ベルリンの壁の裏側は、どうなっているのか? 見たい(1988年)、
と東ベルリンに行って、ブランデンブルク門とベルリンの壁、
の裏側を見ることができた。立ち入り禁止、工事現場のようで、
文化の創造とは、かけ離れていたことを書いた。
そしてツアーでは、東ベルリンの見どころは、慰霊碑と博物館だった。
市民が息づく街……市場、商店街、住宅街などは、
見学ルートに入っていなかったし、見せられなかった。
東西ベルリンを見るツアー・バスは、東ベルリンに入ると、
一番の中心街、ブランデンブルク門から東に延びる大通り、
菩提樹の並木通り、ウンター・デン・リンデンを東に走る。
左が歴史博物館、中央にそびえるのはテレビ塔。
この先は博物館島になる。運転席の窓から。
――東ベルリンの第一印象は、活気がない。死んだような街だ。
東ベルリンの市民は、どこにいるのだろう?
東京ならば、中心街は銀座、博物館街は上野で、
にぎわいがあるが、東ベルリンは、人影がすくない。
1990年に東ドイツが消滅するが、国消滅の2年前を見た。
フンボルト大学、ベルリン大聖堂、赤い市庁舎などを眺めてから、
中心街から南東へ7キロメートルにあるトレプトウの、
ソ連の“戦没兵士慰霊碑”に向かった。
中央に巨大なソ連兵士の像がある。
右手に剣を持ち、左手に子ども抱いて、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐を踏み壊して、その上に立っている。
「ソ連の兵士が、ファシストからヨーロッパの文明を救ったことを、
称えるものです。左右にある石碑も、戦没兵士を称えています。
スターリンの石碑もあります」
と、東のガイドから説明を受ける。
さきに、西ベルリンでは“ソ連の戦勝記念碑”を見たが、
ソ連の国威の発揚は、巨大な慰霊碑や記念碑をつくって、
それを、ツアー客に誇示するかのようだ。
そして、東ベルリンのツアーのメインは、“ペルガモン博物館”だった。
シュプレー川が二又に分かれた中州が、“博物館島”で、
ペルガモン博物館や旧博物館など、5つの博物館がかたまってある。
ペルガモン博物館では、トルコの古代遺跡であるゼウスの大祭壇、
を見るが、中央の橋の右は、ゼウスの大祭壇がある玄関につながる。
ギリシャのアレクサンドロス大王が東征したあと、
小国に分かれたが、その一つがペルガモン王国である。
トルコのエーゲ海に近いベルガマの街のアクロポリスに、
神殿(トラヤヌス神殿、アテナ神殿)、円形劇場、それに、
ゼウスの大祭壇などをつくった(紀元前2世紀)。
その“ゼウスの大祭壇”を発掘・調査してベルリンに運び、復元した。
写真が鮮明でなくて、すみません。
中央がゼウスの大祭壇の右半分、右はフリーズ(浮き彫り)。
祭壇を目の当たりにしているが、こんな壮大なものを、
――発掘して、輸送して、よく、復元できたもんだ。
それに、どうして東ベルリンにあるのだろう?
「1878年にドイツのカール・フーマンの調査によって、
ベルガマの土の中からゼウスの大祭壇を発掘しました。
ゼウスの大祭壇と、周囲のフリーズを船でベルリンに運んで、
20年かけて復元して、よみがえらせることができました」
と、ガイドは言う。
「しかし、第2次世界大戦の攻撃で被害を受けました。
そのあと、ソ連が保存の目的で運び出しましたが、
1958年に返却されて、再建できました」
コの字型をしたペルガモン博物館は、ほかに、
バビロニアの“イシュタール門”、
古代ローマの“ミトレスの市場門”もある。
ミトレスの市場門。
――こんな巨大な遺跡を、よく、運びこんだもんだ。
「土に埋もれたゼウスの大祭壇は、一部は掘り起こされて、
大理石は石灰として使われていました」
と言うから、発掘・調査をして、搬出し、復元できた遺跡を、
いまこうして、見ることは、ありがたいことだと思う。
――しかし、東ドイツの独自の美術品はないのだろうか?
それに、ペルガモン博物館は、がらがらだ。
我々西ベルリンからのツアー客だけで、
東ベルリンの市民はいない。
東ベルリンの見どころは、慰霊碑と博物館だった。
ソ連の“戦没兵士慰霊碑”を見る。“博物館島”へ移動して、
“ペルガモン博物館”でトルコやバビロニア、ローマの遺跡を見る。
東ベルリンは、独自の文化を見せる街ではなかった。
革命体制を追い求める共産政権下では、独自の文化を創り出す、
という余力はなかったんだろう。国威の発揚は、記念碑に注いだ。
それに、国が消滅する直前の東ベルリンの市民には、
芸術を鑑賞する余裕はなかった。
1990年10月に東ドイツが消滅するが、
その2年前の東ベルリンでは、西のツアー客に、
活気がある、人がにぎわっている、発展している、
と思わせるところを、見せることができなかった。
西ベルリンでも、見逃せない美術品がある。
それは、エジプトの王妃“ネフェルティティの胸像”。
ネフェルティティの胸像は、実際は金色ではなく、
彩色されている(紀元前14世紀)。
いまは、博物館島の旧博物館に移されているが、
当時は、シャルロッテンブルク宮殿のエジプト博物館にあった。
「王妃ネフェルティティは、ファラオ・ツタンカーメンの、
父と結婚したから、ツタンカーメンの義母になります。
美しい人でした。エジプト芸術の傑作です」
と、西のガイドは話す。
第2次世界大戦から半世紀たって、ベルリンの見どころ、
“博物館島”は、1999年に世界遺産になった。
ペルガモン博物館の“ゼウスの大祭壇”や、
旧博物館の“ネフェルティティの胸像”は、
ベルリンの市民でにぎわい、世界の人をひきつけている。
と東ベルリンに行って、ブランデンブルク門とベルリンの壁、
の裏側を見ることができた。立ち入り禁止、工事現場のようで、
文化の創造とは、かけ離れていたことを書いた。
そしてツアーでは、東ベルリンの見どころは、慰霊碑と博物館だった。
市民が息づく街……市場、商店街、住宅街などは、
見学ルートに入っていなかったし、見せられなかった。
東西ベルリンを見るツアー・バスは、東ベルリンに入ると、
一番の中心街、ブランデンブルク門から東に延びる大通り、
菩提樹の並木通り、ウンター・デン・リンデンを東に走る。
左が歴史博物館、中央にそびえるのはテレビ塔。
この先は博物館島になる。運転席の窓から。
――東ベルリンの第一印象は、活気がない。死んだような街だ。
東ベルリンの市民は、どこにいるのだろう?
東京ならば、中心街は銀座、博物館街は上野で、
にぎわいがあるが、東ベルリンは、人影がすくない。
1990年に東ドイツが消滅するが、国消滅の2年前を見た。
フンボルト大学、ベルリン大聖堂、赤い市庁舎などを眺めてから、
中心街から南東へ7キロメートルにあるトレプトウの、
ソ連の“戦没兵士慰霊碑”に向かった。
中央に巨大なソ連兵士の像がある。
右手に剣を持ち、左手に子ども抱いて、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐を踏み壊して、その上に立っている。
「ソ連の兵士が、ファシストからヨーロッパの文明を救ったことを、
称えるものです。左右にある石碑も、戦没兵士を称えています。
スターリンの石碑もあります」
と、東のガイドから説明を受ける。
さきに、西ベルリンでは“ソ連の戦勝記念碑”を見たが、
ソ連の国威の発揚は、巨大な慰霊碑や記念碑をつくって、
それを、ツアー客に誇示するかのようだ。
そして、東ベルリンのツアーのメインは、“ペルガモン博物館”だった。
シュプレー川が二又に分かれた中州が、“博物館島”で、
ペルガモン博物館や旧博物館など、5つの博物館がかたまってある。
ペルガモン博物館では、トルコの古代遺跡であるゼウスの大祭壇、
を見るが、中央の橋の右は、ゼウスの大祭壇がある玄関につながる。
ギリシャのアレクサンドロス大王が東征したあと、
小国に分かれたが、その一つがペルガモン王国である。
トルコのエーゲ海に近いベルガマの街のアクロポリスに、
神殿(トラヤヌス神殿、アテナ神殿)、円形劇場、それに、
ゼウスの大祭壇などをつくった(紀元前2世紀)。
その“ゼウスの大祭壇”を発掘・調査してベルリンに運び、復元した。
写真が鮮明でなくて、すみません。
中央がゼウスの大祭壇の右半分、右はフリーズ(浮き彫り)。
祭壇を目の当たりにしているが、こんな壮大なものを、
――発掘して、輸送して、よく、復元できたもんだ。
それに、どうして東ベルリンにあるのだろう?
「1878年にドイツのカール・フーマンの調査によって、
ベルガマの土の中からゼウスの大祭壇を発掘しました。
ゼウスの大祭壇と、周囲のフリーズを船でベルリンに運んで、
20年かけて復元して、よみがえらせることができました」
と、ガイドは言う。
「しかし、第2次世界大戦の攻撃で被害を受けました。
そのあと、ソ連が保存の目的で運び出しましたが、
1958年に返却されて、再建できました」
コの字型をしたペルガモン博物館は、ほかに、
バビロニアの“イシュタール門”、
古代ローマの“ミトレスの市場門”もある。
ミトレスの市場門。
――こんな巨大な遺跡を、よく、運びこんだもんだ。
「土に埋もれたゼウスの大祭壇は、一部は掘り起こされて、
大理石は石灰として使われていました」
と言うから、発掘・調査をして、搬出し、復元できた遺跡を、
いまこうして、見ることは、ありがたいことだと思う。
――しかし、東ドイツの独自の美術品はないのだろうか?
それに、ペルガモン博物館は、がらがらだ。
我々西ベルリンからのツアー客だけで、
東ベルリンの市民はいない。
東ベルリンの見どころは、慰霊碑と博物館だった。
ソ連の“戦没兵士慰霊碑”を見る。“博物館島”へ移動して、
“ペルガモン博物館”でトルコやバビロニア、ローマの遺跡を見る。
東ベルリンは、独自の文化を見せる街ではなかった。
革命体制を追い求める共産政権下では、独自の文化を創り出す、
という余力はなかったんだろう。国威の発揚は、記念碑に注いだ。
それに、国が消滅する直前の東ベルリンの市民には、
芸術を鑑賞する余裕はなかった。
1990年10月に東ドイツが消滅するが、
その2年前の東ベルリンでは、西のツアー客に、
活気がある、人がにぎわっている、発展している、
と思わせるところを、見せることができなかった。
西ベルリンでも、見逃せない美術品がある。
それは、エジプトの王妃“ネフェルティティの胸像”。
ネフェルティティの胸像は、実際は金色ではなく、
彩色されている(紀元前14世紀)。
いまは、博物館島の旧博物館に移されているが、
当時は、シャルロッテンブルク宮殿のエジプト博物館にあった。
「王妃ネフェルティティは、ファラオ・ツタンカーメンの、
父と結婚したから、ツタンカーメンの義母になります。
美しい人でした。エジプト芸術の傑作です」
と、西のガイドは話す。
第2次世界大戦から半世紀たって、ベルリンの見どころ、
“博物館島”は、1999年に世界遺産になった。
ペルガモン博物館の“ゼウスの大祭壇”や、
旧博物館の“ネフェルティティの胸像”は、
ベルリンの市民でにぎわい、世界の人をひきつけている。