だらだら日記goo編

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神経質な人かな

2006-05-28 22:13:04 | アート・文化

よく知らないがどうもこの人はたぶんに神経質だったのではないだろうか。

フォーヴィズムの洗礼を受け里見勝蔵に師事したというが画風はゴッホ的だ。

何しろ細かい線で何度も書き直した跡がよく伺えるのである、一気呵成に描く人とは違う。

大野五郎、18で世に出て96にいたるまでせっせと絵を描いた人だ、といっても知る人も少なかろうが第二次世界大戦でほとんどの作品を失ったというから致し方ない。

その回顧展を八王子夢美術館に観に行く、今日が会期最後である。

度肝を抜かれるのが赤や緑の原色の多用だ、「木立」1958などどこかの熱帯林のようだし、「市場」1967もインドかどこか南国的な感じがする。

「三人」1969は男がどこかの居酒屋でビールを飲んでいる場面だが、冒頭の神経質そうな線がムンク的ではある。

この人は海を好んだようだ、1970代には藤沢、外房、伊豆とあちこちにアトリエを移して海の絵を描く、足摺岬、襟裳、いろんなところに旅したようである。

旅といえばこの人が洋行したのは還暦を過ぎてからとは驚かされる。

1971にトレドへ、1980にウイグルウルムチへ、1997には南イタリアへという具合だ。

そんなこんなでこの人も自在の境地に入ったと見える。

2002「あれまヒコーキ」なる意味不明の題で裸婦を描いた作品、2004「静か、しづかなりや山の里」は緑が美しく、2005「夕陽落ちて雪の景」は淡い赤が心象風景にも思える、そして展覧会直前に亡くなった画家だ。

しかし展示作品からは「海の」1961を第一に推したい。

雄大な空と海が広がり、ぽつんと人間が描かれた作品だ、画家は何を想っていたのだろう。

この展覧会では裸婦の作品はまとまって展示されるが静物画はまったく展示されないなどこれから研究が進むのであろうか。

なお介護ヘルパー実習が明日より八月はじめまでありますので、このブログの更新頻度は極めて少なくなることが予想されますがご了承ください。


伝統と近代の間に

2006-05-24 22:14:17 | アート・文化

この人もまた外国の美術愛好家によって「発見」された画家である。

2001年の「ルモンド」の表紙を代表作「百百世草」の「八つ橋」が飾り、2003-4、日本アメリカの四会場で大規模な回顧展が催されたという。

それに行けなかったので待ち望んでいた回顧展だ、画家は神坂雪佳、明治から昭和にかけて琳派の復興を志した人だ、日本橋の高島屋に観に行く。

なんでもアールヌーヴォー全盛の1901に渡欧したが、自分の進む路は「飾る美」としての日本伝統の琳派の世界にあると考えた人らしい。

確かに「光琳波」と呼ばれる水のデザインを受け継いだり、「光悦村図」のように、光悦が洛北に建設しようとした芸術家村を想像して描いたりもする、それどころか、光悦に習ったのか晩年は嵯峨野で芸術村を営もうとしたともいう。

しかし渡欧したり押し寄せてくる近代の波は確実にこの人にも反映していることはいっておかねばならない。

たとえば能に取材した「山姥之図」である、その不気味な眼球や伸びたつめは琳派とは異様な不気味さを併せ持つ。

あるいは「白鳳図」、昭和天皇の即位の大礼にあわせて作られたようだが、カタログの言葉を借りれば「手塚治虫が描くフェニックス「火の鳥」のようだ、という人もいる」

「百花」という窓掛けには圧倒される、巨大でまさに百花繚乱だが、その重厚さはヨーロッパ的だ。

かくして伝統に回帰しつつも時代の斬新さを併せ持つ画家ではある、画家というよりデザイナーだ。

さまざまな図案をしてたとえば弟と合作したりもする。

冒頭に書いた「百百世草」とは万葉集にも描かれた不老長寿の花というが、全部で三巻六十の図を描いたという、それが海外コレクターの目に留まったわけだ。

会場には琳派の作品から「なごみ琳派」、江戸期に大坂で活躍した中村芳中という人の作品までいろいろ展示されてずっと会場にいたい気分になる。

それにしても佐倉でもやったという大規模な回顧展、カタログが手に入らないか調べてみたい。


彫刻家の目指した世界

2006-05-22 22:17:21 | アート・文化

この人の彫刻への出発はロダンへの憧れだったという。

しかしながらたとえば「夢窓国師のおしえ」は禅寺の庭をモチーフとしているのはすぐわかるが、「クメール」だの「能楽師」だのはアブストラクト過ぎて何を表しているのかさっぱりわからないのである。

昨年現代美術館でも開催されたイサム・ノグチ、アメリカと日本を往復した芸術家の展覧会を横浜美術館で観る。

この美術館はチラシの一つもつくらないのだろうか、メモするものがないので「週刊金曜日」の裏表紙にメモして歩く。

出品数が少ないのでモレエ沼公園への路を展示した現代美術館と比べると貧相な展示ではある。

収穫はこの人もまた舞台芸術の装置とかかわったことだ。

マーサ・グラハムという人の「暗い牧場」の舞台装置、日本初公開という。

ビデオも上映していたので観たが、意味不明に思えた、カタログには古代ギリシャ的とあるのでまあそうかと思う程度。

面白いのは「魚の皿」1952だ、明確に魯山人の影響が見られる。

年表を見るとちょうど1951に鎌倉の魯山人の離れで陶芸をはじめるとありぴったりだ。

あとはどうもよくわからない「霊的理解の石」「見えるものと見えざるもの」1962イメージの背後にあるリアリティを追求したというが具体的にはどんなものかー。

やはりこの人はモレエ沼のように公共空間のランドスケープを追求したと思うが、今回の展示では多くは反映されない。

会場ビデオではブランクーシとのかかわりが強調される。

まあお客さんも少ないのでよろしいが、これがNHK横浜開局80周年プロジェクトとはちょっと情けない展示だ。


自己主張とは

2006-05-16 22:09:36 | アート・文化

この人の作品は赤を中心とする色彩感覚で強烈に自己主張していると思うが、本人はそう思っていなかったところが面白い。

いわく「私の不幸は自分の作品があまりに雄弁でなさ過ぎることである」

画家は梅原龍三郎、その回顧展を日本橋三越に観に行く。

いまさら梅原でもなかろうが三越は招待券があったのでいってみる。

梅原の作品もさることながら、梅原の交流関係にも力を入れた展示だ。

梅原がルノアールに会う前、「伊太利亜人」という作品は面白い。

何か野蛮な原始人の趣がある。

梅原と版画のかかわりも面白い。

版画への関心は1910ごろで春信のほうがロートレックよりすぐれていると感じたという、このことは後に柳との出会いで大津絵への関心に発展する、その手紙も展示される。

交流関係では岸田劉生が面白い。

劉生の「鬼退治」などまことに面白い。

白樺同人寄せ書きというのも面白い。

湘南地方が彼らの活動のメッカとなったようで、梅原も一時期鎌倉に滞在したという。

しかし寄せ書きに梅原は登場しない、劉生が圧倒的に多い。

その他粘土による塑像なども展示される、なかなか面白い。

日本橋三越の後はなぜか全国の大丸を巡回します。


予備知識なしに

2006-05-13 22:10:41 | アート・文化

若冲についてはというか江戸絵画についてはまったく知らない。

仲間内のブログでも話題なので宮内庁三の丸尚蔵館というところに「花鳥ーめでる心、彩る心、若冲を中心に」を観にいく。

行ったこともないので半蔵門線の大手町からてくてく歩かされたが、なかなか見事だ。

お目当ては若冲の「動植彩絵」全30幅、それが全五期にわたって展示される。

なんでもカタログによると「本作品の魅力を理屈で語るつもりはない。これまでに多くの研究者、評論家によってそれぞれに語られてきた」とあるがそんなことは知る由もない。

今回展示されているのは雪の中に鳥がいる図とか、南国風の棕櫚の中に鶏がいる図とかだが、ずいぶん細かく精緻に描かれたものだと感じた。

それもそのはずでこれは単なる花鳥画ではない!

京都は相国寺の「釈迦三尊像」を荘厳するために釈迦の説法に集う生き物たちを表したものだという、つまりは宗教画の趣があるのだ。

細かく描写物を描かずに面で捕えたり、平安の仏画からの伝統というが裏彩色という手法を使い、若冲が特にこだわった白は胡粉を使ったという。

存在するすべてのものをいつくしむかのように描かれた若冲の絵画には観るものを引き寄せるただならぬ気配がある。

すぐれた芸術作品とは多かれ少なかれそういうものだろうーこちらが予備知識など持っていなくとも引き込まれてしまうのだ。

カタログを又見ると、今回展示されていない絵の中では、魚を描いたものもあり、なかにはタコを描いたものまである。

総じて鳥を描いた作品が多いが、若冲が梅は描くが桜は描かなかったとかいろいろ興味深い。

渡来の中国絵画の影響とも説明されようが、当時の日本は平穏でネットワーク社会だった。

若冲は円山応挙ともおそらく親交があっただろうとカタログにいう。

当時中国から象が着たり新しい環境の中で切磋琢磨していた知識人の姿はなんだか21世紀のこの現代人の姿にも重なるようにも思った。