まつたけ山復活させ隊運動ニュース

 松茸は奈良時代から珍重されてきたが、絶滅が心配される.松茸山づくりは里山復活の近道であり里山の再生は松茸復活に繋がる.

アカマツ林とマツタケ-2-

2005年07月16日 | マツタケの生理生態

里山林(アカマツ林)の登場
写真は、まつたけのトンネル栽培(虫除けにもなる)
昔、人は自分とその家族の生活のために炭や薪、柴などエネルギー源を集落近辺の原生林で調達した(これは雑木林になった).住居や神社仏閣を造るためにもあるいは土木工事用にも膨大量の材木を伐採している(禿山化推進).木製用具の材料採取も原生林であった.また、食糧生産には農地に肥料を施すが、肥料用の落葉や刈敷(緑肥)の採取もなされた(アカマツ林を生んだ).
このような原生林の活用が人口増とともに激しさを増し、終には原生林という生態系から新しい里山林という生態系を創出するのである.いつ頃からアカマツ林が、今は全国的にはマツノザイセンチュウの害で減少しているが、日本列島にこれほどの密度で見られるようになったのであろうか.
花粉分析によると、瀬戸内沿岸では、6500年前頃にはアカマツ林は存在していた(安田喜憲 1980).本州、四国、九州で、アカマツ花粉が優占する時期は西暦500年頃からであるが(塚田松雄 1974)、その急増期は鎌倉時代以降で、東北地域へのアカマツ林の拡大は江戸時代後半から明治の初め頃である(安田喜憲 1995).明治の初めまでは、日本の里山は、草山や禿山が多かったが、明治以降の砂防工事によって、禿山からアカマツ林が再生したという(吉良竜夫 2001).

マツタケもあわせて登場
奈良時代に、マツタケは内陸の山の尾根筋に侵入してきたアカマツ林に登場し,まつたけ狩の様子が万葉集にうかがえる(高松のこの峰も背に立ててみちさかりたる秋の香のよさ).平安時代には、素性法師が北山にキノコ狩りに出かけて「もみぢ葉は袖にこきいれても出でなむ 秋は限りと見む人のため」と詠んでいる(古今和歌集).平安京周辺の原生林が破壊され、常緑広葉樹林がアカマツ林に代わっていることが読み取れる.鎌倉時代にもなると、マツタケ発生量も増えてきたのか、室町時代にかけて天皇や公家が盛んにマツタケ狩を楽しみ,贈答しあっている様子が日記に見られる.
しかし、江戸時代でも、林の激しい活用で禿山が多く、マツタケの生産量は少ない. “松茸や食ふにもおしい遣るもおし”いものであり(蕪村),また“下臈のロにはかなわない”代物であった(本朝食鑑、人見必大).時代が下って、昭和10-20年代は,マツタケが「蹴飛ばすほど生えた」とか言われたが,昭和16年の12、222tの生産量を最高に,昭和35年頃からその生産量が激減している.これは、アカマツ林を含む里山の現況を反映しており、2003年はその150分の1に減少している.
-続く-

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