7 徳永氏の逝去と直良氏
1940年2月に徳永重康氏(1874−1940)が逝去。古脊椎動物関係の業績は膨大で、当ブログでも度々引用した。その中でひとつあげるなら、満蒙学術調査中の古生物分野のものだろうか。この記事に関して言えば、日本の束柱類の研究の基礎は氏によって作られた。亡くなったのは沢根標本の発表の翌1940年であった。1941年に日本は戦争に入った。徳永氏は早稲田大学教授であったが、古脊椎動物研究は直良信夫氏によって継続された。1945年5月29日の米軍の爆撃による火災で、大学に保管されていた膨大な標本が焼失した。脊椎動物化石も数多く、その例として「明石人骨」が有名だが、Paleoparadoxia tabataiの沢根標本もその中に入っている。出版事情が悪くなって、研究の公表にも不自由があった。早稲田大学から「日本舊石器時代の研究」(直良信夫, 1954)などの研究がのちに公表された。直良氏の他の著書の中に、沢根標本の記述がある。この標本のスケッチがあるが、形態についての記述はない。
○ 直良信夫, 1944. 日本哺乳動物史. 265ページ. 養徳社. 奈良県丹波市町.
この本は当ブログで何度もすでに引用した。Tokunagaの論文の2年後に日本は戦争に入り、「日本哺乳動物史」は、印刷事情のよくないときに発行されたから、紙質が悪くて見づらい。
726 直良, 1944. 109ページの挿図。タバハジウ(デスモスチラス)の歯、佐渡相川産。
このスケッチはTokunaga, 1939 の図と一致するからたしかに沢根標本である。スケールはスケッチに入っているが計測値と少し異なるので、それに合わせた第2のスケール(下)を追加した。命名後5年も経つのにCornwallius tabatai の名前は出てこない。この図の解説は本文中にない。直良はここで、Desmostylus japonicus の和名として、新称「ニッポンタバハジウ」(漢字で書くと日本束歯獣)を提唱したが、その産地として「新潟県佐渡郡澤根町中山峠」を挙げているから、この標本がDesmostylusに含まれると考えていたことになる。しかし、巻末の動物種ごとの産地表の「ニッポンタバハジウ」の項に新潟県の地名はない。ちなみに最近の「デスモスチルス類化石リスト」を見ても、これ以外に束柱類化石は佐渡から記録されていない。
徳永重康は、直良信夫の指導者だったから、直良が1939年の論文を知らなかったのは、ちょっと不思議である。
8 泉標本の発見1950.10
1950年10月に、岐阜県土岐市泉の隠居山から束柱類の完全骨格が発見された。発見者は戸松滋正氏(名古屋市の中学校教諭)と東(あずま)充彦氏(多治見高校生徒)の二人であった。クリーニング途中の写真が発表されている。
727 Shikama, Tokio, 1966. Textfig. 5. クリーニング途中の泉標本
728 Shikama, Tokio, 1966. Text fig. 7. 埋没した状態の泉標本の略図
この標本の剖出は横浜国立大学で行われ、おもに鹿間・井尻・高井氏が担当したらしい。標本を前にしたこの3先生の1951年の写真がある。この3人の揃った写真は多分非常に珍しい。38歳から40歳頃の写真である。
標本は早い時期に専門家に託されたので発見者の戸松滋正氏と東(あずま) 充彦氏の名前は文献上あまり出てこない。次の本の著者名簿にその名を見つけたので、記しておく。
○ 郷土地学教育研究会, 1963. 愛知県とその周辺. 地学案内. 110ページ+付表・地質図. 浜島書店.
戸松滋正氏は、名古屋市立豊国中学校所属となっていて、執筆を担当したのは「土岐津」の章・「デスモスチルス」の項目、それに囲み記事「デスモスチルス発見のいきさつ」の部分。この本は私が高校生だった頃に参考にしていたガイドブックで、筆頭著者は愛知学芸大学の吉田新二教授。この方にはのちにずいぶんお世話になったが、その頃は存じ上げなかった。
私は中学から高校にかけて、名古屋の自宅からたびたび泉標本の隠居山に化石採集にでかけた。中央線の大曽根駅から乗車して土岐津まで乗車し、駅から歩いた。当時大曽根駅の入り口は、現在の南口しかなかったから、そこまで自宅から市営バスか自転車で行った。土岐津駅は1965年に土岐市駅に改称。そこまで蒸気機機関車の牽く(電化:1966年。複線化も同じ頃)普通列車で行った。
私が友人と訪れたのは、おもに南側の斜面で、泉標本の産出した山頂近くは、化石が少ないのでほとんど行かなかった。一番熱心に探したのはサメの歯であったが、少数しか採集できなかった。この標本は瑞浪市化石博物館に収めた。
729 Myliobatis 土岐市隠居山 中新世
エイの歯の標本が2点だけ私の手元にある。サメの歯を瑞浪市に寄贈する時に、これだけが残されたらしい。
採集できたのは主に小型の貝類であった。
730 Turritella 土岐市隠居山 中新世
1940年2月に徳永重康氏(1874−1940)が逝去。古脊椎動物関係の業績は膨大で、当ブログでも度々引用した。その中でひとつあげるなら、満蒙学術調査中の古生物分野のものだろうか。この記事に関して言えば、日本の束柱類の研究の基礎は氏によって作られた。亡くなったのは沢根標本の発表の翌1940年であった。1941年に日本は戦争に入った。徳永氏は早稲田大学教授であったが、古脊椎動物研究は直良信夫氏によって継続された。1945年5月29日の米軍の爆撃による火災で、大学に保管されていた膨大な標本が焼失した。脊椎動物化石も数多く、その例として「明石人骨」が有名だが、Paleoparadoxia tabataiの沢根標本もその中に入っている。出版事情が悪くなって、研究の公表にも不自由があった。早稲田大学から「日本舊石器時代の研究」(直良信夫, 1954)などの研究がのちに公表された。直良氏の他の著書の中に、沢根標本の記述がある。この標本のスケッチがあるが、形態についての記述はない。
○ 直良信夫, 1944. 日本哺乳動物史. 265ページ. 養徳社. 奈良県丹波市町.
この本は当ブログで何度もすでに引用した。Tokunagaの論文の2年後に日本は戦争に入り、「日本哺乳動物史」は、印刷事情のよくないときに発行されたから、紙質が悪くて見づらい。

726 直良, 1944. 109ページの挿図。タバハジウ(デスモスチラス)の歯、佐渡相川産。
このスケッチはTokunaga, 1939 の図と一致するからたしかに沢根標本である。スケールはスケッチに入っているが計測値と少し異なるので、それに合わせた第2のスケール(下)を追加した。命名後5年も経つのにCornwallius tabatai の名前は出てこない。この図の解説は本文中にない。直良はここで、Desmostylus japonicus の和名として、新称「ニッポンタバハジウ」(漢字で書くと日本束歯獣)を提唱したが、その産地として「新潟県佐渡郡澤根町中山峠」を挙げているから、この標本がDesmostylusに含まれると考えていたことになる。しかし、巻末の動物種ごとの産地表の「ニッポンタバハジウ」の項に新潟県の地名はない。ちなみに最近の「デスモスチルス類化石リスト」を見ても、これ以外に束柱類化石は佐渡から記録されていない。
徳永重康は、直良信夫の指導者だったから、直良が1939年の論文を知らなかったのは、ちょっと不思議である。
8 泉標本の発見1950.10
1950年10月に、岐阜県土岐市泉の隠居山から束柱類の完全骨格が発見された。発見者は戸松滋正氏(名古屋市の中学校教諭)と東(あずま)充彦氏(多治見高校生徒)の二人であった。クリーニング途中の写真が発表されている。

727 Shikama, Tokio, 1966. Textfig. 5. クリーニング途中の泉標本

728 Shikama, Tokio, 1966. Text fig. 7. 埋没した状態の泉標本の略図
この標本の剖出は横浜国立大学で行われ、おもに鹿間・井尻・高井氏が担当したらしい。標本を前にしたこの3先生の1951年の写真がある。この3人の揃った写真は多分非常に珍しい。38歳から40歳頃の写真である。
標本は早い時期に専門家に託されたので発見者の戸松滋正氏と東(あずま) 充彦氏の名前は文献上あまり出てこない。次の本の著者名簿にその名を見つけたので、記しておく。
○ 郷土地学教育研究会, 1963. 愛知県とその周辺. 地学案内. 110ページ+付表・地質図. 浜島書店.
戸松滋正氏は、名古屋市立豊国中学校所属となっていて、執筆を担当したのは「土岐津」の章・「デスモスチルス」の項目、それに囲み記事「デスモスチルス発見のいきさつ」の部分。この本は私が高校生だった頃に参考にしていたガイドブックで、筆頭著者は愛知学芸大学の吉田新二教授。この方にはのちにずいぶんお世話になったが、その頃は存じ上げなかった。
私は中学から高校にかけて、名古屋の自宅からたびたび泉標本の隠居山に化石採集にでかけた。中央線の大曽根駅から乗車して土岐津まで乗車し、駅から歩いた。当時大曽根駅の入り口は、現在の南口しかなかったから、そこまで自宅から市営バスか自転車で行った。土岐津駅は1965年に土岐市駅に改称。そこまで蒸気機機関車の牽く(電化:1966年。複線化も同じ頃)普通列車で行った。
私が友人と訪れたのは、おもに南側の斜面で、泉標本の産出した山頂近くは、化石が少ないのでほとんど行かなかった。一番熱心に探したのはサメの歯であったが、少数しか採集できなかった。この標本は瑞浪市化石博物館に収めた。

729 Myliobatis 土岐市隠居山 中新世
エイの歯の標本が2点だけ私の手元にある。サメの歯を瑞浪市に寄贈する時に、これだけが残されたらしい。
採集できたのは主に小型の貝類であった。

730 Turritella 土岐市隠居山 中新世