だらだら日記goo編

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

しばらく休みます

2017-10-11 11:38:14 | 日記
明日、東京高検出頭です。
しばらく休みます。まあ検察も家が完成するまでお待ちくだされたので、融通が効くなと。
おそらくは、拘置所の病棟にとりあえずは入るのではと。
それから医療刑務所の確率が高い。拘置所で終るかも。
立川のときは、国家公務員2種の看守部長が僕の担当でー今は刑務官のこと看守とかオヤジとか呼んではならず先生と呼ぶー僕が自閉症スペクトラム
とわかっておられたから優しくせっしてくれて救われたものだ。
拘置所は本読む時間は山ほどあるから本とお金はもつていく。
哲学とは要は自分が変わること、それも考えが変わるのだけでなく、考えが変われば生きかたも変わるはずだから、全身的な変革の営みであるはず。
今では、ごく平凡な人間の営みの中にこそ真実は存在するとおもってますが、来年どう変わるか?
またよろしく。

どうしてますか、先生

2017-10-09 21:02:44 | 日記
父が死んだ時、浜井修先生は、1万円を送ってくれた。
修士課程だった。
この先生は、指導教官ではなかった。指導教官は、当時はまだ若き関根先生だったが、しょっちゅう海外へ行っていた。
従って、浜井修先生が、一人で、西洋倫理を専攻する学生をみていた。
当時は、あまり、浜井さんを良く思わなかった。
倫理学科の伝統への訣別と言って、和辻倫理学を批判し、自分の息のかかった社会哲学系の講師ばかり呼んでいた。
いきなり、和辻倫理学批判と言って、反発もあるだろう。
金子武蔵や、小倉志ようへと続く倫理学科の伝統の中で、和辻倫理学は、特別視され、批判を許さない雰囲気があったという。
金子や小倉の時代は、ドイツ観念論全盛期だった。
浜井さんは、また、倫理学が哲学の一部と見做されることにも異議を唱えていた。
それなら、哲学科の亜流だと。
だから、関根先生をもってきたのだろうが、こっちは、なぜ、倫理学科で旧約聖書を読まなきゃいけないのか、と反発した。だから、博士課程になったら、遊びはじめた。
しかし、浜井さんも僕のことを考えてくれていた。
修士課程に入学して、カントの宗教哲学をやりたいと言ったら、秘かに関根先生に話しをして、お前が指導教官をやれ、と命じたそうだ。
娘さんが、学芸大生付属中学だったから気にかけてくれていたのかもしれない。
しかし、僕は不肖の弟子だったし、その関根先生も、宗教哲学科になっちゃマズイと思ったのか、また、ドイツ観念論の専門家を呼んだ。
浜井さんの願いとは裏腹になってしまった訳だ。
浜井さんは、クリスチャンだと最近知った。
いろいろ裏切られ、どんな心境だろうか?赦しているか?
家を引越し、浜井さんの1万円が出てきた。仏壇に飾っていたのだ。
先生、どうしてますか?

親切の押し売り

2017-10-01 20:14:52 | 日記
は要らない。
美術館を廻っていると、監視員はやることないから、よく声をかけてくれる。
鉛筆を使えというのなら分かるが、以前鉛筆を使っていたら、それはダメという。
ダメな理由が、「芯が飛んで、作品に当たると困るから」、この人、マトモに言っているのか?と普通の人なら思うだろう。
鉛筆はダメで、美術館が用意したペンを借りることになるが〜横浜美術館だ〜「尖ったものはダメ」とか、納得する理由を考えて欲しい。
で、今日は練馬区立美術館行って、例によってメモしていたら、「余計なお世話ですが、受付に言えば、バインダーありますが〜」とか言う。本当に余計なお世話だと思ったから、すぐ、「要らない」と。
そもそも、良い気持ちになって、作品を見てメモしているのに、話しかけられる気持ちが分からないのか?
向こうは向こうで、せっかく親切に言ったのに、と思ったのだろう、しばらくこっちを見ていたが、それは、親切の押し売りという。
鑑賞している者の気持ちの分からない監視員など必要ない。
監視員は、なんかあったら、声をかければいいんで、別に苦労してメモしている訳ではない人間に、いちいちバインダーの話しする必要はない。せっせとメモしている者は、メモに夢中になっているので、放っておけばいい。
「芯が飛ぶ」「余計なお世話ですが、バインダーありますが〜」
なんかねえ。