国立博物館のアンリ・マティス展を観て「わしの絵によう似とるのう」と大声で話す、一方ピカソの展覧会に行くと「この男は少し気が変じゃないかのう」という、いやいや何とも痛快なおばあちゃんがいたものだ。
1875広島の農家に生まれ、三男一女を育てた、学校にも通わないから読み書きもできない。
で、老後隠居して暇を持て余していたのを一枚の魚の絵が褒められて絵の道へと進むー。
ご存じ丸木スマだ、「原爆の図」の丸木位里、俊子の母親といったほうが通りが良い。
何しろ文字も知らないのだから点を連ねて輪郭を取っていったという、その点描は作品の中にもみることができる。
そのスマの回顧展を埼玉県立近代美術館に観にゆく。
カタログにもあるようにスマの作品の八割は動植物画だ。
70を超えてから絵筆を取ったという素朴派にも似た経歴の持ち主で言うまでもなく遠近法も構図もめちゃくちゃ。
しかし76で院展に初入選したとき、子供の絵と間違えられたその作品は「幼稚だけどその中の本質的な自由さは強い」「技巧だけになりがちな日本画中では尊重すべきだろう」という意見が占めたという、スマの絵は時代の風潮に対する反面教師でもある。
描きたいときにすぐ描けるのがスマの幸せだったのだろう。
「絵を描きはなえてから面白うての。こりゃまだまだ死なりゃせん思うて。わしゃ、今が花よ」
スマの言葉だ。
絵を描くという「仕事」を見つけて、スマは自分の人生を肯定することができたのだ。
スマの絵の最高傑作はなんといっても「簪」だろう。
大きな画面に生き物が埋め尽くされている、それは壮大な生命の讃歌だ。
しかしそんなスマも過去を振り返る時もある。
広島に生まれて必然的に経験した原爆、それを「ピカのとき」に表す。
スマは言う、「これは山崩れや地震たぁ違う。ピカは人がおとさにゃ落ちてこん」
またスマが展覧会に入選するのは高名な息子夫妻が手伝ったからではないかとかげ口もたたかれたという。
人間肯定と人間不信ーそんな中でスマは顔見知りの青年に殺害されてしまう、享年81.
そしてその犯人も投身自殺をとげる。
人の命はピカと同様軽いのかー、生命の讃歌をうたった人だけに最後にはむなしさが残った。
なお会場ではスマへのオマージュとして、須田悦弘、安藤栄作、かわしまよう子の作品も展示されています。