人生は良く旅に喩えられる。
しかし、普通の旅は、出発点があり、目的地があり、また、出発地に帰ってくるのと違って、人生は、いきなり世界に投げ出され、死という目的地はあるが、その先のことは全く分からず、出発点に帰る。ということもない。
人生は一回きり、とも言われるが、死後の世界や生まれ代りを想定すれば、一回きりとも言えない。
何の為に生きているか?
普通の人は、日常生活が忙しくて、そんな問いはしない。
聖書に、良く知られた「貧しい人は幸いである」という言葉があるが、本当だと思う。
これを、「心の貧しい」などと解してはいけない。
貧しい人が、幸いなのは、虚栄心がないからだ。裸の自己を晒すことができるからだ。
で、「天国は貴方のものである」と言われるが、天国とか、神とか、簡単に言って欲しくない。
神、という言葉が出てくるのは、おそらく、最後のところ、何をやっても、ダメだ。いろんな経験を積んで、ギリギリの体験をして、そこで、はじめて、出てくる言葉だと思う。
おそらく、神とは、極限の体験をした者にのみ、顕現する。
だから、平和な世界で、神学論争をしても意味などない。
僕も、極限の体験などしたことないから、神とはどんな存在なのか分からない。
おそらく、存在ですらないかもしれない。
しかし、宇宙が存在し、恒星の周りを惑星がぶつからずに規則正しく廻り、その宇宙が膨張しているなどと聞けば、どうしても、大いなる存在を予感せざるを得ない。
死んだらどうなるか誰も分からない。
分からないけど、まだ、その先があると信じることは、この世の生き方にも影響するような気がする。
死んだら無になる、と主張する人もいるが、それは科学的には証明できない。
無論、逆に、死後の世界があると証明することもできないが、死後に裁きや恵みがあると信じることは、この世の生き方をも変えざるを得ない。パスカル的な、賭けだ。
畢竟、この一年は、自分探しの一年だった。
しかし、普通の旅は、出発点があり、目的地があり、また、出発地に帰ってくるのと違って、人生は、いきなり世界に投げ出され、死という目的地はあるが、その先のことは全く分からず、出発点に帰る。ということもない。
人生は一回きり、とも言われるが、死後の世界や生まれ代りを想定すれば、一回きりとも言えない。
何の為に生きているか?
普通の人は、日常生活が忙しくて、そんな問いはしない。
聖書に、良く知られた「貧しい人は幸いである」という言葉があるが、本当だと思う。
これを、「心の貧しい」などと解してはいけない。
貧しい人が、幸いなのは、虚栄心がないからだ。裸の自己を晒すことができるからだ。
で、「天国は貴方のものである」と言われるが、天国とか、神とか、簡単に言って欲しくない。
神、という言葉が出てくるのは、おそらく、最後のところ、何をやっても、ダメだ。いろんな経験を積んで、ギリギリの体験をして、そこで、はじめて、出てくる言葉だと思う。
おそらく、神とは、極限の体験をした者にのみ、顕現する。
だから、平和な世界で、神学論争をしても意味などない。
僕も、極限の体験などしたことないから、神とはどんな存在なのか分からない。
おそらく、存在ですらないかもしれない。
しかし、宇宙が存在し、恒星の周りを惑星がぶつからずに規則正しく廻り、その宇宙が膨張しているなどと聞けば、どうしても、大いなる存在を予感せざるを得ない。
死んだらどうなるか誰も分からない。
分からないけど、まだ、その先があると信じることは、この世の生き方にも影響するような気がする。
死んだら無になる、と主張する人もいるが、それは科学的には証明できない。
無論、逆に、死後の世界があると証明することもできないが、死後に裁きや恵みがあると信じることは、この世の生き方をも変えざるを得ない。パスカル的な、賭けだ。
畢竟、この一年は、自分探しの一年だった。