だらだら日記goo編

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死ぬということ

2005-02-15 20:26:26 | 日記・エッセイ・コラム
前の家で金魚を飼っていた。
はじめのうちは面白くて水草をやったりいろいろしたがだんだん飽きてきた。
いつの間にかえさもやらず水も変えず、まあ死ぬのを待つようになった。
しかし金魚のなかにはしぶといというか、なかなか死なないものもいた。
こちらは早く死ねと思っても、何を食べているのか全然死なないし弱らない。
つくづく生命力というのは不思議なものだと感じた。
人間もそうだ、死にたいと思ってもそうやすやすと死ねない。
僕もうつがひどいとき自殺しようとした。
ビルから飛び降りようとしたが、暗黒の中に吸い込まれるようでとても死ねなかった。
電車に飛び込もうとしたが、ホームにいる人の視線が気になってとてもできなかった。
そんなこというと、日本中で自殺者は何万といるといわれそうだ。
刃物で殺される人、交通事故で死ぬ人、いろいろいるといわれそうだ。
おそらくそれぞれの人の死ぬときというのはあらかじめ決まっているのであろう。
神様が決めたのか何か知らないが、かつて旧約の詩人も歌ったように「死ぬに時あり」ということだろう。
一歳で殺される子もいる、認知症の末期でもなかなか死ねない人もいる。
仕方がないのだろう、死ぬ時が定まっているのだから。
結局いつ死ぬかは神ならぬ人にはわからない、だから今日を懸命に生きるしかないのだろう。
死ぬときは安らかに死にたい、神のもとに帰るわけだから。
勿論僕に特定の信仰はない。しかしこういう考えが宗教的といわれればそうともいえよう。
哲学者カントだって、ただ神を求めた人生に僕には思える。第二批判の中でカントは「大いなる存在ーそれを通してわれわれは実存する」と語っている。
哲学は結局宗教に帰着する、人は生かされて定めあるときを生きるという平凡な結論に達すると思う。