今日は今日とて世田谷美術館「ウナセラ・ディ・トーキョー」へ。七人の写真家の作品で東京を振り返る展覧会だ。
毎日遊び歩いている感じがするが、僕らの病気は一度悪くなると外出はおろか、パソコンにも向う元気がなくなるので、いけるうちにいこう。
しかし今のSSRIの薬を飲むようになって、体調が悪くなったことはいまだない、墨岡さんに感謝だ。
それはそれとて、会場に行くと写真がただ膨大に並べてある、写真の説明はおろか写真家の略歴解説もない。
時代も場所もわからない写真たちを前に、会場案内図でこれは銀座か、これは渋谷かと確かめていく。
ともかく何の説明もないので、年を召したご婦人のように宮本隆司の作品を前に「戦争あとだからねえ」と誤解されるのも無理はない。宮本が現代の廃墟を撮る写真家写真家という知識がなければ、モノクロ写真だし誤解されるのも無理はない。
というわけで不親切な展覧会だ、せめて写真家略歴くらいは会場にあってしかるべきだ。
しかも展示写真の数が多すぎて一つ一つを丁寧に観る余裕がない、従って写真が持つパワー、東京のダイナミックな姿はまったくといって良いほど伝わらない、「残像の東京物語」という展覧会の副題のごとくただ在りし日の東京、ノスタルジックな面が強調されることになる。
興味深かったのは荒木経惟のコーナーだ、エロティックな写真はまったくない。
例によって膨大な写真が展示されていたが、若い女性が「アッ下北沢」といっていたように身近な写真がたくさんある。
荒木は豪徳寺に住んでいるという、ということで世田谷線の写真とかもあり、世田谷在住には面白い。
逆に言えば世田谷に住んでいないものには、ただの一風景にしか過ぎないわけで、まあ人さまざま。
カタログは安いが、膨大な写真のごく一部しか載っていないのはどうしたものか、展示の意図とカタログ意図がかみあわない。
常設展示では村井正誠の特集展示だが、これまた解説など一切ない。
現代美術はその意図するところがわかりづらいが、解説がないので村井の意図はまったく伝わらない。
これで合わせて600円は高いか安いかー観る人によるだろうが、僕はその価値を感じない。
毎日遊び歩いている感じがするが、僕らの病気は一度悪くなると外出はおろか、パソコンにも向う元気がなくなるので、いけるうちにいこう。
しかし今のSSRIの薬を飲むようになって、体調が悪くなったことはいまだない、墨岡さんに感謝だ。
それはそれとて、会場に行くと写真がただ膨大に並べてある、写真の説明はおろか写真家の略歴解説もない。
時代も場所もわからない写真たちを前に、会場案内図でこれは銀座か、これは渋谷かと確かめていく。
ともかく何の説明もないので、年を召したご婦人のように宮本隆司の作品を前に「戦争あとだからねえ」と誤解されるのも無理はない。宮本が現代の廃墟を撮る写真家写真家という知識がなければ、モノクロ写真だし誤解されるのも無理はない。
というわけで不親切な展覧会だ、せめて写真家略歴くらいは会場にあってしかるべきだ。
しかも展示写真の数が多すぎて一つ一つを丁寧に観る余裕がない、従って写真が持つパワー、東京のダイナミックな姿はまったくといって良いほど伝わらない、「残像の東京物語」という展覧会の副題のごとくただ在りし日の東京、ノスタルジックな面が強調されることになる。
興味深かったのは荒木経惟のコーナーだ、エロティックな写真はまったくない。
例によって膨大な写真が展示されていたが、若い女性が「アッ下北沢」といっていたように身近な写真がたくさんある。
荒木は豪徳寺に住んでいるという、ということで世田谷線の写真とかもあり、世田谷在住には面白い。
逆に言えば世田谷に住んでいないものには、ただの一風景にしか過ぎないわけで、まあ人さまざま。
カタログは安いが、膨大な写真のごく一部しか載っていないのはどうしたものか、展示の意図とカタログ意図がかみあわない。
常設展示では村井正誠の特集展示だが、これまた解説など一切ない。
現代美術はその意図するところがわかりづらいが、解説がないので村井の意図はまったく伝わらない。
これで合わせて600円は高いか安いかー観る人によるだろうが、僕はその価値を感じない。