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最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

古い本 その187 戸狩動物群 3

2025年03月05日 | 化石
古い本 その187 戸狩動物群 3

2 既存のデスモスチルスとの比較
 徳永重康(1874−1940)は早稲田大学教授であるが、東京大学出身であるから、専門分野の異なる加藤武夫から受け取って研究したのではないか。瑞浪市戸狩のデスモスチルス頭骨の記載を行った人だから、デスモスチルスの標本を託されたのはごく自然である。その研究に16年も要したのは、その頃までに発見されていたデスモスチルス化石との違いを重視し、それについての検討をしていたということはまちがいない。
 そんなわけで、佐渡の沢根標本は徳永の手元に移された。歯冠の咬頭が柱状でエナメル下が厚く、中央に象牙質が小さく凹んで露出しているから、デスモスチルスの形態を持っていることはすぐにわかる。この類の臼歯では、下顎の咬頭が左右に並んでいて、上顎ではその並びが前後(近心/遠心)方向の軸に対して斜めに配列する。主な咬頭の配列は揃っているが、そこに余分な咬頭が周りに追加されることが多く、そのため抜け落ちた臼歯の番号を決定するのは簡単ではない。 
 まず、標本Aは配列から見て下顎の臼歯であるから(徳永は、最終的な歯種の判定を避けている)、彼自身が記載した戸狩のDesmostylus japonicus(後で命名)の下顎臼歯と倍率を合わせて比べてみよう。

706 沢根標本と戸狩標本の下顎臼歯比較

 上の図は、左が沢根標本の標本Aで、咬合面と側面(Tokunaga, 1939. Plate 19, figs. 1, 2、右が戸狩標本の下顎臼歯(Yoshiwara and Iwasaki, 1902. Plate 3, figs. 5a and 5b)である。主な違いは指摘されているように、沢根標本は歯冠高が低いこと、歯帯が目立つこと、歯根が長いこと、咬頭数が少ないこと、そして何と言っても小さいこと。これだけ違うと、同種でないことはもちろん、同属も疑われる。
 不完全な標本Bも調べてみよう。今度は、歯のどの部分かを決めることも難しい。まず、指摘されているようにこの歯は磨耗していなくて萌出前のものなので、咬頭が特殊な形をしていること。これについては徳永が迷っている頃にはなかったがDesmostylusでも同じような臼歯が出ている。

707 Nagao, Takumi. 1937. “Desmostylella typica” 未萌出の下顎臼歯

 この図は、後で種類の説明の時にも引用するが、このように、未萌出の臼歯の先端は、丸くなっているのではなくて小さな凹みがあり、さらにその中央に小さな突出がある。それをふまえて、Tokunagaのスケッチを現在の知見と合わせると、下の図のような位置の破片と考えることができるが、違っているかもしれない。

708 沢根標本B(右)を上顎臼歯の遠心端破片と考えた時の位置。

 左はBeatty, 2023. Fig. 3. Cornwallius sookensis 右上顎臼歯 右はTokunaga, 1939. Plate 19, fig. 6. を回転したもの。咬頭の位置はかなり似ている。また外形の形も似ているし、割れたラインも咬柱の境界と近い。Desmostylusと比べたいが、Cornwallius sookensisの咬柱の数は平均的なDesmostylus と比べて一列少ないから、少し無理があるが、サイズ感を比べると次の図のようになる。

709 標本B(中)のサイズ 

 前の図に、Yoshiwara nad Iwasaki, 1902, plate 3, Fig. 5を左右反転して添えたもの。ただしこの図は無理に合わせたものであまりあてにならない。
 以上のように、徳永氏にとっては沢根標本をDesmostylus属のものと考えることはできなかったのだろう。
 徳永は論文発表6年ほど前の1933年6月の第40回地質学会において、「Some Mammalian Fossils found in Japan」と題して学会講演を行ったことが記録されている。その抄録がたぶん次のもの。
○ 徳永重康, 1933. 日本の或る哺乳類化石に就いて. 地質学雑誌. Vol. 40, no. 476: 353-354.
 要旨はわずか6行の短いもので、日本産化石哺乳類を陸生と海生にわけてそれぞれの種数を目(もく)ごとに列記しただけのもの。表題の意味することとは全く合わない。束柱類にかかわるところは、海生哺乳類の種数の列記の最後にある次の1行にすぎない。
 「Desmostylidae は日本には少なくとも3 sp. の存在せることを説述せり。」他の目については、種数だけを書いていて、講演の表題は「或る哺乳動物化石について」なのだから、主題は特定のグループに関することのはずで、これがその主題だったようにも見える。もっと長い抄録を記すつもりで表題から書き始めたのに、本文では主題に入る前に切れているように見えるが、私の気のせいか?

古い本 その186 戸狩動物群 2

2025年02月17日 | 化石
 もう一つ束柱類の種類が戸狩動物群から報告されている。それはPaleoparadoxiaである。この項目を書き始めたが、あまりにも長くなってしまった。全部で15000字を超える量になりそうで、切れ目なく書くと読み辛くなりそう。そこで話題の切れ目で区切って「章立て」をした。
 なお、この文では標本の名称を原論文のまま記した。論文によって同じ標本に対して別の名称を用いていることが多いので、所蔵機関の標本番号を付するべきであるが、原論文に忠実に引用したためである。必要に応じて他論文での名称を付記した。
 なお、前に記したように、この「古い本」シリーズでは、1974年の瑞浪市化石博物館開館ごろまでの論文の紹介をしている。Paleoparadoxiaについては、その後別の種名が提唱されているが、時系列で最初からその名称で説明するといろいろな矛盾が生ずるので、ここではP. tabatai の種名で記すので誤解のないように。

1 新標本の発見
 この種類は、当初Cornwallius tabataiとして次の論文で提唱された。佐渡からの産出である。
○ Tokunaga, Shigeyasu, 1939. A new fossil Mammal belonging to Desmostylidae. Jubilee Publication Commemoration of Professor Hisakatsu Yabe 60th Birthday, vol. 1, pp. 289-299, pl. 19.(Desmostylus科の新種哺乳動物化石)
 学生時代にこの論文をざっと見たことがあるが、正直に言うと丁寧に読んでいなかった。掲載されたのは、「矢部長克教授還暦記念論文集」という単行本(vol. 1 とvol.2の二冊)で、ディジタル化されていない。この機会にコピーを入手して読み直した。11ページ+1図版のちょっと長い論文である。Tokunaga はこの標本を佐渡標本と呼んでいる(文末の日本語摘要による)。1枚の図版が添えられていて、もとになった臼歯二個が示されている。

702 Tokunaga, 1939. Plate 19. Cornwallius tabatai. Fig, 番号を大きく書き、スケールを書き加えた。

 一つめ(標本A)が長い歯根を伴う臼歯で、中央上のFig. 1が咬合面、左右の2-5は臼歯を横から見たところで、2が臼歯の外側、3は内側、4は前側、5が後側(いずれも推測)としてある。番号の配列順がめんどう。
 もう一つの標本(標本B)は破損した臼歯の歯冠部分で歯根を伴わない。6が咬合面、7は破損していない側の側面、8が破損している側の側面である。標本B は、文中に2方向から見たスケッチがある。

703 Tokunaga, 1939. p. 294. Cornwallius tabatai 標本B(文中のスケッチ

 両方とも側面(左は壊れていない方の、右は壊れている方の、という説明)で、残念ながら咬合面のスケッチはない。
 頭骨、とくに顎がでているわけではないから、部位や方向はいずれも「推測」としている。標本の産出については「1923年に産出した」としている。報告までに16年もかかったことになる。まずその間の経緯から調べた。
 最初のところに、この標本については、すでに「late Y. Ozawa が記載なしで簡単に報告している」という。その報文は次のもの。
○ 小澤儀明, 1924. デスモスチラスの新産地. 地質学雑誌. Vol. 31, 317-318. 
 小澤儀明(1899−1829)は1925年から東京帝国大学の助教授だった。専門は微化石。文の内容はまず産出の経緯についてで、次のように記されている。
「佐渡女学校教諭田畑 博氏は相川、澤根間隧道工事中に採集された二個のデスモスチラスの齒を加藤先生のもとに送られた。」そこで小澤氏は正確な産地及び層準を知るため約十日間佐渡に滞在したという。標本は礫層から産出したという。つまり、二個の化石は、礫として運ばれてきたと考えられるから、これらが同一の個体のものであると確定できない。この記事には化石の形態などについての文はないが、のちに種小名が献名されたタバタ氏の漢字表記がわかる。田畑 博氏の生没年はわからなかった。新潟県立佐渡女子高等学校は1922年に高等女学校に変更していて、田畑氏の所属は新潟県立佐渡女子高等学校だろう。
 なお、「加藤先生」というのは1920年から1944年に東京帝国大学教授を務めた加藤武夫(1883−1949:鉱床学)であろう。
 このように、小澤が現地を訪れたのだが、徳永も現地に立つ写真があって、そこを調査したことがわかる。その時期は書いてない。

704 Tokunaga, 1939. p. 290. 中山トンネル北口。

 写真左の人物が徳永博士で、そのあたりを工事する時に標本が発見されたという。トンネルは1921年に工事が始まり、1924年7月に竣工。1987年にはやや南西の低い位置に新トンネルが作られた。

705 佐渡標本の産出地. 国土地理院の地形図をもとに作成

古い本 その185 戸狩動物群 1

2025年01月25日 | 化石
 ここから戸狩動物群の属について記す。古くから、平牧動物群と対応して論議されているのが戸狩動物群である。産出層は平牧動物群よりも上位なのだが、時代的な変遷というよりは、平牧動物群が陸生の哺乳類を中心に構成されているのに対して、戸狩動物群は海生の哺乳類から成っていて、環境を示すと考える方が良い。実際サイの一部は、戸狩動物群の産出する戸狩層から産出しているようだ。構成する種類は少なく、束柱類のDesmostylusPaleoparadoxia、それに鰭脚類を挙げることができる。クジラ類については、幾つかの種類が報告されているが、明確な論議がされているとは言い難い。ここでは、岐阜県産で属名が挙げられている種類について、その属の由来などを調べる、といっても、すでにDesmostylusについては前に詳しく歴史を記した。「古い本 その78:2021年11月5日」から数回にわたって記したが、私自身何を書いたか覚えていないので、簡単に振り返ることにする。
 最初の論文は、(もちろんまだ命名されていないが)1900年の横山(又次郎)の次のもの。
○ 横山(又次郎), 1900.  海牛の化石. 地質学雑誌. Vol. 7, 363.
 ここで、現在の岐阜県瑞浪市で発見された哺乳類頭骨を論じている。ミュンヘンのProf. Zittelに連絡して意見を聞いていて、「初めマストドンならんかと思いしに・・種々考えたるも写真のみにては能く分からず但し事により新海牛の歯なるやもしれず」との回答をもらったという。実際に研究論文が発行されたのは2年後。
○ Yoshiwara, S. and J. Iwasaki, 1902 Notes on a New Fossil Mammal. The Journal of the College of Science, Imperial University of Tokyo, Japan. Vol. 16, Art. 6: 1-13, pls. 1-3. (新種哺乳類に関するメモ) 
 この論文は、日本人による最初の本格的な古脊椎動物学の論文で、英文でもあるが、命名には至らなかった。質の高い臼歯の写真図版を伴っていて、この動物の特殊な形態が見て取れる。
 この論文を見て、古い論文との関連を見抜いたのがアメリカの Merriamという人で、次の論文で指摘した。
○ Merriam, John Campbell, 1906 On the Occurrence of Desmostylus, Marsh. Science, New Series, Vol. 24, No. 605, pp. 151-152.(Desmostylus の産出について)
 John Campbell Merriam (1869-1945) は、アメリカ西海岸最初の古脊椎動物学者と言われ、それ以前からDesmostylusの研究をしていたという。彼が見つけたのは次の論文。
○ Marsh, Othniel Charles, 1888 Notice of a New Fossil Sirenian, from California. American Journal of Science, Ser. 3, Vol. 35, No. 205: 94-96.(Californiaからの新種化石海牛類に関する通知)

700 Marsh, 1888. Figs. 1-3. Desmostylus hesperus Holotype (再録)

 Marshは、この破片を臼歯の後方の3咬頭だと考えたが、上顎か下顎かは書いてない。ところが、同時に産出した標本には上顎のものと下顎のものが両方あるとしている。区別があるがどちらが上顎かわからなかったと言うのだろうか。
 実際にはMarshが図示したのはDesmostylus の上顎臼歯の前方の断片で、おおよそ次のような位置にあたる。

701 浦幌産のDesmostylus japonicus臼歯(下)とそれにD. hesperus タイプ標本(スケッチ)を重ねたもの(上)(再録)
 このように、日本産の頭骨をDesmostylusのものと判断した論文は、Merriam, 1906 である。これを受けて、日本ではそれに対する新種名を提唱した。
○ Tokunaga, S. and C, Iwasaki, 1914 Notes on Desmostylus japonicus. Journal of the Geological Society of Japan, vol. 21, no. 255: p. 33. (Desmostylus japonicus についてのノート)
 この論文には記載らしいところはほとんどなくて、1902年のYoshiiwara and Iwasaki に任せている。なお、吉原は徳永重康(1874−1940)の旧姓である。吉原姓の論文は1902年よりも後のものは出てこない。一方徳永姓の論文は1903年のものがもっと古いから、1902年か1903年に改姓したようだ。
 以上のことはずいぶん前の記事を一部訂正して記した。Desmostylusに関しては、ここでまとめておこう。
Genus <em>Desmostylus Marsh. 1888. Miocene California. Type species Desmostylus hesperus Marsh, 1888.
Japanese species Desmostylus japonicus Tokunaga et Iwasaki, 1914.

古い本 その184 平牧動物群 19

2025年01月17日 | 化石

 Brachypotheriumの特徴が書いてあるかと思ったが新属記載論文にはなかった。 従って、Brachypotherium の特徴を知るためには、Rhinoceros brachypus の記載を見る必要がある。Roger, 1904にはこの種類が出てくるが引用文献の記述はない。他の資料では、R. brchypusはLartetの命名としているが、その発行年は1837年と1948年の二つが出てくる。1837年のは掲載誌も書いてあるから、まずそれを見よう。
⚪︎  Lartet Edouard, (de Blainville) 1837: Rapport Sur un nouvel envoi de fossiles provenant du dépôt de Sansan. Compte Rendu des Séances de l‘Académie des Sciences, Tome 5, (18 Sept.): 418. (Sansanの堆積物からの化石の新しい搬出の報告)
 すでにこの時点で引用が間違っていて、推測を加えて実在するものを記した。Compte Rendu des Séances de l‘Académie des Sciences (表紙の種別によってこの名称は少しずつ異なる)は、会議の報告といった意味で、Académie des Sciences という広い範囲の学会誌だから数学や天文学などだけではなく、実用的な工学などが扱われている。各論文の頭にはこういった分野名が書かれているから、ここでは「Paléontologie」という目標を探した。5巻(Tome 5)となっていて、この号の号数は書いてないが、9月18日発行である。その前の号は9月11日発行だから、週刊誌(毎週だったとは限らない)。この号の初頭の「報告」にde Blainville が非常に短い各種の「ニュース」を列記している。その第3項目からの約20項目(p. 418-420)がLartetの化石脊椎動物に関するところ。その中にはサイに関する記述は見当たらない。

696 Compte Renduの卷の表紙(上)と号の表紙(下)

 ジャーナルの名称がこのように違う時にはどちらの名前で引用するのが正しいのだろう?

 最近の別の論文では、引用リストに次の文献が出てくる。
⚪︎ Lartet, Edouard, 1837. Note sur les ossements fossiles des terrains tertiaires de Simorre, de Sansan, etc., dans le département du Gers, et sur la découverte récente d’une mâchoire de singe fossile. Compte Rendu des Séabces de l’Académie des Sciences, Tome 4 (16 Jan.): 85–93. (Simorre, Sansan 他の第三紀調査地点からの骨化石についての報告、またGer 県の部局、最近の化石猿の顎について)
 87ページの中央付近からサイについての記述がある。まず、骨や歯から3種類が区別できる。という一行があるが、具体的な種名はない。少し開けて、このページの最後の項目、次ページの少し長い一項目だけがサイに関する記述である。このどちらにもbrachypusという種名も、サイの属名も出てこない。結局模式種も、初出論文も確認できなかった。念のため1848年の同誌もざっと調べて見つけられなかったが確かではない、なにしろこの二年間で2,400ページほどもあり、pdfを取り込むことはできても検索はできないのだ。
 Edouard Lartet (1801-1871)はフランスの地質学者・人類学者・古生物学者。

 次に調べるのはChilotherium属である。
⚪︎ Ringström, Torsten Jonas. 1924. Nashorner der Hipparion-fauna Nord-Chinas. Palaeontologia Sinica. vol. 1, Fasc. 4: 1–159. [中國北部三趾馬動物羣中之犀類化石.] (北部中国のHipparion動物群のサイ類)<未入手>
 瑞浪の大部分のサイの標本は、一度はこの属のものまたはこの属と比較されるものとして取り扱われた。だから、現在もそのままになっている解説が多い。前に記したように最も後の次の論文ではChilotheriumであることを否定した。
⚪︎ Fukuchi, Akira and Kouji Kawai, 2011. Revision of fossil rhinoceroses from the Miocene Mizunami Group, Japan. Palaeontological Research, vol. 15, no. 4: 247-257. (瑞浪層群からの化石サイ類の改訂)(前出)
 この論文では瑞浪から産するサイ類の種類をBrachypotherium ? pugnator (Matsumoto) と、疑問符付きで扱った。Brachypotherium属の提唱、さらにはその属の模式種の記載論文は入手できなかったこともあり、このブログでも不適当であることを承知で Chilotherium属のまま表記したことが多い。
 瑞浪のサイ類をChilotherium属として最初に扱ったのは、次の論文。
⚪︎ Takai, Fuyuji, 1949. Fossil mammals from Katabira-mura, Kani-gun, Gifu Prefecture, Japan. Japanese Journal of Geology and Geography, vol. 21, nos. 1-4, pp. 285-290, pl. 12, figs. 2a-2c. (岐阜県可児郡帷子村からの化石哺乳類)

697 Takai, 1949. Chilotherium pugnator 左下顎第2から第3前臼歯

 この論文でTakaiは、まずここで報告するサイとバクの化石を帷子村(現・可児市)の地層をヨーロッパのBurdigalian 並びにアメリカのHarrisonianの年代のものとした。Harrisonianというのはあまり馴染みがないが、漸新世から中新世にかけて(24.8−20.6 Ma)のアメリカで使われた年代。そして東アジアの動物群として2目、2科、2属(Serridentinus = GomphotheriumBaluchitherium)を挙げた。しかし、この中には報告する標本にあたるものがないので、次に中期中新世の5目、26科、62属のリストを示した。サイ科の8属は次の諸属。Takaiの文にはないが、各属の命名者と命名年を添えておく。
Aceratherium Kaup, 1832
Baluchitherium Forster-Cooper, 1913
Bugtitherium Pilgrim, 1908
Chilotherium Ringstrom, 1924
Diceratherium Marsh, 1875
Paracerathrium Forster-Cooper, 1911
Phyllotillon Pilgrim, 1910
Plesiaceratherium Young, 1937
 そしてその下の文章であまり理由を示すことなく報告する標本をChillotheriumのものとしている。図版は1枚あって、Palaeotapirus yagii (写真は前出)とChilitherium pugnator の写真が掲載されている。
 サイの化石骨は多数産出している。全ての写真が公表されているわけではない。ここでは、下顎後部の形態のわかる標本を紹介しておこう。

698 帷子報告書 Plate 3. (一部)Chilotherium pugnator 左下顎後部 頬側

699 帷子報告書 Plate 2. (一部)Chilotherium pugnator 上の標本の一部 上咬合面、下舌側

 この標本は、可児市帷子菅刈から産出したもの。それぞれスケールを書き込んだ。

古い本 その183 平牧動物群 18

2025年01月09日 | 化石

 ここまでに出てきた属名、亜属名は、Teleoceras, Brachypotherium, Chilotherium, それにFukuchi and Kawai, 2011で出てきたPlesiaceratheriumの4属(または亜属)ということになる。それらについて調べてみよう。
 まず、Teleoceras属の命名は、Hatcherで、次の論文。
⚪︎ Hatcher, John Bell, 1894. A median horned Rhinoceros from the Loup Fork Beds of Nebraska. The American Geologist vol. 13, no. 3: 149-150. (NebraskaのLoup Fork層からの中央の角をもったサイ)

693 Hatcher, 1894. Title

 2ページの短い論文で、図はない。NebraskaではAsh Hollow Formation (中新世)という火山灰層から多くのこの種類の化石が産出している。上顎臼歯と頭蓋の特徴から、新属・新種を提唱している。それまでに知られていた属との違いとして次の点を挙げている。1 上顎の前臼歯及び大臼歯にcrochetがない、2 上顎の前臼歯及び大臼歯にanticrochetがある、3. Saggital crest(?)がある。また「median horn」 が、鼻骨の先端にある。「median horn」というのは、サイの角に違いないが先にあるというからには一番大きな角だろうか。これがあるから、「完全に角が揃っている」というような意味でTeleoceras (perfect horn)と名付けたらしい。これがこの属に限った特徴というのは、ありそうにない。
 ここで、臼歯のcrochet 及びanticrochet というのは、サイの歯に使われる形態の名である。元の意味はフックのことで、釣針もcrochetである。

694 サイの臼歯の模式図 左上顎臼歯咬合面
凡例 anticro; anticrocet cro; crochet ect; ectoloph pro; protoloph me; metaloph灰色のところは象牙質が露出したところ、その周囲の二重線はエナメル質を示す。

 この図はサイの磨耗が始まっている上顎臼歯のもの。基本的に、3つの稜で構成されていて、頬側を前後に走るectolophと左右方向のprotoploph・metalophがギリシャ文字のπの字を作る。舌側から二つの谷が入り込み、そのうちの中央のものが一番奥で深くなっている(medisinus)。その深いところの出口を狭めるようにエナメル質が出っ張っているが、それをcrochet 及びanticrochet と呼ぶ。この絵はあまりすり減っていない左上顎第1大臼歯を想定していて、第2大臼歯ではこの四角形が遠心側で狭くなり、第3大臼歯では遠心端が尖る。

695 参考:Chilotherium sp. 左上顎第2大臼歯? ロシア産詳細産地不明 鮮新世

 この写真は未萌出の第2大臼歯かな? 未萌出だから象牙質の露出はないから、大分感じが違う。
 Teleoceras major の学名は、現在も使われている。この種類の頭骨の図をネットで探した。Hagge, M. D. という人の修士論文?のデジタルファイルがあるが、引用できるものかどうか分からなかったので、ここでは示さない。これには Teleoceras major の完全な頭骨(USNM所蔵)の側面写真がある。
 John Bell Hatcher (1861-1904) はアメリカの古生物学者でMarshの標本収集に雇われ、またカーネギー博物館の研究者だった。Carnegieの研究報告のひとつ、Memoirs of the Carnegie Museumの創刊号初頭論文はHatcherによる有名なDiplodocus骨格の記載だった。
 Matumotoは、このTeleocerasに岐阜県の化石を入れたのだが、当時Teleocerasの歯の図版が手に入ったのだろうか? というよりもその時代に提示されていたサイの属はどのくらいあったのだろうか? それを調べないとここに入れた理由も推測できそうにない。

 次の属はBrachypotheriumである。属の記載論文とされるのは次のもの。
⚪︎ Roger, Otto, 1904. Wiebeltierreste aus dem Obermiocän der bayerisch-schwäbischen Hochebene. V. Teil. Bericht des naturwissenschaftlichen Vereines für Schgwaben und Neuburg, vol. 36: 1-22. Taf. 1-4. (Bavaria-Schwaben高地の上部中新統からの脊椎動物化石)
 Gomphotherium angustidens (この論文ではMatodon angustidens)などの多くの脊椎動物の産出部位などが記されている。奇蹄類が出てくるのは12ページから14ページで、 13ページの最初に次の文がある。「私の印刷していない前の文で、Rhinoceros brachypus に対して新しい属名Brachypotheriumを示唆した。」ここでは、別属を作ることは正当であると主張しているが、その違いは体型が低くて不恰好だというようなことを言っているだけで、骨格の相違点を記していない。また論文には4枚の図版を伴うが、サイ類の図は含まれていない。
 この属の提唱の時、前の属の中の特定の種の種小名を用いて新しい属名を作ることは、珍しいことではない。種小名brachypus(短い足の)からBrachypotherium (短い足の獣)としたわけであろう。足の部分を生かしたがBrachypustheriumとしないで、Brachypotheriumとしたわけ。ここでpusがpoにしたのは形容詞形にしたかったからだろう。Brachytheriumとできれば、問題はなかったのだが、その名前は1883年に南米の哺乳類に先取されていた。
 Otto Roger (1841−1915)はドイツの古生物学者・考古学者。