まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

マツタケの食文化考-2-

2005年06月29日 | マツタケの生理生態

まつたけの食文化考-2-  

 さて、前回の続きであるが、日本人は、マツタケを好んで食べたり楽しんだり、五感で味わったという.公家も、マツタケには目がない人が多いようである.
 
例えば、関白近衛政家公は、「1467年9月28日宇治に行って椎の実を拾わせてマツタケをとったが、大層面白かった」.一献かたむけて夕方帰参した」とある.応仁の乱の最中である、いつの世も実際に戦うのは庶民ばかりなのか.10月11日にも紅葉狩りに出かけて「余以外みな泥酔.正体も無く前後覚えなし(後法興院日記)」.
戦いの前線にいるのは、どこの国でも時代を問わず こういう人ではないらしい.

 秀吉は大変なマツタケ好きのようである.
老人雑話(伊藤担庵)の中に山城の内山里に梅松が松を植林したところ、間もなく“マツタケが発生した”と秀吉に献上.秀吉 “ご威光、まことにさもあらん”と喜ぶ.調子にのって数回マツタケを献上したところ、“もはや献ずることをやめさせよ.生い過ぎる”と注意を受ける.
秀吉はマツタケの発生法を良く知っていたようである.
 翁草(江村専斉)に伏見の稲荷山でマツタケ狩りをすると急に言い出した.奉行たちはすぐに山止めをさせた.しかし、すでに人に採られていたのか、稲荷山にマツタケは1本も無かった.急遽、他の山から取り寄せ植え松茸をしたのである.当日、秀吉もお女中も大いにマツタケ狩りを楽しんで、いざ帰城と言うとき女中の一人が“何事にも御抜かりのない明智の君にあらせても、これ丈はご承知あそばさぬと見える”と口を滑らせた.しかし、太閤はそんなことはとうに知っていると人の好意を考えるようにその女中を諌めるくだりが紹介されている.

 この頃も、今と同じで、松茸を採ったことやマツタケの発生する場所は採る人の秘密であったようである.「きのふはけふの物語(日本古典文学大系:岩波書店)」に、「吉田殿の山には松茸がはへ候えども、松茸の有るよし、よそへ聞こえ候えば、むつかしきとて、ふかく隠密なさるる」.長岡幽斉に送る際、念の入ったことに、「これは、われらが山に生え候えども、世上へは隠密いたし候えども、其の方へ進じ候.よそへ御かくし候」.と添え状を書いていることなどが紹介されている.

江戸時代の初め、金閣寺の鳳林承章禅師の日記である隔蓂記(1632-1668)を解析した近代マツタケ学の創始者 濱田 稔先生(1972)によると、金閣寺の裏山で採れたマツタケを克明にその日の天候や送り先が記してあるそうだ.1636年から1650年までは、出たり出なかったりを繰り返しているが1655年から5年間は300本台の収穫で、1661年には1055本、1662年には2050本と急増している.当時の気象とマツタケの発生との関係を知ることが出来る.
他に伏見稲荷神社の宮司による稲荷山のマツタケの発生などを記した記録がある.徳川将軍への献上に用いたことなどが書かれている.

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第3回まつたけ十字軍運動のご案内

2005年06月27日 |  マツタケの林地栽培 
第3回まつたけ十字軍運動のご案内
 第2回のマツタケ発生環境整備作業は、14(うち女性3名)名の参加を得て、無事終了しました.当日の京都アメダスの観測値は気温34.1℃、湿度32%という過酷な状態でしたが、適切な作業と休息の組合せで不調を覚える人もなく作業は終了しました.チェーソーの扱いに慣れた人たちは、斜面に向かって右側のヒノキの類を伐り倒しました.中小径木を運び出す人たち、地掻をする人たち、全員が自分の役割や能力を考慮して見事な連係プレーが見られました.このような状態で、今後も作業を進めて行きたいものです.
右の図は、斜面を少し右から見た、第2回終了後の林の様子です.こんな風になると、この秋にもマツタケが生えてくるように思ってきます.
引き続き、事故のないように作業を続けるためには、頭や手などを厚手の皮手袋やヘルメットで保護されるようにお勧めします. バイオトイレも設置しました.
雨天の場合(当日朝気象庁発表の午後の降水確率50%以上の場合も)は、市民環境研究所(叡山電車:元田中駅を南へ下がる西側1分、石川電器ビル3F) で、マツタケの生態などを勉強します.   
                 
実 施 要 領
1)実施日    2005年7月1日(金)
2)集合時刻 午前10時30分(午後4時作業終了)
3)集合場所 京都市左京区岩倉村松町 京都バス「村松集会所前」バス停
4)服装等 山で軽労働できる服装.タオル、手袋、ヘルメットなど
5)用意するもの 昼食、飲料水、交通費など. お持ちならノコ・ナタ、熊手. 
6)アクセス 京都バス:出町柳から(41系統、所要時間25分)
   四条河原町から(41系統、所要時間38分)
京都地下鉄国際会館駅から(45系統、13分)
    

参加希望者は吉村まで連絡ください.

主 催 団 体
NPO国際環境微生物応用研究機構、香川理化学研究所、NPO市民環境研究所、
京都大学マツタケ研究会(京大農図、大月 健 気付)

連絡先(担当責任者)

吉村 文彦(fy1130@hera.eonet.ne.jp)    
607-8166京都市山科区椥辻番所ヶ口町173. 075-581-3210(Fax兼用)、090-6227-4305 

大月 健(nodoka@kais.kyoto-ac.jp)  
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34.1℃、湿度32%の中 無事作業を終了

2005年06月25日 |  マツタケの林地栽培 
 6月25日、朝10時30分、岩倉に14名の十字軍参加者が集まり16時過ぎまで、マツタケ山づくりに気持ちの良い汗を流した.
 全国では、山、スポーツ、草刈作業で熱中症で意識不明者が出たらしい.
 我々の仲間は、一人も不調を覚えず本日の作業が終了した.
 アカマツ林が、「本当にありがとう!」と言って喜んでいるように見えます.
 このブログをよんで戴いている皆さんも一度ご参加ください.
 来週の予定は、この欄にてお知らせします.

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マツタケは、このように、昔から好まれていた

2005年06月23日 | マツタケの生理生態

マ ツ タ ケ の 食 文 化 考-1-

マツタケの産地は、日本、朝鮮半島、サハリン、中国、台湾(玉山、八通関)、ブータン、トルコ、モロッコ、アルジェリア、スペイン、フランス(ニース、19C)、スゥエーデン、フィンランド、北米大陸など.
マツタケを好む民族は日本人.やはりマツタケの産地である韓国では慶州(Kyongju)の人はマツタケを好むが、他は興味を示さない.中国のある地域では、香りが合わないらしく皮を剥いで食べている.ヨーロッパ・アメリカ人、アフリカ人も香りを嫌う.
しかし、今は、各地の日系人などが松茸に特別な気持を抱いて探し求めたことによって、結構現地の人たちも食べる人が増えているのも事実である.

日本では、まつ-たけと言うように松と茸という両生物をセットで考えている.(英語圏ではMatsutake Fungi とかMatsutake Mushroomと表現:学名はTricholoma matsutake (S. Ito et Imai) Sing.
何回で終了にになるか検討してないので分からないが、兎に角、前に進もう!
 

奈良時代になると、万葉集(8世紀)に、題は詠芳(2233)で、
「高松のこの峯も背(迫)に笠立てて満ち盛りたる秋の香の良さ」
とマツタケの生態を詠んだと思われる歌がある.
本居宣長は題は詠芳ではなく、詠茸の間違いという.この歌はマツタケの生態を詠んだという説(窪田空穂、鴻巣盛広、阿蘇瑞枝、沢潟久孝、小清水卓司)といやこれは「芳」すなわち蘭でフジバカマを詠んだもの(土屋文明)という2説がある.
また、大和の山は古い地質でマツタケの適地ではないのでマツタケと結論付けられない(小幡弥太郎)という説もある.しかし、マツタケの生態から見て、大和の国が必ずしもマツタケ不適地とはいえないし、開きのマツタケが数本尾根筋に生えることはアカマツ若齢林ではあることである.

平安時代になると、古今和歌集(905年)卷第5 には、素姓法師が北山に僧正遍正と茸狩りにまかれりけるによめる
「紅葉は袖にこきいれてもていでなん 秋はかぎりと見ん人のため」

拾遺和歌集(1005年)巻第7
「あしびきの山下水に濡れにけりその火先づ焚(松茸)衣焙らん」
「いとえどもつらき形見を見るときは先づ猛(松茸)からぬ音こそ泣かるれ」

愚昧記(三条実房の日記:1177年)
「9月26日、西山にある光明寺へマツタケ狩りに行って、山上の竹の柱のあずまやで酒を飲んだ」とある.

明月記(藤原定家:1206年)
「9月3日、御所へ参内すると、天皇はマツタケ山へお出かけになって、お帰りは夜更けである」とある.

鎌倉・室町時代の公家、僧の日記を見ると、マツタケ狩りを楽しみ、互いに贈りあっている(極めてワイロ性が高いという).松茸を戴いたから飲もうと誘われると、飯を持参で駆けつけている.朝から夜まで飲んだと言うような日記が多い.当時の習慣らしい.

 もう、この頃には、マツタケは高級食材として認知されていたようである.
徒然草(吉田兼好:1331年)、第118段に「鯉ばかりこそ、御前にてきらるるものなれば、やんごとなき魚なり.雉、松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず」.
次回に続く

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マツタケ菌根の人為的形成―マツタケシートによる接種が奏功

2005年06月21日 |  マツタケの林地栽培 
マツタケ菌根の人為的形成―マツタケシートによる接種が奏功
マツタケの子実体(キノコ)が人為的に得られたということが、ときどき大きなニュースになる.いやそれに止まらず人工栽培に一歩近づいたことすら取り上げられることもある.しかし、残念なことに、いつの間にか忘れられている.「一見性」の高い事実にも興味をもたれる材料であることを意味する.それは、言い換えると、マツタケと宿主(寄主)との互いの認識機構、感染の成立過程、栄養生長から生殖生長への代謝の切り替わり、子実体原基の形成メカニズムやその生長についても不明な点が多いことによる.
また、マツタケの胞子発芽から2核菌糸の感染にいたるステージにおいても、あるいは、マツタケの菌根が一定量を越えるとその菌根集団は、マツタケ主導の独特のシステム=シロを作り、そこにおいても、さまざまな微生物とのインタラクションを持つが、ここにも分からないことが多い.土壌中にも、我々がその存在を実体的に捕らえることが非常に難しい(viable but non-culturable)微生物群が多く、ことをより複雑にしている.
マツタケを栽培しようとするとき、林地であろうと人工環境下であろうと、接種源として胞子、培養菌糸、子実体最下部の菌根(石突部)、シロの一部、マツタケが感染しているアカマツ(それ以外の宿主、人為感染苗を含む)が考えられる.その中で、培養菌糸は年中得られることや扱い易いなどの利点がある.飢餓培養したマツタケの培養菌糸を林地のアカマツ細根に接種しても感染に成功した例がない.しかし、容器内で、アカマツ実生苗の根にマツタケ培養菌糸を接種すると感染が成立し、菌根は容易に得られ、マツタケ特有の共生機能である微生物排除能も示される.この微生物排除物質は、抗菌スペクトルが幅広く有用に思えるが、まだ単離されていない.この感染苗をアカマツ林地に移植すると、訓育に成功しても多くの場合には、根の表皮が剥れると共にやがてマツタケの菌根も消失するが、南部アカマツの系統(岩手県のアカマツを指す)とその地域のマツタケで試みると毎年伸張する根にマツタケの菌根が形成されている.形成された菌根が早期に脱落するケースとそうでないケースが生じるが、アカマツの系統とマツタケの系統との親和性が関与しているかもしれない.しかし、現在4年を経過したが、根量不足で、シロの形成にはいたっていない.
そこで、マツタケ接種用の苗として、多量の細根が得やすい齢のアカマツを利用することを考えた. 2~4年生のアカマツやネズミサシ(マツタケが感染する)を鉢植えにする.鉢底が土に触れないように棚上で5年ほど育てると、菌根菌に感染していない細根を大量に持った7~9年生の苗が得られる. 発根作用を有するホルモン処理を施すと1~2年で十分量の細根となる.
続いて、接種源の準備であるが、接種用のマツタケとしてはやはり培養菌糸を、しかも大量に接種できるように工夫を施した.マツタケの菌糸は液体中で培養すると底に沈み酸素不足のため生長が悪くなるが、適当なフロートを菌糸の下にあてがって培養すると生長が良くなる.水に浮きやすい材質の不織布上にホモジナイズした菌糸を置き、回転培養して菌糸をマット状に育てる.
更に、マツタケを接種した苗を保育するには、マツタケが生活できる土壌条件を有したアカマツ林を準備する必要がある.その作業は、本来の里山林の姿に倣って、高等植物の密度調整と土壌微生物群のコントロールを目的とした地表の落葉落枝層の除去や腐植層の厚みを制禦することである.
マツタケ接種用のアカマツとネズの根を水洗して土を落とし、根にマツタケシートを巻きつけ、手入れ済みのアカマツ林で、マツタケの発生が無い西斜面に移植した.1年後に根を掘りあげて感染の有無を確認すると、マツタケ接種部位を中心にしてその付近の表皮細胞の間隙にハルティッヒ ネットが形成されており、微生物排除能力も確認された.この接種源マツタケはリボソームDNAのITS領域の一部に、移植したアカマツ林に発生するマツタケにはない塩基のダブりを有しているが、形成された菌根から分離したカビにも同じ塩基配列が見られた.したがって接種したマツタケの菌根である可能性が極めて高いと考えられるが、目下、個体識別を試みている.
最近、マツタケの人工栽培に成功したという報告とマツタケゲノムの80%の塩基配列を解読し菌床栽培に道がついたという新聞報道があった.
前者は、硫酸パルプ廃液を800℃で処理した粉末とアカマツ林内の心土とマツタケの培養菌糸を混合して種菌とする.それをマツタケが発生しているシロの外側に空けた穴に埋めたところ、3年後にマツタケが発生したものである.実験方法の記載が不十分なために、科学的検証がしにくいが、マツタケのシロの外側に種菌を埋めているため、やがてマツタケが発生しても不思議ではない.また、発生したキノコは、リボソームDNAのITS領域の塩基配列からマツタケであるといえるに過ぎないとのことである(DNA解読担当者私信).
後者は、マツタケの遺伝子の機能が解明されたら、その結果は、マツタケの林地栽培にも応用でき、歓迎すべきことである.しかし、遺伝学のセントラルドグマが揺らいでいて、腐生性のキノコから進化したと考えられる菌根性キノコであるマツタケでは、たんぱく質をコードしていない部分(ジャンクDNA)に、子実体形成を支配する遺伝子がないと言い切れない不安を覚えるのである.
大量の細根を持ったアカマツ苗にマツタケシートを接種するという方法で、培養菌糸がホストの根に野外で感染し、菌根が人為的に形成された.これを応用して、シロを人為的に形成できると考えられる.初年度の春に、多数のアカマツの苗を発根処理してを鉢植えにする.2年目に、苗の細根にマツタケシートを接種し、山に植える.3年目に、マツタケ菌根が形成された苗を掘り起し、直径30cmほどの円周(初めてマツタケを発生するシロの大きさである)上に植えなおす.気温の上昇につれて、マツタケは、伸張するアカマツの根にどんどん感染して菌根を増やし、それらは人為的なシロになる.すると、その秋にはマツタケ子実体が発生するのではないだろうか.(詳しくは、化学と生物5月号を見てください.)
6月25日の京都・岩倉でのマツタケ十字軍運動で、マツタケ菌糸マット接種実験を準備中

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マツタケ十字軍参加ご協力感謝と第2回のお誘い

2005年06月19日 |  マツタケの林地栽培 
第2回まつたけ十字軍運動への誘い

第1回のマツタケ発生環境整備作業は、25名の参加を得て、無事終了しました.皆さんの力を結集すれば、すごいことが出来る見本となりました.手入されたエリアは見違えるようにさわやかな林になっています.でも、未だ作業が終わっていません.この調子で、事故もなく、作業を続けたいものです.皆さんの活動振りが、6月17日付京都新聞と朝日新聞の朝刊に紹介されています.
なお、頭や手などを守るために、厚手の皮手袋やヘルメット着用をお勧めいたします. 他に、バイオトイレの設置なども考慮せねばならないなど、いくつかの課題も出てきました.
第2回から、作業日をウィークデイと土曜日を交互に取り入れることにしました.今回は、土曜日になります.
なお、作業場所はおなじですが、今回から、開始時刻や集合場所に変更がありますので、お間違えのないようにお集まりください.雨天の場合(当日朝気象庁発表の午後の降水確率50%以上)は、市民環境研究所(叡山電車:元田中駅を南へ下がる西側1分、石川電器ビル3F) で交流会を行ないます.   
                 
実 施 要 領
1)実施日    2005年6月25日(土)
2)集合時刻 午前10時30分(午後4時作業終了)
3)集合場所 京都市左京区岩倉村松町 京都バス「村松集会所前」バス停
4)服装等 山で軽労働できる服装(黒い服は、蜂類が好きだそうです)
5)用意するもの 昼食、交通費など. お持ちならノコ・ナタ、熊手. 
6)アクセス 京都バス:出町柳から(41系統、所要時間25分)
   四条河原町から(41系統、所要時間38分)
京都地下鉄国際会館駅から(45系統、13分)
    
参加希望者は吉村or大月まで連絡ください.
主 催 団 体
NPO国際環境微生物応用研究機構
香川理化学研究所
NPO市民環境研究所
京都大学マツタケ研究会(京大農図、大月 健 気付)

連絡先(担当責任者)
吉村 文彦(fyoshimu@suite.plala.or.jp)
607-8166    
京都市山科区椥辻番所ヶ口町173
075-581-3210(Fax兼用)、090-6227-4305 
大月 健(nodoka@kais.kyoto-ac.jp)  
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マツタケ十字軍運動紹介(京都新聞)

2005年06月14日 |  マツタケの林地栽培 

Kyoto Shimbun News 2005年6月14日(火)

京都新聞 6月14日から


京にマツタケ復活を
研究者と京大生、「十字軍」結成



 今ではほとんど採れなくなった京都市内産のマツタケを復活させようと、京都大農学部生やマツタケの研究者らが「まつたけ十字軍」を結成した。16日から左京区岩倉にある山林の一角(約0・3ヘクタール)を整備し、数年後にはマツタケ狩りのできる山にすることを目指す。
 ■「最短5年」成果期待
 計画を進めているのは、NPO法人(特定非営利活動法人)国際環境微生物応用研究機構(大阪市)の吉村文彦理事長(64)ら。吉村さんは京大農学部でマツタケ増産を研究。今年3月末まで岩手県岩泉町の「まつたけ研究所」で15年にわたって所長を務め、培養菌を入れた特製の「マツタケ菌糸マット」を使い、町内のマツタケ収穫量を年平均約1・8トンから年最大約10トンに増やした。
 京都は、江戸時代から「都マツタケ」の産地として知られており、北山などで収穫されたものは贈答品として重宝された。戦後激減し、いまでは市内産が市場に流通することはほとんどない。
 「まつたけ十字軍」の活動には、京都大農学部の学生や吉村さんの仲間の研究者ら15人ほどが参加する予定で、里山林の密度調整や腐植層を取り除くなどの手入れから始める。
 借り受けた計画地=写真=には樹齢25年程度のアカマツが茂り、「最短なら5年ぐらいでマツタケが地上に姿を現してくれるかもしれない」(吉村さん)と期待を寄せる。マツタケ菌マットを使って、菌糸を人工接種することも考えている。
 収穫できれば「京まつたけ」と名付ける予定で、活動資金や機材を提供する協力者を募っている。問い合わせは吉村さんTEL075(581)3210。



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里山林の保全には、マツタケ増産が似合う

2005年06月13日 |  マツタケの林地栽培 
マツタケの増産は、里山林の保全である
アカマツの出現はいつから
 魏志倭人伝(西暦239年)には、日本の植生として松類の記載がない.
 花粉分析によると、アカマツは縄文時代には瀬戸内沿岸にのみ存在していた(安田喜憲:1998、森と文明の物語、ちくま新書).本州、四国、九州でアカマツが増えた時期は西暦500年頃からである(塚田松雄:1974、花粉は語る、岩波新書)が、その急増期は鎌倉時代以降で、東北北部のアカマツの拡大は江戸時代後半以降に見られる(安田:1998).
 
昔、人は生活するために炭や薪や柴などエネルギー源を住居近辺の原生林で調達した.住居や神社仏閣を造るためにも、また土木工事用にも膨大量の木材を伐採している.木製生活用具の材料の採取も森林であった.食糧生産には水田にも農地にも肥料を施すが、落葉や刈敷も集落に近い林から得ていた.このような森林の活用が人口増とともに激しさを増し、終には里山林(アカマツ-コナラ林)という二次的な生態系を創出するのである.
 
先述のように、人の生産活動によって、アカマツの進出は規定されているといえる.北上山系では、古くからたたら式製鉄業が盛んで、これにはアカマツの炭が最良であるためアカマツの保育もなされたようである.焼き物業も同様、原生林の二次林化をすすめた.それに製塩業、寒冷地の酒造業(恒温のため)も禿山化を推し進めた.又、畜産業も原生林の草地化を促すはずである.
昭和30年代までの岩手県岩泉町の景観は、短角牛の産地だけに見渡す限り草地で、見える林のほとんどがアカマツ林であったと聞いている.牛と炭が基幹産業であったためであろう.

マツタケの出現はいつから
 ホストであるマツ科の植物の存在抜きには、マツタケは子実体を形成しない.すると、マツタケがあちこちで人目に触れるようになった時期は西暦500年以降と考えられる.しかし、その頃は、現大阪府堺市でも未だ広葉樹が優占していて、7・8世紀になってアカマツが優占したと考えられる(広木詔三:2003、里山の生態学、名古屋大学出版会.西田正規:1976、大阪府文化財調査報告書第28輯、大阪府教育委員会).すると、マツタケの登場は、それ以降と考えられる.

マツタケとアカマツは共生関係
マツタケの生活史は、アカマツ、クロマツ、ハイマツ、ツガ、コメツガ、シラビソ、トドマツ、エゾマツ、レバノンスギなど宿主(寄主)になるマツ科の植物がないと完結しない.
マツ科の植物があればよいというわけではない.すなわち、アカマツはマツタケを必ずしも必要としないからである.アカマツをホストとするキノコはシメジ類、テングタケの仲間、クロカワなど多種である.
①マツタケとアカマツの菌根は、植物ホルモンIAAを産生し、根の分岐を促し特徴ある形態 
的変化を来す.
②土壌中の病原菌や金属毒性から宿主を守っている.抗微生物能のある物質を分泌.
  Al、Ca、NiやZnの害を防ぐ.
③マツタケの菌糸は風乾土壌からも水を吸収できる.従ってアカマツの耐乾性能に寄与す る.
④根外菌叢は有機酸や酵素を分泌しP,N,Kなどの無機塩類を吸収し、アカマツに与えて いる.
⑤マツタケはエネルギー源としてアカマツから光合成産物(グルコース)を摂取.
⑥菌根感染樹木の光合成の向上が報告されている.
⑦菌根を介した地下部のネットワークの役割が脚光を浴びている.
相互扶助的な養分等の流れが見られる.

アカマツの材線虫の枯損を止める意味でも、生物の多様性保全のためにも、もちろんマツタケ増産のためにも、里山林の主要構成樹種であるアカマツ林の手入れ面積を拡大させる必要がある.
そうすると、里山保全に必要な資金が浮いてくると考えられる.また、100年・200年のアカマツ材は、現在でも、高価に取引されていることを忘れがちである!
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毎日新聞の紹介記事

2005年06月12日 |  マツタケの林地栽培 

まつたけ十字軍運動:
マツタケ林を復活させよう--京都で16日 /大阪
 マツタケが生えてきたかつての里山の林を復活させようと「まつたけ十字軍運動」が16日午後1時35分、京都市の叡山電鉄・岩倉駅前集合で行われる。参加無料。

 指導は、吉村文彦・元岩泉まつたけ研究所長(岩手県岩泉町)。木や落ち葉の密度を昔の里山のレベルにしてやれば、マツタケが生えてくる可能性があるという。

 実施場所は、岩倉・尼吹山に近いアカマツ林。14日までに吉村さん(090・6227・4305)に申し込みを。【大島秀利】

毎日新聞 2005年6月12日



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マツタケ十字軍運動のお誘い

2005年06月11日 |  マツタケの林地栽培 
まつたけ十字軍運動への誘い
  人の激しい活動で、地球表面上の様々な所に、今までに見られない現象が起こっています.いいものは無い様に思いますが、生物の多様性の危機もその一つです.
  環境省のレッドデータブック記載の絶滅危惧種・危急種の約半分は、私達の身近な「里山」と呼ばれる空間の生き物です.ヒトが1500年に渡って利用してきた林を放棄したため、激しく環境が変化したからです.
  その林業エリア(里山林)は、つい最近まで、マツタケが足の踏み場も無いほどに発生していたところでもありますが、今では、それも夢のようです.
  近代マツタケ学の創始者 故濱田 稔先生グループの研究の場(当時の京都大学農学部応用植物学研究室のフィールド:試験地)が岩倉・尼吹山にあります.
その近くのアカマツ林で、マツタケ十字軍運動の一環として松茸発生整備作業を行います.予備調査では、近辺に、今でも「京(みやこ)まつたけ」の発生が確認されています.
里山林の崩壊を憂う心ある皆さんの応援を戴き、そのアカマツ林にマツタケを発生させようと計画をしました.将来の「まつたけ狩り」を夢見て参加くださるようにお願いします.参加希望の方は、6月14日までに、連絡先までメールあるいは電話ください.
実 施 要 項 
1)実施日    2005年6月16日(木);11時雨天延期
2)集合時刻 13時35分
3)集合場所 京都市左京区 叡山電鉄「岩倉」駅前
4)服装等 軽労働できる服装
5)アクセス 四条京阪(京阪本線)――出町柳(叡山電鉄)――岩倉
13:07発         13:13
13:20      13:33着
         所要時間26分、470円
主催団体
NPO国際環境微生物応用研究機構
香川理化学研究所
NPO市民環境研究所
京都大学マツタケ研究会 
連絡先(担当責任者)
吉村 文彦(fyoshimu@suite.plala.or.jp)
607-8166
京都市山科区椥辻番所ヶ口町173
075-581-3210(Fax兼用)
090-6227-4305   
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