だらだら日記goo編

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スマホがうつす世界

2016-07-28 20:40:26 | 日記
ポケモンGOというのが流行っているという。
iPhoneはSEの時代だが、まだ、5sが衰えないのも、そのためとか。
美術館は美術館で、スマホ問題がある。
外国のお客様なんかは撮影禁止でも、平気で撮影して、ダメと言われると、おゝソーリー、なんて言っているが、撮影したものは回収されないから、あちこちでソーリーソーリー言っていりゃ良い。
東京都美術館で開催されている、ポンピドー センター展では、何故か、金曜の夜間開館の日に、一作品だけ撮影出来て、SNSで広めてください、なんて会場に書いてある。
で、時間を待って、撮影する人が多いのだろうが、SNSで広めても何も、同じ作品の写真集めても意味がない。
どうも、芸術作品でも、この作品は撮影可能です。とか、会場内自由に撮影して、などと付くと、皆さん狂ったようにパシャパシャ写真を撮る。
何に使うか知らないが、展示図録を買って眺めればよろしいだけのこととも思う。
逆に困るのが、企業の中にある美術館だ。
例えば、汐留ミュージアムは、パナソニックの本社の4階にある。
当たり前だが、ビルの内部は企業秘密で、一般の人が、あちこちパシャパシャやられたら、防犯上の事もあるだろうが、困る訳で、ビル内は一切撮影禁止、と書いてある。
そんな貼り紙がしてあるとはつまり、パシャパシャ写真を撮る人が多いからだろう。
しかし、スマホの普及で、何でも撮影するのが習慣という人もいる。
火事があればスマホで撮影、スカートの中もスマホで撮影、果ては、皇族に会っても、記念にスマホで撮影ーどこまでスマホは行くのか、拘置所とか、スマホ等全然使えないと、仕方ないから本読むしかないのだが、本離れが進み、本屋の逆襲、スマホ禁止令を出す内閣でも現れないか。

障害者を狙って?

2016-07-27 19:23:24 | 日記
相変わらず、体調が優れないが、これだけは、書いておく。
なんか、相模原で、障害者を狙って殺した事件があって、あれこれ言われているけど、ほとんど誤解している。
何故、彼は、障害者を狙ったのか?
答えは簡単で、容疑者が、障害者施設で働いていたからにすぎない。
ただの精神障害者の妄想である。
今朝、送検される時、車の中から、笑顔を見せていて奇妙に思った。
そしたら、この容疑者が、13日間、措置入院していた事を知った。他傷のおそれだという。
大麻も関係しているようだが、何故か警察には伝えられずに退院したという。
情報の共有が出来ていなかった事を悲しく思う。入院は継続すべきだった。すれば、今回の事件は起こらなかった。
おそらく、今回も大麻を使って、妄想たくましくして、障害者は俺が征伐してやる、と勝手知った福祉ホームに押し入ったのだろう。
別に障害者である必要はなかった。
この容疑者が、老人ホームで働いていれば、老人がターゲットになっただろう。
ただの精神障害者の妄想的犯行であり、思想的背景も何もない、同情すべき余地の全くない犯行である。
しかし、一応、精神鑑定はするであろうし、裁判になれば、弁護士は心身喪失か耗弱を主張するだろう。
常軌を逸した犯行だが、こういう人は何時の時代にもいた。
別に障害者団体が声明を発表するほどの話でもない。
この容疑者の両親の顔が見えないのが悲しい。

追伸、精神鑑定で、心身喪失とみなされるのは、例えば、神の声に従った。などという事案ですが、この容疑者も、ヒトラー思想が降りてきたなどと口走ったそうで、これは、思考吸入とも看做せるので、心身喪失の可能性ゼロではないと思います。

間違えて当たり前

2016-07-24 22:42:41 | 日記
ラジオで盛んに、10-20-30,とやっている。
過払い金のコマーシャルだ。
去年なんかは、最高裁で過払い金が認められて今年で10年、過払い金の時効は10年、とあたかも、2015年で、全ての過払い金が戻って来なくなる、と誤解させるようなCMを流していた。
で、インターネットで検索する。
新宿事務所、というから、新宿事務所と検索すると、いろいろ出てくる訳で、司法書士法人新宿事務所、新宿法律事務所、東京新宿法律事務所、この3つは、全く別もの。
コマーシャルを流しているのは、当然、司法書士法人の事務所だが、司法書士は、簡易裁判所の案件しか扱えない。つまり、140万円以下の案件しか扱えない。
コマーシャルで、100万円以上の過払い金があった方はーとか言ってるが、140万円以上の案件は扱ってはいけない訳だから、そういう場合はどう対応しているのだろうか?
新宿法律事務所と、東京新宿法律事務所も別もので、紛らわしいことこの上ないが、後者は、相談料は無料と謳っているので調べると、所謂、着手金に50万円も取る弁護士事務所だ。
弁護士の報酬というのも実は相場が決まっていて、着手金に50万円取る弁護士というのもおかしい。
東京には、弁護士会が3つあり、東京弁護士会、第一東京
弁護士会、第二東京弁護士会、で、そのうち、第一東京弁護士会、は、政治的主張をするので特別なのだがー実際、弁護士会館の図書館も、東京弁護士会と第二東京弁護士会合同だが、第一東京は、分かれているー司法試験というと、僕らが学生の頃は、東大生でも浪人しても難しかったという。
これではしょうがないと、司法制度改革があって、入り易くなったようだけど、しかし、司法に携わるというのは大変だ。
弁護士は知らないが、裁判官を選べば、はじめの10年は、一人で判断出来ない。
合議体の右陪審を勤める。
例えば、東京地裁立川支部刑事は、合議体が4つしかない。
ということは、裁判官が12人居て、うち、4人は、合議体の右陪審の判事補だから、8人しか裁判官がいないということ。
8人で、多摩地方の裁判皆裁くのだから、遅くなることおびただしいのは仕方ない。
僕を担当する裁判官は、殺人に執行猶予以前、2件も出している。殺人は、懲役5年が刑の最低だが、別途、酌量減刑という制度があり、刑は、最低の半分まで落とせる。で、執行猶予が付く条件は、懲役3年以内の刑なので、介護の果ての殺人とか、同情の余地のある殺人ーあくまで殺人であり、殺人未遂ではないーは、酌量減刑して、執行猶予にすることができるのです。
昨年、窃盗で、てんかんに罹っていて、心神喪失を認め、無罪としたのも、立川の別の裁判官だし、まぁどうなるやらー。

救いはあるのか、その2

2016-07-24 15:13:12 | 日記
西洋哲学で、カントについて考えてみる。
カントは、純粋理性批判で、神の存在証明を批判して、神の存在は証明出来ない、として、実践理性批判で、神を、要請、つまり、信仰の領域に移したことになっている。
カントの神の存在証明への批判は、存在論的証明、宇宙論的証明、目的論的証明の3つへの批判に分けられるが、宇宙論的証明が最も重要だろう。
これは、因果関係を辿れば、必ず、第一創造者にたどり着くとする証明のことだが、カントは鋭く、こう書くのだ。
では、その第一創造者が自問する。では、私はどこから来たのか?と。ここで、万物は沈む。
要は、神がいるなら、神を創ったのがいないといけないという批判だ。
かくして、カントは、神の存在証明を放棄したのだが、同じ、純粋理性批判で、こう書いている。
神の存在を知っている,wissen,という人が居れば、その人こそ、私が探している当の人である。

これを普通に読めば、カントは、神の存在を知りたくて仕方ないのだが、それが出来ない。出来ないことを自分で示して、神を、信仰の領域に移した、と考えていい。
そして、純粋理性批判には、方法論という箇所もあり、そこに、カントの実践哲学の原型が示されている。
そこにはこうある。
神と、今は見えないが、期待せられる世界がなければ、立派な道徳的行為も、賞賛の対象とはなっても、行為の実行の動機とは、ならない。

言いたいことは明白で、来世に神によって、幸せになる事が、道徳的行為が行われる動機付けになる、ということ。
実践理性批判では、この立派な道徳的行為が、所謂、道徳法則に基づく行為、として、総称される訳だが、この道徳法則も、前に書いたように、おそらく神によって与えられたもの。
そして、議論は、弁証論の最高善、に進むが、最高善とは、徳福一致ではなく、徳とそれに比例した幸福、を指す。
従って、多くの人が、最高善とは、この世に、建設されるべき理想郷だと考えているが、カントは、元々は、個人的な最高善を念頭に、この概念を考えていたと言って良い。
この世に於いて達成した徳の割合に応じた幸福を来世受け取れると考えていたようだ。
更に、カントは次のようにも言う。
最高善の観念と一致するのは、キリスト教神の国の概念しかない。
これは、要は、キリスト教の、神の国の概念の、カントなりの解釈が、最高善である、と示しているのであり、すると、カントの道徳哲学は、結局、キリスト教道徳の焼き直しと言って良い。
神の宇宙論的証明を拒否して、それは、理性の深淵だ、と述べたカントがしかし、こう言う考えを持っていたのだ。
すると、カントは救いを信じていたとしか思えないが、今述べた、理性の深淵、という箇所に着目すれば、カント自体、自分の考えが崩壊することー要は、救いはないことーを予見していたように思える。




救いはあるのか?

2016-07-18 21:36:52 | 日記
学生時代、浄土真宗親鸞会というのに入っていた。今でもある団体で、高森顕鉄という人が、一万年堂出版というダミー会社を設立して、盛んにいろんな本を出しているが、彼らの主張は、要は、現世で、阿弥陀に救われて、死んだら浄土に行くというものだが、僕の見るところ、全く違う。
柳宗悦なんかは、阿弥陀の本願は、阿弥陀如来が法蔵菩薩の時に立てた誓いで、全ての衆生が救われなければ、自分は仏にならないと言っている。ところが、法蔵菩薩は阿弥陀如来、つまり仏になった訳だから、要するに全ての人はもう救われているのだ、と説くが、すると、救われているなら何もしなくていい、悪を成しても良いという話になり、これも採れない。
僕の見るところ、親鸞の思想に救いはない。
親鸞のいう浄土というのは、例えば、源信が、往生要集に描いたような、生々しいものではなく、光のような抽象的な存在。
親鸞の思想の核心は、二種廻向にある。
つまり、例え、現世で悟りを得ても、阿弥陀如来が、全ての人が救われない限り、仏にならない。と言っている訳だから、阿弥陀の弟子?的位置になって、また、現世に戻ってこないといけない。そして、他人を救う。
他人を救うと言っても、全ての衆生が救われるまで、この世とあの世の往環は続くだろう。それはつまり無限に続くということだ。
死んでもまたこの世に還ってくる、それが約束されている。何となく嬉しい。
親鸞というと、歎異抄ということになっているが、この問答録は、確かに親鸞の生の声が溢れているが、長い間歴史に埋もれていた。所謂明治の精神界で、暁烏敏や清沢満之が再発見したものだ。
親鸞の主著は、教行信証だが、しかし、これは、仏典を延々と引用して、自分の主張の正しさをアピールしたもので、普通の人には手に余る。
で、歎異抄ということになるのだが、これが埋もれたのは、蓮如が、誤解をうむから、宿縁なき者に見せるべからずと言ったからだ。
この問答録には、明らかに、親鸞の息子の善鸞が陰を落としている。
関東は茨城の方で、親鸞の教えに反した念仏輩が広まったので、善鸞を派遣したが、その善鸞も父と違う教えを説いた。本当かどうか、確証はないが、そういうことになっている。
歎異抄の第ニ段で、はるばる関東からやってきた念仏衆に向かって、親鸞が、自分は法然の教えについて行くだけ、と述べるところがあるが、関東から来た念仏徒とは、要は、善鸞とか、いろいろな教えが蔓延して疑心暗鬼になった人たちだろう。
親鸞は、善鸞と断縁した。悲しき事なり、とはっきり言う。親鸞の生の声にうたれる。
ともかく、親鸞は、死んでもまたこの世に生まれる、要は、救いはないと考えていたように思う。
それはそれで、ホッとする。