だらだら日記goo編

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多面体としての写真家

2009-02-25 23:04:14 | インポート
はじめは画家になろうとしたのだという。
山形は酒田の生まれ、祖父母の家で育てられ、五歳で東京に出てきてから、酒田に戻るまで40年、土門拳だ。
その回顧展が日本橋三越で始まった。
今回の展覧会は土門の全貌に迫る大展覧会だ。
会場入ると室生寺を撮影した昭和16-8の写真が度肝をぬくがそれは序章にすぎない。
土門は昭和10年、日本工房に入社する。はじめの仕事は伊豆取材だ。
名取洋之助と早稲田大学の卒業アルバムを編集したりする。
しかし当時の外務大臣を撮影して、Life誌に掲載されたことが、名取との齟齬をうみ、日本工房を退社したという。
戦争の足音が迫るなか土門が夢中になったのは、文楽の撮影だ。
カラーがまだない時代に土門は時間をかけて文楽のカラー化をしようとする。
そして終戦、土門の眼は子どもに向けられるとともに、社会の矛盾にも向けられる。
立川の砂川闘争、石川の内灘闘争ー。
ヒロシマを経て、この二つの主題が重なったのが、「筑豊のこどもたち」だ。
るみえちゃんとさゆりちゃんー父親が病気になり、母親が出稼ぎにいったため、幼い二人が家を守る。
土門は社会の底辺を見つめるー。
その一方で、土門は著名人のポートレートも撮る。
梅原龍三郎を怒らせたエピソードは有名だ。
土門は志賀直哉のような風貌を好んでいたらしい。
藤田にいろいろなポーズをさせて撮った写真も並ぶ。
社会の底辺を見つめる土門も有名人を撮影する土門も同じ土門だ。
そして昭和34年、脳出血の後遺症で35ミリカメラが持てなくなると日本の美「古寺巡礼」の旅にでる。
土門が愛したのは弘仁期の木彫仏だそうだ。
また日本民芸協会の会員と何かと親しく、焼き物への関心もここから生まれたのではないか。
会場には中学時代の油絵から、病院でのリハビリのスケッチまで、幅広く昭和を駆け抜けた写真家の全貌に迫ることができる。


損した気分?

2009-02-15 23:26:18 | インポート
今日は横須賀の記念日で、美術館は無料だということだ。
それなのに招待券を持ってのこのこ出かけた僕は損した気分だ。
東京湾を臨むロケーションがすっかり気に入った横須賀美術館は、芥川沙織の回顧展だ。芥川也寸志の妻だった人だ。
初期のこの人の自画像をみるとピカソの影響が色濃い。
しかし線で人物を表現する一連の女を描いた絵はユニークで、強く訴える。
それから彼女は日本神話の世界へと移る。
読んでいた本の影響ともメキシコ壁画運動への関心ともいわれりが、「古事記より」二点は13メートル6メートルの大作だ。
イザナギの物語とアマテラスの物語をそれぞれ表現したという。
メキシコ壁画といえば岡本太郎だ、太郎に二科会に推挙してもらったという。
しかし彼女の作風は芥川と離婚し、渡米、間所氏と再婚するとすっかり変わりアブストラクトになる。
人びとは驚いたろうが、それからわずか42歳で、なくなってしまう。
おそらく彼女の不幸は芥川という有名人の妻であったことにあるのではないか。
世間は好奇心から彼女の絵をみようとする、芥川婦人という形容がついて回るーもっと生きていれば、どんな絵を
描いたことかー。
さて横須賀美術館は常設も充実している。
全部で130点あまりが並ぶが、朝井閑右衛門記念室やら、フォトポリマーを利用した藤田修の特集、市川美幸という現代作家の特集が面白い。
さらに谷内六郎館もある。
週刊新潮の表紙絵、今回は1967年だ。
谷内の言葉を読むと、あくまでこの画家が子どもの目線に立っていたことがわかる。
海を眺めつつアート鑑賞、損した気分なんていうのはやはりやめよう。


一番星の輝く先に

2009-02-09 22:46:33 | インポート
この画家の展覧会を観るのは三度目になる。
初めて観たときは北海道をなぜ暗く描くのかわからず、二度目に高島屋で観たときに、画家の原体験の満州を北海道にみていたことを知った。
今回画家の生誕地川越のまるひろ百貨店の創立60周年を記念して、この画家、相原求一朗の回顧展をやっているのでは
るばる出かけた。
今書いたように画家にとっての原風景は満州なのだがー「私は不覚にも涙した。赤い夕陽の満州がここにはある」とは北海道を旅したときの画家の言葉だが、では北海道を描くこの画家の姿がまた変わっている。
展示16の「風景」18の「原野」に明らかなように、この画家は色も線も形もないところから始めるのだ。
アブストラクト絵画のようでもあり、つまりは画家の心象風景なのだ。
ようやく形になるのは「すけそうだらの詩」を描いたときだ。
カタログ解説はこれを相原芸術誕生としている。
相原は北欧を旅し、ゴッホの家だとかセーヌだとかを描くがやはり暗い。
この画家にはどうしようもない満州へのこだわりがあり、そこから抜けないのだ。
しかし晩年の相原はそこを突破したように思える。
画面には色彩が出てくるのだ。
僕は1992の「一番星」に注目したい。
荒涼とした大地に星がただ一つ輝いている。
その星は画家にとって何を意味しただろうか?と考える。
そのあとに1996「白き神の座」のような現実感あふれる堂々とした作品がうまれることを
思うと一番星は、画家にとって現実への回帰の予兆をはらんでいたのではないか。それはこの画家が満州の呪縛から解き放たれたことを意味する。
かくて画家は現実に回帰したが、残された時間はわずかだった、1999死去。
今回の展覧会では、画家が生前公にしなかった裸婦デッサンも奥様の許可を得て展示されますが、誠実な人らしく
一本の線も疎かにしない見事なものでした。