だらだら日記goo編

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五万年の記憶から

2008-05-31 21:39:29 | アート・文化

この人が「エミューの女」という作品ではじめてのカンヴァス作品を作ったとき、人々は絶賛したという。

しかしそれを観る僕にはこの作品のどこがいいのかわからない。

わからなくて当たり前だ、この人の作品にはアボリジニの五万年の記憶が宿っているのだから!

この人のテーマは大地だ、アボリジニが住む大地だ、具体的には故郷である「アルハルクラ」の大地だ。

それは点描を用いた作品でも線を用いた作品でも変わりはしない。

もともとは年長者として儀式をつかさどっていたという、それが80近くなって絵筆をにぎったのだ。

エミリー・ウングワーレ、その回顧展を国立新美術館に観にゆく。

彼女の描くものは大きく二つある、一つはこれまたよくわからない概念だが「ドリーミング」という個々人が守り伝える伝統のようなもの、精霊みたいなものーエミリーにとってそれはヤムイモだ、であるから彼女の絵画には地中で育ち地面に蔓をはやすヤムイモの象徴の如くにょろにょろした線がいっぱい描かれる。

そしてもう一つは「アウェリェ」とよばれる女性の儀式にかかわるものだ。

会場には体に描かれたデザインが板やカンヴァスにいかに反映しているかを示すコーナーもあり。

エミリーの描くアボリジニの大地は「大地の創造」が象徴的なように、緑と生命力に満ち満ちている。

西洋からやってきてオーストラリアの砂漠を描く画家が荒涼とした大地を描くのとは対照的だ。

だがそこにいったい何が描かれているのかは抽象絵画にも似てはっきりしない。

しかしよそもので日本人の僕らがそんなことを詮索しても無駄なのだ、あるいはわかったつもりになるだけなのだ。

アボリジニの人々にとってはごく自明のことを彼女は描いているにすぎない、だから「エミューの女」が絶賛されたのだろう、しかし僕らにはわからない、文化の断絶とはそういうことだ。

エミリーは亡くなる二週間前のわずか三日間で24点の不思議な作品を残している。

今回のカタログ表紙にもなっている、色の面で覆われた作品だ。

いったいエミリーが最後に観た風景とはなんであったのか不思議でならない。


苦手な地域を散策

2008-05-27 22:30:04 | アート・文化

誰にだって苦手な場所というのはあるだろう、僕の場合は六本木だ。

国立新美術館は殺風景極まりないし、サントリー美術館は赤坂見附のほうがずっとよかった。

今日は「ぐるっとパス」の期限も迫っているので、六本木界隈のちいさな美術館を散策。

まずは大倉集古館「東大寺御法・昭和大納経展」から。

期待はずれも甚だしい。

東大寺大仏昭和大修理が落成し、華厳経六十巻を奉納したというが、期待していた見返し部分の絵はわずかでほとんどが写経の展覧だ、意味もわからない。

意味わからないからサッサとみてしまう、カタログ五千円は法外だ。

で、サッサと退散してすぐ近くの泉屋博古館分館「近代日本画と洋画に見る対照の美」の展覧会へ。

これも前期後期でほとんどが入れ替わるし、結構な大作もあるのですぐ観終わる。

僕としてはジャン=ポール・ローランスや浅井忠は府中市美術館のほうがなじみがある。

収穫があったのは熊谷守一と、岡鹿之助の「三色スミレ」くらいなものだ。

時間が余るので千円払って菊池寛実記念、智美術館へ「現代の茶陶」へ、予定外だが仕方ない。

楽吉左衛門がフランスにて制作した茶碗は魅せるが、川口淳という人の「楽園文色絵近彩楽園体感的日器」、四点はあまりに陽気で笑ってしまう。

しかしこのスペースで千円取られるのもなんだかなー。

明日から新美術館では「エミリー・ウングワレー」がはじまる。

期待もしていないがチケットがあるのでついつい行ってしまうだろうなー。


死者の目線で

2008-05-23 22:06:38 | インポート

この人は常に死を意識していたという、展示冒頭にこの画家が作らせたライフマスクがあるが、石膏から顔を出したこの人は死を予感させるような表情をしていたという。

何を生き急いでいたのかと思う、寒風吹きすさぶパリの街を絵の題材となる場所を求めては歩き回り、死神に取りつかれたかのようにせつせと描き、わずか30歳で夭折した悲劇の画家、佐伯裕三―その回顧展を横浜そごうに観にゆく。

あまりに悲劇的だからか佐伯についての研究はかなり進んでいるという、今回は大阪市立近代美術館建設準備室のコレクションを中心に展覧する。

佐伯はご存じのように二回渡仏した、日本へ一時帰国したのを「留学」と表現するなど、何か日本人とは思えない表現をする。

もともと裕福なお寺の住職のこどもとして生まれた佐伯だ、金には困らない、パリに行っても不自由はなかったという。

しかしその重苦しい表現はなんであろうか。

カタログにはルオーは絵画を何度も塗り重ねたのに対し、佐伯は下地を厚く塗ることで重厚感を出したとあるが、なぜそんなにまでして重苦しい表現にしたのか。

かって「日曜美術館30年展」で識者がパリの街は夏と冬とではその相貌を一変させる、佐伯は冬の街ばかり描いていたから重苦しいのだといっていたことを思い出すが、しかし今回展示される作品には秋の街もだいぶ含まれている。

そうなるとこれはやはり佐伯自体の性質というか、生と死の結界に立って世界をみつめていたということではあるまいか。

晩年ーといっても20代だが、制作に行き詰まりを感じてモランに移った佐伯、そこではもはや佐伯のトレードマークの広告は描かれない、佐伯としては珍しく青い空も広がっている。

佐伯は死ぬ直前知人に「黄色いレストラン」と「扉」こそ自分の最高傑作だと話したという。

「黄色いレストラン」も黒塗りの扉が描かれた作品だ。

では二つの作品の「扉」の向こう側には何があるのか、僕にはやはり生と死の結界に立っている佐伯の姿しか想像できない。


美しい花にはとげがある

2008-05-18 22:35:01 | アート・文化

一口にバラといってもまあいろいろとあるものだ!

ギリシアローマ時代から栽培されていた古代種は「ガリカ系」「ダマスク系」「アルバ系」などなど、オールドローズの基本種は「ブールソー系」「チャイナ系」などなどーちなみにチャイナ系、つまり中国のものは東インド会社などインドを通してヨーロッパに入ったため「ロサ・インディカ」と呼ばれたというーそれにワイルドローズ、つまりは野生のバラがある、総数169点、それを科学的正確さと芸術的完成度の高さをもって表現したたぐいまれなる人物、言わずと知れたルドューテだ、その「バラ図譜」全点とそのほかのバラに魅せられた人々を紹介する展覧会「薔薇空間」にBunkamura、ザ・ミュージアムにゆく。

渋谷は通りを規制して鹿児島のお祭りをやっていたが、それとはまったく別の優雅な時間がここには流れる。

言うまでもなくルドゥーテは、ナポレオン妃ジョゼフィーヌと出会い、彼女の庭園の記録係となることからこの図譜が生まれたわけだが、その背景には当時の時代状況、新しい品種が海を越えてやってきて、旧来のバラと組み合わせて新しい系統が誕生するという一種の「バラ・ブーム」があったとカタログは指摘している。特に中国のものの四季咲き性は、人工交配熱に拍車をかけたろう。

しかしながら似ているバラの細部を細かく描き分けたルドゥーテの才能は高く評価されなければならない。

そのためか中にはロサ・レドゥーテア・グラウカ、ロサ・レドゥーテア・ルベスケンスといったルドゥーテのなまえを冠したバラもある、これは「バラ図譜」に解説を付けている植物学者のトリーという人が命名したそうだ。

それにしても花の中から葉っぱが出てまた花が咲くという面白いバラもあり写真を添付できればぜひ載せたいところだ!

ルドゥーテのほかにはアルフレッド・パーソンズという生涯素朴な田園風景を描き、日本にも滞在したことがあるという画家による「バラ属」から、日本からは「薔薇の博物館がない国は文化国家とは言えない」という奇妙な持論を持つバラの育種家鈴木省三から依頼を受けて二口善雄という人が描き平凡社から出版された「ばら花譜」からそれぞれ一部が出品されている、ルドゥーテの表現と比べるのも一興。

最後はバラの写真で締めくくり、齊門冨士男という現代写真家。

会場ではバラの香りを何箇所かでかぐこともでき、短めのビデオもやっている。

肩のこらない展示でカタログも眺めているだけで楽しい。

まだ始まったばかりなので混雑していないが6/15までと会期は短めなので早めに行かれることをお勧めします。


マルチ人間の陰で

2008-05-14 22:38:40 | インポート

なんでも「江戸文化を語る上では欠かすことのできない大御所」だそうだ。

しかし僕はその名前を聞いたこともなかった。

しかしたとえば肉筆画に賛を入れるのに膨大な量の依頼を捌くために門人に書かせたり、偽作も多く真偽の判定を難しくしていると聞けばただの人ではなかろう。

さらに「浮世絵類考」では31人の浮世絵師を取り上げて評価しているが現代でもしばしば引用されると聞けばやはり大物だ。

「蜀山人」の号を用いた大田南畝という人だ、この人の展覧会を太田記念美術館に観にゆく。

どういうわけか制服姿の高校生が目に付いたが先生の指示か、いい先生だ。

この人、大田南畝は18歳で処女作をあらわし、平賀源内の序をもつ「寝惚先生文集」で一躍有名になったという。

で、この人の肖像画をいろんな人が描く、北斎も描く。

どうやら前半生は狂歌檀の盟主となったようだ、「四方赤良」とかいろいろな号をもつ。

もちろん「蜀山人」の号もその一つだ。

狂歌が「俗」なら、漢詩は「雅」の側面だ。生涯の課題となったという。

その他、谷文晁、酒井抱一をはじめとする文人との交流などこの人の活躍には枚挙にいとまがないが、この人が黙して語らなかったことがある。

語られなかったから展示には反映されずカタログにのみ論考が収録されるが、それは息子のことだ。

「幾程もなく乱心して、ついには廃人になりたり」と別の人の日記にはある。

精神に異常をきたしたのだ。

親南畝としても治療の必要性を感じたということを示唆する日記が一か所見つかるというが、南畝の苦悩はいかほどだったであろうか。

そう思って晩年の肖像画をみてみるとまた違った雰囲気も見えてくるように思う。