコラムでミレーとの共通性を指摘する人がいるように解釈は多様であっていい。

しかし僕にはモーツァルトのクラリネット協奏曲がまるで彼岸の世界から聴こえてくるがごとく、この画家も彼岸を垣間見ていたように思えるのだ。

それにしてもこの画家の自画像の目は鋭い、どの自画像もそうだ、一体何を見ていたのであろうかー。

会場はゴッホとの関連が窺える絵や、太陽のモティーフ、静物画などいろいろ、この人の世界に存分に浸れる。


万人に美術を

2006-06-10 22:00:18 | インポート

やはり都会人は恵まれているといわざるを得ない。

大きな美術館がいくつもあり、半日使えば素敵な美術作品と出逢える。

しかし地方ではそうもいかない、大きな美術館など県立美術館くらいだ。

小さな美術館では予算も所蔵品も限られ、地方在住者、特にお年寄りや障害者、赤ちゃんを抱えた親御さんなど高級な美術品に触れる機会も多くはなかろう。

そんなわけで美術鑑賞の楽しさを知ることもなく一生を終える人も少なくないのかもしれない。

そんなわけで財団法人地域創造が「市町村立美術館活性化事業」というのを行っている。

平成十一年度からスタートした、県立美術館の豊富な所蔵品を小さな美術館に巡回させようという事業だ。

今年は八回目になる、岐阜県立美術館の所蔵品の現代美術作品を借りて「参加してエンジョイ展」なるものを企画した、八王子夢美術館を皮切りに倉敷、福井、愛知の小さな美術館を巡る。

で八王子に行ってきたがなかなかこれが面白い。

ご存知白髪一雄の作品もある、足で描いたアクションペインティングだが、その制作風景をビデオで見ることができる。

磯辺行久という人の作品も面白い。

俵屋宗達の雷神の絵を模写したものだが、たくさんの扉がついており扉を開けると小さい空間にいろいろな模様がえがかれているという趣向だ。

ベン・シャーンもいい。リルケのマルテの手記を絵画化したものだ。

サム・フランシスのような著名な作品もあればマイク・バーという名前も聞いたことのない人の作品もある。

触っていい作品と触っていけない作品の区別がはっきりしていないので監視員は大変だがいろいろ面白いことは事実だ。

高齢者、障害者、小さな子どもー日本中の誰もが美術作品に親しめるいい機会になればと思う。


ガラクタも人が見ればー

2006-06-02 22:29:11 | アート・文化

「侘びたるはよし、侘ばしたるは悪し」と利休はいったそうだ。

人為で完璧なものを求めるのも芸術だが、自然の味わいを求めるのも又芸術である。

今回の展覧会はその自然の味わいを主に器物に求めた人たちの展覧会だ。

人呼んでそれを「骨董」という、しかし興味のない人にはガラクタに過ぎない、古本屋で古びた本がべらぼうな値段をつけるのを理解不能とする人もいる、考え方はさまざまだ。

渋谷区立松涛美術館の「骨董誕生」の展覧会だ、「骨董」を展覧会の題名に付した展示は全国でもはじめてという。

この展覧会は「骨董誕生」を青山二郎の昭和十年代に置く。

青山が始めて焼き物を購入したのが1915,1920には美術市場が不況に陥ったというからまあ安くものが買えたのだろうか。

で、青山と並んでご存知小林秀雄やら白州正子がサークルを創っていた。

小林は青山が集めなかった「つば」を多く集めたらしい、で青山と白州はデルフトジョッキのぬくもりに魅せられたという。

しかし青山の「骨董」を生んだのもその前提があった、用の美を主張した柳の「民藝」だ。

今でも松涛のすぐ近くに日本民藝館があって今は柳の集めた日常作品の展覧会をしている、あわせていくと面白いかもしれない。

柳は日本各地を歩き、又朝鮮の芸術にも触れた人だが「丹波焼」を自慢していたらしい、日本民藝館の評判になると語っていたが実際評判になったか僕は知らない。

戦後は、白州のコレクションと安東次男のコレクションの比較だ。

安東は社会批判の詩を書いた人だそうだがよく知らない、最近まで生きていた人だ。

そんなこんなで地下一階の展示はものすごい量だ、それも解説文がきちんとついているから読むのに時間がかかる。

二階の展示は現代の数奇者四人のコレクションと古美術商坂田和実の扱う古道具だ、千葉県にAS IT IS美術館という坂田の美術館があるそうだ。

坂田の扱う古道具はまことに変わっている。

イヌイットのお守りがそうであり、手描日本地図がそれであり、しらみ取りようの受け皿まである。

こうなってくると何を骨董と呼ぶかが問題になるが、いみじくもこの収集が現代美術の最先端にかかわってくることは間違いない。

現代美術家たちもごく日常の風景を切り取って作品を創りあげているのではある。

こんな刺激的な展覧会がたったの三百円で観られるのである、閉館時間近くに藝術新潮が取材に来ていた、これからも波紋を呼ぶ展覧会になろう。