まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

マツタケの食文化考-2-

2005年06月29日 | マツタケの生理生態

まつたけの食文化考-2-  

 さて、前回の続きであるが、日本人は、マツタケを好んで食べたり楽しんだり、五感で味わったという.公家も、マツタケには目がない人が多いようである.
 
例えば、関白近衛政家公は、「1467年9月28日宇治に行って椎の実を拾わせてマツタケをとったが、大層面白かった」.一献かたむけて夕方帰参した」とある.応仁の乱の最中である、いつの世も実際に戦うのは庶民ばかりなのか.10月11日にも紅葉狩りに出かけて「余以外みな泥酔.正体も無く前後覚えなし(後法興院日記)」.
戦いの前線にいるのは、どこの国でも時代を問わず こういう人ではないらしい.

 秀吉は大変なマツタケ好きのようである.
老人雑話(伊藤担庵)の中に山城の内山里に梅松が松を植林したところ、間もなく“マツタケが発生した”と秀吉に献上.秀吉 “ご威光、まことにさもあらん”と喜ぶ.調子にのって数回マツタケを献上したところ、“もはや献ずることをやめさせよ.生い過ぎる”と注意を受ける.
秀吉はマツタケの発生法を良く知っていたようである.
 翁草(江村専斉)に伏見の稲荷山でマツタケ狩りをすると急に言い出した.奉行たちはすぐに山止めをさせた.しかし、すでに人に採られていたのか、稲荷山にマツタケは1本も無かった.急遽、他の山から取り寄せ植え松茸をしたのである.当日、秀吉もお女中も大いにマツタケ狩りを楽しんで、いざ帰城と言うとき女中の一人が“何事にも御抜かりのない明智の君にあらせても、これ丈はご承知あそばさぬと見える”と口を滑らせた.しかし、太閤はそんなことはとうに知っていると人の好意を考えるようにその女中を諌めるくだりが紹介されている.

 この頃も、今と同じで、松茸を採ったことやマツタケの発生する場所は採る人の秘密であったようである.「きのふはけふの物語(日本古典文学大系:岩波書店)」に、「吉田殿の山には松茸がはへ候えども、松茸の有るよし、よそへ聞こえ候えば、むつかしきとて、ふかく隠密なさるる」.長岡幽斉に送る際、念の入ったことに、「これは、われらが山に生え候えども、世上へは隠密いたし候えども、其の方へ進じ候.よそへ御かくし候」.と添え状を書いていることなどが紹介されている.

江戸時代の初め、金閣寺の鳳林承章禅師の日記である隔蓂記(1632-1668)を解析した近代マツタケ学の創始者 濱田 稔先生(1972)によると、金閣寺の裏山で採れたマツタケを克明にその日の天候や送り先が記してあるそうだ.1636年から1650年までは、出たり出なかったりを繰り返しているが1655年から5年間は300本台の収穫で、1661年には1055本、1662年には2050本と急増している.当時の気象とマツタケの発生との関係を知ることが出来る.
他に伏見稲荷神社の宮司による稲荷山のマツタケの発生などを記した記録がある.徳川将軍への献上に用いたことなどが書かれている.

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