OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

今日は二輪(臨時投稿)

2019年03月20日 | 今日このごろ
今日は二輪(臨時投稿)

 今日(3月20日)15時ごろ喫茶店からの帰途500メートルほどの志井川沿いの桜を見てきた。すべてソメイヨシノである。まだ緑色の蕾が多い中、いくらか桃色の見えているところもある。

3月20日 志井川の蕾

 その中に二輪だけ咲きかけている花があった。



最初の二輪 志井川 2019.3.20

 一枚はピントが合っていないがお許しを。見落としもあるだろうが、まだ桜を見に行くのは早そう。しかし、通る人がみんな樹を見上げて花を探している。
 帰宅したら、テレビで「今日は四輪しか咲いていないので、開花宣言はありません。」という中継をやっていた。平和である。明日にはたくさん開花するだろう。

小学生のころの写真 その2 一年遠足

2019年03月19日 | 50年・60年
小学生のころの写真 その2 一年遠足

 「一年遠足」という裏書きのある写真が二枚ある。私の持っている写真には場所の記録がないが、卒業アルバムに一年遠足は定光寺としてある。日付もない。毎年春と秋に遠足があったようだ。他にも「学級遠足」なるものが開催されている。二枚の写真は同じ場所で、丘の上のような場所。カメラマンが上手なのか表情が良い。卒業アルバムの一年遠足の記念写真は定光寺駅の前にある橋の下で撮ったもの。ということは、中央本線の列車で行ったのだろう。

2-1 一年遠足1 定光寺 1953年

2-2 一年遠足2 定光寺 1953年
 
 定光寺は、中央本線の定光寺駅を降りて、お寺の近くにある現在の展望茶屋あたりに登ったところにある。少し後の写真があったので、参考のために掲載する。

2-3 当時の定光寺 1959.5.5 父の撮影

2-4 中央本線定光寺駅から見た玉野川 1959.5.5 父の撮影

 上の二枚の写真は遠足の数年後に父が撮影したもの。定光寺駅は、川沿いの道からやや高いところにあって、坂道を降りると玉野川(庄内川の上流)にかかる橋(城嶺橋と言うらしい)を渡り、そこから支流の渓谷沿いの道をたどって、定光寺公園・定光寺に着く。公園の池には貸しボートがあって、当時のデート場所になっていたという記憶がある。

時刻改正 2019.3

2019年03月16日 | 鉄道
時刻改正 2019.3

 3月16日、定例の「時刻改正」が行われた。「改正」よりも「改定」または「改訂」が正しいと思うのだが、それはいいとして、鉄道乗りつぶしのデータとの関係で、変化した(今月中の予定も含む)ことを記録しておこう。
 A 3月16日、おおさか東線の延伸部が開業。路線は大阪外環状鉄道が所有し、JR西日本(西日本旅客鉄道)が運営する。私のリストではJRとして扱っている。新大阪・放出 間(幹線)11.0km。あれ?以前どこかで11.1kmとなっていたような気がするが、と思って調べたら、やはり昨年の発表では11.1km。この違いは、鴫野・放出 間を、並行する片町線と同距離1.6kmにしたためらしい。電車の運行は別線である。

1 おおさか東線の開業部分(青)灰色は関係する鉄道線

 私の距離計算の慣例では、並行別線は複線の一種と考えて計上していない(例えば東京駅付近の京浜東北線と山手線のように)から、新設路線は新大阪・鴫野 間9.4kmと計上する。この計算方法はあまりお勧めしないが、複々線化などの時に気にしなくてもいいので採用している。同じように東淀川・新大阪 間が並行線でカウントしないのがよさそうだが、おおさか東線の電車は東淀川駅に停車しない(東海道本線ではなく梅田貨物線を通る)ので除外しない。なお、おおさか東線の放出・久宝寺 間は2008年3月15日開業。同年4月23日に乗車済み。
 B 3月16日、筑豊本線の折尾駅交差部の経路変更。距離変更はないが、旧線からやや離れているので、慣例に従って折尾・東水巻 間の乗り直しが必要。本城・折尾 間は、高架化にあたるので、乗り直しは不要。先月当ブログで変更の経緯を記した(2月25日・28日)。
 C 3月24日、前日までJR東北だった山田線の宮古・釜石 間 55.4km(地方交通線)を復旧して三陸鉄道に移し、三陸鉄道は南北が繋がって一本の「リアス線」となる。山田線は1967年に一部乗車した(写真:50年以上前だ!)後1986年9月19日に全部乗車。慣例で、運営会社が変わっても乗り直しは必要ない。

2 山田線で見た曲り屋 1967.7.21 盛岡・茂市 間

 D 3月31日、石勝線の新夕張・夕張 間が廃止。16.1km。清水沢までは夕張線時代の1972年9月1日に乗ったが、その先の夕張までの部分に乗車したのは石勝線と名の変わった1998年6月26日で、北海道の中でもずいぶん遅れてしまった。だから、以前の街の中にあった夕張駅を利用したことはない。登川まであった枝線に乗る機会はなかった。

3 夕張線の蒸気機関車 1972.9.2 清水沢・鹿ノ谷 間(再掲)

 E 3月31日横浜のシーサイドライン終点の金沢八景駅が京急金沢八景駅に接続するように延長される。延長距離は150メートルほど。時刻表表記では0.1kmの延伸と表記されるだろう。JTB時刻表3月号ではまだこの開業が反映されていない。福井もそうだが、こういった駅直結に変更する延伸は、まだいくつかの計画があるようで、短距離だし、当然そこは歩いているからあまり乗りに行く気がしない。何よりもコスパが悪い。

4 2019年3月の鉄道変更 記号は本文参照
赤:廃止 青:新設・変更・移管 緑:3月以前から未乗車

 以上の変更で、未乗車線は5線(A JR西日本 おおさか東線 新大阪・鴫野 9.4km、 B 筑豊本線折尾駅南、 E 横浜シーサイドライン金沢八景駅延伸部分 0.1km、 F 福井鉄道 延伸部分0.1km、 G JR東北 常磐線の駒ヶ嶺・浜吉田 経路変更部分 18.8km)となる。未乗車距離の比率は距離が表示されない筑豊本線の部分を除くと28.4kmで、JRの0.14%、それ以外の0.001%となる。2015年末の札幌路面電車延伸のときに「鉄道完乗」が途絶えてから、未乗車線数は少しだが増えている。

小学生のころの写真 その1 入学

2019年03月14日 | 50年・60年
小学生のころの写真 その1 入学

 今日(3月14日)は、私が小学校を卒業して60年の日にあたる。おそるべきことだ。

1-0 卒業式の後自宅で 1959.3.14 名古屋市北区

 そこで、小学生ごろの写真をアルバムから紹介することにする。私の小学校では6年間クラス替えはなく、40人程度の児童がずっと一緒に学んだ。担任の先生も、お体の調子の悪かった短期間を除いて6年間代わらなかった。
 なお、年月が経ったから、顔の部分のぼかしなどは入れてない。不都合があればご指摘くだされば、おわびして修正するつもりである。写真に写っている同窓生の顔は、大半判別できるが、お名前は記入しない。
 現代と最も違うことは、「写真を撮る」ことの機会が少なかったこと。小学生であるから、自分でカメラは持っていないし(私が最初にカメラを持って旅行したのは6年後の卒業謝恩旅行の時)、フィルムも焼き付けもお金がかかった。紹介していく写真は誰が撮影したのか記録がないが、父兄の方だろうか。
 このシリーズは全部で11回、2019年5月25日に計画している「卒業60年記念同窓会」の開催直前に終わるよう企画した。写真は、母が作ってくれていたアルバムのものをスキャンした。学校生活に関わるものだけにした。他には家族・親戚やご近所の方の写真もあるが紹介しない。当時の様子のわかる写真を父のフィルムから探して加えた。

1-1 私のアルバム

 データ資料として卒業アルバム、それに少ししかないが当時の配布プリント類などを調べた。通知表はあるけれど非公開。同窓生のみなさんには、ご希望があれば写真のデジタルデータをお渡しするつもりだが、方法については検討中。

1-2 卒業アルバム 1959.3

一年生:1953年度
 最初の写真は、入学時の記念写真。

1-3 入学式記念写真 1953.5.1

 入学した年に小学校は東区に移転して、私たちが新校舎の最初の入学者だった。入学選考を受けた記憶がある。工事の遅れのためか、入学は一か月遅れて5月から授業が始まった。だからこの写真の日付は5月1日。父兄も一緒に写っている。最初に入ったのは北校舎で、一階と二階にそれぞれ4教室があった。私の入ったのは4組だから次の写真の北校舎の一階右端の教室。
 私の家族も、この時に名古屋に移転してきた。それ以前は知多郡にいて、父はそこの小学校に勤務していたが、名古屋へ転勤を命ぜられ、ちょうどその時期に私も就学年齢になったため。昭和28年(1953年)3月2日付の小学校への入学「承認書」というものが保存されているが、私の住所は「知多郡旭町大字日長字播摩・・」となっている。旭町は現在知多市の一部となっている。播摩という地名は現存し、文字もこれが正しい。

1-4 このころの小学校航空写真 

 校庭に人文字を作って撮影した写真である。左上が学芸大学、次のブロックに幼稚園と小学校、右に中学校が並ぶ。撮影日時が記録されていないが、1958年の同じような写真には、中学校の新館が増設されているから、1953年から1957年の間のものである。学校群の向こうを走るバス道路は未舗装で、その北はほとんど畑である。学校の南側は工場跡の荒れ地で、最初のころには空襲のあとの「ばくだん池」がたくさんあった。そこに入るのは禁止されていたが、ザリガニ捕りやバッタ取りのためにしばしば行った記憶がある。

なお、これに合わせてジャンル名「50年」を「50年・60年」に改訂した。


私の使った切符 その52 プリペイドカード5

2019年03月13日 | 鉄道
私の使った切符 その52
プリペイドカード5

 ここからしばらくパスネットを紹介する。パスネットは2000年10月に使用開始、2008年1月に販売終了、同月には自動改札で使用できなくなり、2015年に完全に使えなくなった。磁気カードで、東京のJR以外の多くの路線で使用できた。しばらくの間は首都圏に行った時に大変利用価値の高いカードだった。各駅に使用できる鉄道会社のリストが印刷して置いてあった。

 上の写真がその紙で、営団地下鉄・相模鉄道・東武鉄道・横浜高速鉄道・小田急電鉄・新京成電鉄・京葉高速鉄道・横浜市営地下鉄・京王電鉄・西武鉄道・都営地下鉄・箱根登山鉄道(一部区間)・京成電鉄・多摩都市モノレール・ゆりかもめ・京浜急行電鉄・東京急行電鉄・北総開発鉄道・埼玉高速鉄道・東京臨海高速鉄道・舞浜リゾートライン の21社局である。のちに首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)が追加され、22社局になった。多くの社では、独自のカード名をつけていた。パスネットはシステムの名称である。これらのうち8社局のカードが手元に残っている。その多くは、2004年から2006年頃に、首都圏の鉄道を乗り潰すのに使った。新宿と池袋の化石ショーを見に行って東京に宿泊して、1日か2日鉄道に乗る、という旅行を繰り返した。

12 営団地下鉄 SFメトロカード 3,000円券

 2004年12月16日に使用開始。岐阜県に行った後、安房峠を越えて松本から中央本線で東京に行き、池袋ショーを見に行った時のもの。松本で腹痛に苦しんで特急に乗車した記憶がある。

13 東京メトロ SFメトロカード 1,000円券

 2005年1月24日山形に行った時の帰途、東京の地下鉄と埼玉高速鉄道に乗車した。東京メトロのカード二枚はいずれも車両の先頭を並べたもの。