パソコンをいじっていたら、聖書の勧誘とかがきた。
インターホン越しに断る、そんなの相手にしてる暇はない。
前は相手にして相手の言い分を茶化して面白がっていた。
ともかくああいう信仰の人は自分の信仰が絶対と思っているから困る。
神の名を「エホバ」というのでそれは誤りだ、中世の異端だと指摘してもあれこれ根拠を挙げて直そうとはしない。
昨日も書いたがキリスト教が生き残るには「絶対」の誘惑から離れ、多元主義を取る必要があろう。
ヒロシマやアウシュヴィッツ、今のイラクの悲劇を目の前にして神が生きていると信じるほうがおかしい。
量義治という人がいる。
専門はカントだがキリスト教の信者でもある。
この人に「無信仰の信仰」という本がある。
十字架上のイエスに東洋的無を発見した衝撃の書とある。
イエスは死ぬとき「我が神、我が神、なぜわれを見捨てたまいしや」と叫んだ。
イエスは十字架において神に見捨てられた、神がなかったのである。神がない、無信仰とはそういうことだ。
神に見捨てられつつイエスは「我が神」と神に叫んでいる。神はやはりいるのである。
神がいないのにいる、それを量は「無信仰の信仰」と呼ぶ。
この逆説を東洋的西田幾多郎の哲学で止揚しようとするがその是非はおく。
重要なのは十字架のイエスと現代を神のない状態と重ね合わせて思索している点だろう。
神なきニヒリズムの時代において信仰はいかにして可能かということを指摘しているのだ。
昨日書いたニーチェの「神は死んだ」という現実を受けつつ、信仰は如何に可能かを模索しているのだ。
繰り返すがここに東洋的無を取り込む必要は今は置く。
大事なことは現代における信仰の可能性の模索だ。
ほかにもジョン・ヒックの宗教多元主義とかいろいろあろう。
いずれにせよ大事なのはニーチェ以後の神学だ。
それをあいも変わらず聖書至上主義がはびこっているから困る、もう時代遅れなのに。
インターホン越しに断る、そんなの相手にしてる暇はない。
前は相手にして相手の言い分を茶化して面白がっていた。
ともかくああいう信仰の人は自分の信仰が絶対と思っているから困る。
神の名を「エホバ」というのでそれは誤りだ、中世の異端だと指摘してもあれこれ根拠を挙げて直そうとはしない。
昨日も書いたがキリスト教が生き残るには「絶対」の誘惑から離れ、多元主義を取る必要があろう。
ヒロシマやアウシュヴィッツ、今のイラクの悲劇を目の前にして神が生きていると信じるほうがおかしい。
量義治という人がいる。
専門はカントだがキリスト教の信者でもある。
この人に「無信仰の信仰」という本がある。
十字架上のイエスに東洋的無を発見した衝撃の書とある。
イエスは死ぬとき「我が神、我が神、なぜわれを見捨てたまいしや」と叫んだ。
イエスは十字架において神に見捨てられた、神がなかったのである。神がない、無信仰とはそういうことだ。
神に見捨てられつつイエスは「我が神」と神に叫んでいる。神はやはりいるのである。
神がいないのにいる、それを量は「無信仰の信仰」と呼ぶ。
この逆説を東洋的西田幾多郎の哲学で止揚しようとするがその是非はおく。
重要なのは十字架のイエスと現代を神のない状態と重ね合わせて思索している点だろう。
神なきニヒリズムの時代において信仰はいかにして可能かということを指摘しているのだ。
昨日書いたニーチェの「神は死んだ」という現実を受けつつ、信仰は如何に可能かを模索しているのだ。
繰り返すがここに東洋的無を取り込む必要は今は置く。
大事なことは現代における信仰の可能性の模索だ。
ほかにもジョン・ヒックの宗教多元主義とかいろいろあろう。
いずれにせよ大事なのはニーチェ以後の神学だ。
それをあいも変わらず聖書至上主義がはびこっているから困る、もう時代遅れなのに。