季節の変化

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プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」

2009-04-12 01:02:38 | Weblog
世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
これは、チェコ人、ロマーンの悲痛である。

――現地人から、こんな悲痛な叫びを、これまでに聞いたことがない。
だれに相談することもできない閉塞(へいそく)状態である。
日本人に言うからには、よほどの絶望状態だったんだろう。

21年続いた悲惨な状況とは、
1968年の“プラハの春”から、
1989年の“ビロード革命”までである。

チェコは、ビロード革命(無血革命)が成功して、
共産政権が倒れたことを、前に書いた。
そのビロード革命より21年前に“プラハの春”があった。
プラハの春は、言論を自由にし、出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和するという、民主化運動である。

しかし、プラハの春は、ソ連との決別を意味したために、
1968年8月20日の夜11時、ソ連軍がチョコに侵攻して、
数十人の犠牲者をだし、プラハを占拠した。チェコ事件である。
そして、ソ連はチェコの改革運動をやめさせた。

チェコの改革運動、「政治を、国民の皆さんにもどしたい」
と、プラハの春を進めた、時の共産党第一書記、
アレクサンデル・ドゥプチェクは失脚した。

ソ連の戦車で占拠されたプラハのヴァーツラフ広場に行きたい。
――できれば、プラハの春のおもかげがないか?

ヴァーツラフ広場には、もちろんソ連の戦車はない(2006年)。
プラハ一番の繁華街は、市民と観光客でにぎわっていた。

正面に見える国立博物館に向かうと、
ヴァーツラフの銅像の手前に花壇があり、
その中に、手作りのようなシラカバの十字架があった。

――小さい! 見落としそうだ。しかも、地面にある。
有刺鉄線で輪をつくって、十字架にかけてある。

幅80センチメートルほどの、黒いぴかぴかの石があって、
ヤン・パラフヤン・ザイクの顔が写っている。
ヤン・パラフは、1948年8月11日から1969年1月19日、
ヤン・ザイクは、1950年7月3日から1969年2月25日、
とあるから、20年18年人生だったことになる。

手前の茶色の石には、3行の文があって、2行目は英語である。
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して
1行目はチェコ語で、3行目はドイツ語……ロシア語はない。

プラハの春を、ソ連が踏みにじったことに抗議して、
20歳の学生、ヤン・パラフは、国立博物館の前でガソリンをかぶり、
焼身自殺をした。1か月後に同じ場所で、18歳の学生、ヤン・ザイクは、
後を追うように焼身自殺をした。石に刻まれた年月日がそのときを示す。

プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
2人の学生のの抗議の“記念碑”である。

ソ連のチェコ侵攻で、プラハの春は終わった。
そして、秘密警察は弾圧を再開した。
チェコは恐怖社会にもどって、民主化運動をすれば、
仕事を失い、投獄され、人生を失う。大学生は退学させられる。
恐怖社会に、チェコ人は口をつぐんだ……ビロード革命まで、21年間も。
「どうしようもない、つらい時期だった」
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