だらだら日記goo編

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

セイレンの誘惑

2005-03-31 21:48:19 | アート・文化
というと、哲学者アドルノがギリシア神話によせて書いた物語を思い浮かべるが、今日は美術の話だ。
今行ってきた、ルネ・ラリック展に展示されていた「シレーヌ」という作品、「シレーヌ」はセイレンのことだ。
ラリックのこの作品はギリシア神話で船乗りを誘惑したごとく、僕をも一挙にラリックの世界に連れて行った。
観ていて惚れ惚れする作品ばかりなのだ。なんともなまめかしい造形ばかりだ。
ラリックといえば、ガラス工芸ではガレ以上に日本とかかわりが深い。
現在庭園美術館となっている朝香宮邸をつくったのがこのラリックだ。
展示ではそのことにも触れられていたが、なんと言っても1925年のアールデコ博覧会に出品された六体の「噴水の女神」の像には息を呑む。
この博覧会では高さ15メートルのラリックの野外噴水が話題になったという。
ラリックは自信満々であったろう、世界の博覧会に自分の作品の数々が話題をさらったのだから。
しかし時代は変わった。
「アウシュヴィッツ以降、詩作は野蛮だ」と語ったのは冒頭のアドルノだ。
だが野蛮なのは詩作だけだろうか。
美術はどうか、美術さえ歴史的、政治的コンテキストを離れて存在しないではないか。
それは僕が前から考えている美は人を救うかという問いとも軌をいつにしている。
だが、ラリックにこんな問いを向けるのは酷な事だ。
彼は1945年、第二次世界大戦の終結の年に死んでしまった。
この展覧会は「古い美」の最後の輝きかもしれない。
日本橋高島屋で4/11まで、午後六時以降に入場すると半額になってお得です。


それゆけ、日本ハムファイターズ

2005-03-30 23:32:53 | スポーツ
今日はサッカーが話題になっているが、僕は野球のこと。
昔から日本ハムファイターズが好きだ。
優勝は覚えていないが、今球団のゼネラルマネージャーをしている高田さんが監督の時代は良く覚えている。
球場にもよく足を運んだことがある、東京ドームだ。
内野も外野もがらがらで、修学旅行の一団だけが目立った。
ロッテと対戦するときなど、相手チームの応援のほうが、本拠地日ハムの応援よりすごかった。
日ハムの弱点は投手力だ。
だが一昔前は投手力はよかった。
西崎、柴田、金石などベテランが力を発揮していた。
父が死んだ日も日ハムと西武が試合をやり、柴田投手が完封したことを覚えている。
上田監督の時代である、投手も野手も極端な若手起用をしたのは、それが野手に関しては結果が出たが、投手に関しては今ひとつ結果が出ず、投手力のないチームということになった。
本拠地を札幌に移したのは正解だった。
道産子たちが「おらがチーム」と迎えてくれ東京時代では考えられないような応援になった。
人気者新庄を手にしたのも大きい。
派手なパフォーマンスばかり取りざたされるが、彼は根は真面目な男だ、打てなかった日は志願して居残り練習するという。
大リーグで成功できなかった男だ、このチームで今一度という姿勢がいい。
新庄が注目されれば、必然的に周りの選手にも日の目が当たる。
ムードメーカーとはそういうものだろう。
これまで今季は西武、ソフトバンクと強豪と対戦して二勝三敗、まずまずだろう。
何より先発投手がゲームを作れている。去年プレーオフに出た自信もある。
しかしこのチームはなぜか好成績が二年続かない。
不思議だが優勝争いをした翌年は五位六位という成績でファンをがっかりさせる。
まあ今年はオリックス、楽天というどう見ても弱いチームが二つある。
最低でも四位につけたい、もしそれ以下になればこのチームはホントに不思議なチームだ。


意味と無意味の間で

2005-03-29 23:21:17 | アート・文化
母の夕食をみたあと、森美術館へ行く。今日から始まった展覧会「秘すれば花」と「ストーリーテラーズ」だ。
どちらかというと前者は遊び心、後者はまじめという感があった。
前者は東アジアの現代美術だが、会場も「風水」の思想を取り入れたという。
ねっころがって天井のオブジェを見たり、作品の中に入ったりもでき、鑑賞者それぞれ楽しめる。
日本からはご存知奈良美智の作品もある。
ちょうど「アーティストトーク」が行われており、結構混雑していた。
遊び感覚ついでにケイタイで写真を撮るお客さんもいてこれはいただけない。
しかし僕は後者の展覧会のほうが楽しめた。
「ストーリーテラーズ」はStories Behind Picturesということだ。
絵や写真、ビデオの背後にある製作者の意図を読み解こう、という試みだ。
ほとんどが知られていない作家であり、無意味ともいえる作品でもあり大方の人は素通りしていた。
しかし無意味の中にどんな意味が隠されているのかを探るのはアート好きにはたまらない。
おおよそ、その「意味」の見当がついたのは僕には日本のイケムラレイコの作品だけだった。
カタログを買い、もう一度場内へ入る。
南アフリカのアパルトヘイトの闘争とかやジェンダーの問題が背後にあるとカタログを繰りつつ妙に納得した。
その意味でこの展示はこの前の森美術館の現代建築の展示の延長線上にあるといえる。
帰りに滋賀県の近代美術館で開かれた「コピーの時代」のカタログも買う。
しかしながら現代美術はオリジナル/コピーという二項対立を超えて自己増殖しているように思える。
帰ると世田谷美術館で開催されている展覧会のカタログが届いたようで、不在連絡表が入っている。
瀧口修造の展覧会で、これまた意味と無意味のすれすれのところの展示だった。
現代美術はどこへ行くかーそれを知りたい。
ゴッホは僕の年齢で自殺したが、僕は自殺するには煩悩がありすぎるようだ。


訳語の難しさ

2005-03-28 22:58:28 | 学問
哲学にはへんてこりんな訳語が多い。
understandingは理解力ということだが、哲学では「悟性」と訳す。
ドイツ語の「悟性」はVerstandだが、これは動詞のverstehen,やはり「理解する」から来ている。
カントのEinbildungskraftは「構想力」と訳す。
英語で言えばイマジネーションだが、「想像力」とは訳せない。
というのもカントの「構想力」はハイデガーも指摘しているように、感性と悟性を媒介するものという意味があるからだ。
「想像力」ではその意味はつかめない。
ついでに、カントのtranszendentalの問題もある。
以前は「先験的」と訳されたが、やはり意味的に「超越論的」と訳すのが今の常識だ。
でカントの重要な用語にtranszendental Apperzeptionがある。
これは「超越論的統覚」と訳す。
言葉は難しいが、意味は簡単で「私は考える」ということだ。
しかし日本語で「構想力」やら「超越論的統覚」やら言われても何のことかわかる人は少ないだろう。
こんな変な用語を使って議論するから哲学が一般大衆から離れる。
また哲学専門の中にはこういう用語を好んで使い、さも自分が知的エリートになった気になるものがいる。
「ハイデガーのダーザインがさあ」とか言っているやつだ。そんな言葉で話している人を昔研究室でみかけた。
けど昨日書いたように西田幾多郎が言うごとく「人生の悲哀」から哲学がスタートすべきなら、そんな難しい用語は願い下げだ。
ソクラテスが対話編で示したような世界、「無知の知」こそが哲学の出発点になるべきだろう。
まあ「無知の知」というと無知といいつつ、無知であることは「知っている」というアポリアがあるので、モンテーニュのように「私は何を知ろうか」といったほうがよい。
ともかく専門用語なしで哲学を語りたい。
しかし過去の哲学史との対決なしでは哲学ははじまらないことも事実で、そうすると哲学史批判には専門用語がいることになる。
欧米の哲学をむやみと受け入れてきた日本人にはなかなか難しいものがある。


悲哀のなかで

2005-03-27 22:52:42 | アート・文化
日本新聞博物館に「写真が伝えた戦争」をみに行く。
ディリー・ニューズ社の所蔵する写真約二百点あまりの展示だ。
太平洋戦争、日中戦争、朝鮮戦争が展示の範囲だが、著名な写真家による写真とは別の趣がある。
それは単に地上からの写真だけではなく、空からの写真が含まれていることだ。
広島の原爆投下地への照準とか、空襲を空から撮った写真とか。
こういう写真を見ると、人がなぜ残酷な行いをするのか、少しわかる気がする。
たとえ戦場であれ、兵士は女子どもや老人を銃なんかで殺すとき、ためらいを覚えるはずだ。
そこにいるのは敵というより、許しを請う弱い存在に過ぎないのだから。
レヴィナスの言うように怖さに打ちひしがれている人間の目は「汝、殺すなかれ」と語っている。
同じ人間ならその言葉にためらいを覚えないほうがおかしい。
しかし空からでは人間の営みは見えないのだ。
原爆であれなんであれ投下するのに人間が見えないのだから機械的にできるといえる。
著名な写真家の戦争写真をたくさん見てきたが、みな地上からの視点だったから、攻撃を受けたものの哀れさのみが強調された。
今回の展示のように空からの視点が加わると、なんと言うか加害者の立場にも立てたといえる。
しかし今現在でも世界中に戦争は終わることがない。
空中戦は「自爆テロ」とかますます激しくなっている。
弱者の視点というがその弱者とは何か。
結局家族を失い、自分も道端にほおり出された人間の視点ということだろう。
21世紀の哲学がまだ可能ならこういう視点からのみであろうと感ずる。
おおよそ堀江ナントカという他者の痛みもわからない人間がこれからの指導者になっていいはずもない。
かつて西田幾多郎は語った。
「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と。
21世紀の哲学に「希望」という文字は果たしてあるであろうか。
この展覧会は日本新聞博物館で6/26まで。常設展示も合わせて500円は安いですよ。
横浜港町の散策ついでにぜひ。