だらだら日記goo編

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早く寝るにかぎる

2011-03-20 20:55:13 | インポート

原発の問題は依然深刻なようだ。

節電の空気が高まっている、デパートも午後六時で、閉店。

加えて東電の「計画停電」だ。

電力供給が需要に追いつかないために、計画的に電力供給を一部でストップするという。

先週の木曜は、「予測不可能な大規模停電」が起こる可能性があるとされ、電車は乗り切れない混雑となった。

結局大規模停電なるものは起こらなかったが、われわれがいかに明かりに依存しているかを知らされたものだ。

古代から夜になったら寝る、それに限るのである。

不必要な明かりなどいらない、それが、脳の伝達物質にもかなっているのだ。

今日は親戚の四十九日だった。

中野の林芙美子のお墓もある有名な寺らしい。

僕も塔婆をたてて、会食してきたが、お前は偉い、一人で何もかもやったといわれた。

一人でといってもほかにやってくれる人がいないから、やらざるを得ないのだが、まあ、母はいいときに死んだと思う。

四十九日が終わってから大震災が起こったし、四月以降に死んだら、相続税の課税が、大きくかかるところだった。

一人になってさびしいだろうと言われるがまあ自由な身になったので、夜に回転寿司を食べたり一人で楽しんでいる。

しかし東電、うちは株も持っていて配当は今までよかったのだが、この事故で相当配当も落ちるだろうな。


「私たちは助け合う」

2011-03-13 22:21:54 | インポート

昨日の東京新聞の社説のタイトルだ。

「神戸の震災では助け合うことをよく学んだ。

そこに住む人たちだけではなく、各地から援助の人が来て、物資が届いた。悲惨な被害に遭いながら、助け合うことで人間のすばらしさも学んできた」

地震が起こったとき、僕は母の遺産整理業務の契約中だった。

大きな地震だということはわかった。しかし震源は宮城だということでたいしたことないだろうと考えていた。

で、契約が終わって恵比寿の美術館に向かった。電車は止まっていたが帰るころには動くだろうと軽く考えていた。

で、タクシーで恵比寿へ向かったが、タクシーの中で町が津波に流されたとか何かとんでもない事態が起こっていると理解できた。

美術館は臨時休館、電車も動いていないからみなと同じでぞろぞろ歩いて渋谷へ向かった。

渋谷からも歩いてかえるつもりで、コンビ二でアンマンを買って歩きながらほおばっていた。

でみなでぞろぞろ歩いていると、反対方向から「どけ、じゃまだ」と怒鳴りながら一人の男が歩いてくるのが見えた、どうやら自分さえよければいいと思っている人のようだ。

家に帰ってテレビをつけると町自体が水につかる、とんでもない状況に驚いた。

さらに昨日になると福島の原子力発電所で日本初の事故が起こったと知った。

さらに今日はマグニチュードは9の巨大地震が起こっていたことを知った。

東京新聞の社説にあるように「私たちは助け合う」、肝に銘じたいと思う。

うちの父は大正六年の生まれで、関東大震災も経験した。

多摩川の水が逆流したと話していたのを覚えている。

当然第二次世界大戦も経験した、その父が最後に到達したのは「人間とは優しい」という世界観だった。

そうなのだ、広島長崎に原発が落ちても、神戸や新潟で大震災が起こっても日本は不死鳥のごとくよみがえってきた。

これから何が起こるのかわからない、しかし、人間の英知はそれらを乗り越えられるだろう。

もう一度言う、これから何が起こるかわからない、けど「私たちは助け合う」、人間は本来優しい存在なのだから。


ムーブマンということ

2011-03-03 22:54:16 | インポート

電車の中で図録を読んでいたら、後から乗ってきて隣に座った人が、「一政がすきなんですか」とたずねてきた。

こちらは、まあ招待券があるからとか、適当なことをいって終わりになったが、ああ結構知られてるんだなあと感じた。

日本橋高島屋で始まった「中川一政」展、会場では音声ガイドもビデオもやっているという豪華な展覧会だ。

東京は本郷に生まれた一政だが、すぐに母と姉をなくして、交通巡査だった父はショックで仕事をやめてしまったという。

一政の表現の欲求はまずは文学に向かった。

裕福でなく、美術学校へも行けなかった彼はたまたま兵庫にいるとき、ヨーロッパからの油絵の具をもらい、それで描いた作品が岸田劉生の眼に留まり、画壇に入ることになる。

しかし図録にもあるが、岸田とは根本的に考えが異なっていたようだ。

それは写実主義からの脱却だ。

一政はいう「美しいというより画は生きていなければー」

おそらく美術の教育を受けていないコンプレックスもあったのだろう、一政のあらわしたかったのは、胸に迫ってくる本能的な感動、それを「ムーブマン」と彼はいう。

五十六歳で真鶴に移って画業に専念、彼の特徴は、同じものを何度も描くことだ。

真鶴の近くの漁村福浦に魅せられて二十年間、同じところを繰り返し描。1967、再び風景に取り組むが今度は箱根は駒ケ岳だ。イーゼルに石をくくりつけて描いたという。

なぜ同じものばかり描くのか、彼は「描けといっているから」という。「向こうでも描け描けと」

われわれは中世の哲人が美を「呼ぶもの」と語ったことを想起せざるをえない。

美とは神秘的なものなのだ、本質的に。

そして同じものを描くうちに余計なものはそぎ落とされて、情熱を一点に集約していく、一政ならではの観点が感じられるようになる。

そうなのだ、美術学校なんて出ていなくても人はすばらしい絵を描けるのだ。

薔薇、ひまわり、そんなものも一政の心を捕らえた。

そして毎年個展を開き、彼は自分を確認していったのだ。

今中川一政の美術館は真鶴と、母親の故郷石川にある、ぜひ訪れてみたいと感じさせるすばらしい展覧会だ。