だらだら日記goo編

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

週刊朝日とサンデー毎日

2005-04-18 19:45:07 | 本と雑誌
僕は雑誌の「サンデー毎日」は高校生のときから読んでいる。
「週刊朝日」は大学時代に飛行機の中で読み、面白いと思いそれから読んでいる。
どちらも老舗の週刊誌でそれぞれ特徴があるが、長いこと読んでいるとだいぶ様変わりしたと思う。
「週刊朝日」は一昔前はだいぶ知的な記事が多かった。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」連載もあった。
しかし最近は大衆迎合的だ、倉田真由美だとか、梨本勝だとか、ドン小西だとかが連載している。
記事も軽々しい、「ネット音痴にもできるブログ超入門」など何をいまさらとの感がある。
朝日新聞にはもうひとつ「アエラ」という週刊誌もある。
一昔前は若い知的な女性をターゲットにした「自分探し」の記事ばかり載せていたが、今は「アメリカー帝国の神々」なる重厚な連載もしている。こんな連載は以前なら「週刊朝日」のお得意分野だったろう。
裏を返せば朝日は「週刊朝日」と「アエラ」でそれぞれ何を主張したいのか、どんな年齢層をターゲットにしたいのか迷っているともいえる。両雑誌の区別が明快でないのだから両方読む読者はともかく、読者が二分されるといえる。
「週刊朝日」は読者数がかなり減って会社も困っているというがこれでは無理もない。
主張をはっきりさせなければどんどん読者は減るだけだ、かく言う僕も購読をやめようかと思っている。
対してサンデー毎日は一昔前は「日本にピラミッドがあった」などという連載を続けていたが最近はかなり社会派路線に転じている。
「シリーズ憲法」「シリーズ学校」などがいい例で、それに日の丸君が代、個人情報、マイノリティなどはこの雑誌が良く取り上げるところだ。
連載コラムの執筆者も良い、江川詔子、佐高信、岩見隆夫、米原万里などがそろっている。
まったく広告に依存しない市民参加型の週刊誌「週刊金曜日」と通ずるところがある。
この雑誌の問題は大学入試特集だ。
大学の高校別合格者数などはほとんどの読者に興味のないところだ。
受験関係者は受験情報誌に頼るであろうし、東大が氏名の発表をやめた今、この企画は使命を終えている。
延々と合格者数だけ載ったページがつづけばやはり購読をやめようという人が続出するのは眼に見えている。
かくて朝日、毎日ともに凋落傾向にあるのは否めない、けど雑誌は出さねばならないとしたら記者も大変だ。
いっそのこと前書いた「週刊東京」のように新聞社の読者サービスと捕らえて、きわめて安価で提供できないか。
実際無料のR-25なる雑誌さえあるのだから。
最後に「週刊朝日」の記者のブログを参考までに記す。

http://asahi.way-nifty.com/asahi/



時はいつ美となるか

2005-03-24 23:09:09 | 本と雑誌
図書館で借りてきた、大橋良介「時はいつ美となるか」をざっと読む。
哲学者が書いたものだけあって、さまざまな知見がでてくる。
「時はいつ美となるか」とは「「時熟」という問題を「美」の領域に限定したとき出てくる問い」と筆者は前書きで言う。
それはまた「「美は人生を救済するか」という問いともひとつになっている」といわれる。
その問いへの答えは端的には62ページに出ている。
「美はおそらく救済するものではない。それはむしろ救済を必要としないものの相である」
牧歌的農村においては「「十字架」の救い主の原型は、四季のうちに生きる人間である」。
ということは「この人間が初めから救われてしまっているということである。人間はもともと初めから救われてしまっているのではないだろうか。そのことを見失ったもののみが、救済を求めるのではないか」と。
しかしながらそういう牧歌的世界から離れた現代においては事情が違うと筆者は語る。
バロックやロココの美的時熟の破れのひとつを筆者はフリードリヒにみる。
「美的時熟の闇が作品を覆うとき、美は単に時熟しないというのではない。美は破れるのである」
「美はここでは救済の原理としても沈んでゆく」と筆者は173ページに述べる。
卓越した論考である、しかし疑問も感じる。
まずは現代においてすべて「バロックやロココの」時熟が失われたかということだ。
おそらく緩やかなる時間が支配する空間はまだ無数にあるだろう。
イギリスの田舎やら日本で言えば直島だ。
直島はまたアートの島でもある。
http://www.naoshima-is.co.jp/first.html
この緩やかなる時の中で人は自分が「救われてしまっている」ことを体験できるのではないか。
第二は、この人の専門からする観念論的傾向である。
「精神性と感性の対峙」と筆者は述べるが、このような近代的二元論の枠組みがこの本を支配している。
さらに、道元と西洋哲学の近似性を勝手に述べるのもいかがか。
フィヒテやシェリングの「絶対者」の思想がそのまま「絶対無」に接しているとしてやたら「無」が出てくるが、東洋的無、特に西田哲学を西洋の論理に持ち込むのは、この国の学者の困った習慣だと思う。
とはいえ示唆にとむほんであることも事実で、「悲」の思想も本文中に出てくるが、これは後にこの人は「悲の現象学」にまとめることになる。
現代におけるゆったりした時間、スローライフのあり方も模索してほしかったきがする。



よみがえる日本思想

2005-02-18 23:27:11 | 本と雑誌
今日帰りがけに市倉宏祐「和辻哲郎の視圏ー古寺巡礼・倫理学・桂離宮」という本を買った。
東大の倫理学は少し前まで、和辻については暗黙の了解として語らないこと、批判などは絶対のタブーだった。
だから和辻に関する書籍で倫理学の出身の人が書いたものは勝部真長さんの和辻ヨイショの本くらいしかなかった。
和辻批判は哲学の出身の人、坂部恵さんとか宇都宮芳明さんによって行われていたのが事実だ。
しかし和辻倫理学にも当然問題はあるわけで、だんだん和辻批判を解禁する雰囲気が出てきた、倫理学出身の中でも。
そうしてたとえば、吉沢伝三郎さんの「和辻哲郎の面目」といったかなり私生活に触れた本やら、佐藤康邦という今の東大倫理学教授が編集した「甦る和辻哲郎」といった本が出てきた。
市倉さんの本もその延長線上にある。もともとこの人はフランス思想が専門だが、倫理学の出身である。
眼を転じて京大の西田幾多郎についてはもうさまざまな本が出ている。
哲学専門だけではなく、神学者やら精神科医やらいろんな人が西田について語っている。
それに比べて和辻の本は物足りなかったがこのところ次々と出ているのが喜ばしい。
西田や和辻といった日本近代思想が注目を集める、寄る辺なき時代に今一度伝統に帰ろうということだろうか。
明日は雨模様なのでこの市倉さんの和辻論でも堪能したい。


雑誌狂想曲

2005-02-14 23:01:27 | 本と雑誌
今日街中を歩いていたら「週刊ポスト」を小脇に抱えた若い女性に出会った。
以前は「週刊現代」を読みふけっているキャリアウーマンと思しき女性を車中で見た。
「現代」「ポスト」は言うまでもなくおじさんの雑誌、今の女性はこういう雑誌を読むことに抵抗はないのだろうか。
今日は月曜日、いろいろな雑誌が発売される。
火曜発売の「週刊朝日」「サンデー毎日」も東京では今日出るから、「アエラ」「ポスト」とともに四冊も購入する。
以前は最寄り駅の売店で買っていたが、顔を覚えられてしまい「いつもありがとうございますね」といわれるので、なんかいやになり、気が向いた売店で買うようになった。
東京にいる限り、まず売り切れるということはない。
売切れるどころか、発売前日の日曜日まで先週号の雑誌が売り場に大量に並んでいる。
月曜になれば、返品ということになるのだろう、雑誌の売れ行きはどうなのだろう。
そのうち売れないので週刊誌も一冊四百円、五百円という時代が来るかもしれない。


風鳴会

2005-02-05 00:49:30 | 本と雑誌
墨岡クリニックの正式名称は「医療法人社団風鳴会、成城墨岡クリニック」という。
今墨岡先生の本「ストレスとどうつきあうか」を読んでいたら、その「風鳴会」とは中原中也の詩から採ったものであるとあった。
引用しよう。

樹脂の香に朝は悩まし
うしないしさまざまのゆめ、
森なみは風に鳴るかな

そして先生は「人間の精神の深淵」を中也からかいまみることができ「生きていくのは大変であることを思い知らされる」とつづける。
詩人でもある墨岡先生らしい命名だ。
文学や哲学、詩などから僕らは多くのことを吸収できる。「人間」の「深淵」も勿論垣間見られる。
僕の場合はカントであり、親鸞であり、ニーチェだった。
若いときに読書することはだからいいのだ。
年をとり、人生に絶望した時、またその本を読む、すると以前わからなかったことがすんなり入ってくる。
読書離れとも言う。けどブックオフなどでとても安く本が手に入る。
携帯メールもいいがやはり本をすすめたい。