はじめは画家になろうとしたのだという。
山形は酒田の生まれ、祖父母の家で育てられ、五歳で東京に出てきてから、酒田に戻るまで40年、土門拳だ。
その回顧展が日本橋三越で始まった。
今回の展覧会は土門の全貌に迫る大展覧会だ。
会場入ると室生寺を撮影した昭和16-8の写真が度肝をぬくがそれは序章にすぎない。
土門は昭和10年、日本工房に入社する。はじめの仕事は伊豆取材だ。
名取洋之助と早稲田大学の卒業アルバムを編集したりする。
しかし当時の外務大臣を撮影して、Life誌に掲載されたことが、名取との齟齬をうみ、日本工房を退社したという。
戦争の足音が迫るなか土門が夢中になったのは、文楽の撮影だ。
カラーがまだない時代に土門は時間をかけて文楽のカラー化をしようとする。
そして終戦、土門の眼は子どもに向けられるとともに、社会の矛盾にも向けられる。
立川の砂川闘争、石川の内灘闘争ー。
ヒロシマを経て、この二つの主題が重なったのが、「筑豊のこどもたち」だ。
るみえちゃんとさゆりちゃんー父親が病気になり、母親が出稼ぎにいったため、幼い二人が家を守る。
土門は社会の底辺を見つめるー。
その一方で、土門は著名人のポートレートも撮る。
梅原龍三郎を怒らせたエピソードは有名だ。
土門は志賀直哉のような風貌を好んでいたらしい。
藤田にいろいろなポーズをさせて撮った写真も並ぶ。
社会の底辺を見つめる土門も有名人を撮影する土門も同じ土門だ。
そして昭和34年、脳出血の後遺症で35ミリカメラが持てなくなると日本の美「古寺巡礼」の旅にでる。
土門が愛したのは弘仁期の木彫仏だそうだ。
また日本民芸協会の会員と何かと親しく、焼き物への関心もここから生まれたのではないか。
会場には中学時代の油絵から、病院でのリハビリのスケッチまで、幅広く昭和を駆け抜けた写真家の全貌に迫ることができる。
山形は酒田の生まれ、祖父母の家で育てられ、五歳で東京に出てきてから、酒田に戻るまで40年、土門拳だ。
その回顧展が日本橋三越で始まった。
今回の展覧会は土門の全貌に迫る大展覧会だ。
会場入ると室生寺を撮影した昭和16-8の写真が度肝をぬくがそれは序章にすぎない。
土門は昭和10年、日本工房に入社する。はじめの仕事は伊豆取材だ。
名取洋之助と早稲田大学の卒業アルバムを編集したりする。
しかし当時の外務大臣を撮影して、Life誌に掲載されたことが、名取との齟齬をうみ、日本工房を退社したという。
戦争の足音が迫るなか土門が夢中になったのは、文楽の撮影だ。
カラーがまだない時代に土門は時間をかけて文楽のカラー化をしようとする。
そして終戦、土門の眼は子どもに向けられるとともに、社会の矛盾にも向けられる。
立川の砂川闘争、石川の内灘闘争ー。
ヒロシマを経て、この二つの主題が重なったのが、「筑豊のこどもたち」だ。
るみえちゃんとさゆりちゃんー父親が病気になり、母親が出稼ぎにいったため、幼い二人が家を守る。
土門は社会の底辺を見つめるー。
その一方で、土門は著名人のポートレートも撮る。
梅原龍三郎を怒らせたエピソードは有名だ。
土門は志賀直哉のような風貌を好んでいたらしい。
藤田にいろいろなポーズをさせて撮った写真も並ぶ。
社会の底辺を見つめる土門も有名人を撮影する土門も同じ土門だ。
そして昭和34年、脳出血の後遺症で35ミリカメラが持てなくなると日本の美「古寺巡礼」の旅にでる。
土門が愛したのは弘仁期の木彫仏だそうだ。
また日本民芸協会の会員と何かと親しく、焼き物への関心もここから生まれたのではないか。
会場には中学時代の油絵から、病院でのリハビリのスケッチまで、幅広く昭和を駆け抜けた写真家の全貌に迫ることができる。