「敦煌文書は、“すごい価値”がある」
という、西夏の熱い“思い入れ”によって、
1054年ころ、莫高窟に運び込まれてから、
1900年に、王圓籙(おうえんろく)が発見するまで、
敦煌文書は、“850年”もの間、グッスリと眠っていた。
自費出版した、『世界がみる日本の魅力と通知表』の、
「850年間眠った文化」を参照して、手を加えた。
ちょっと、長くなるが、おつき合いを。
「敦煌文書は、散らばったり、盗まれたくない。
回教徒に見つかって、破壊されたくもない」
と、西夏は考えて、第17窟に封印した。
しかし、盗難や、破壊を避けて、
――850年も、“秘密”を守り通せるだろうか?
この“850年の秘密”は、5番目の“謎”だ。
――敦煌文書を、少しでも知った人は、処刑した?
敦煌文書を、“集め”た人がいるはずだ、
それを、“グルグル巻き”にした人もいるはずだ、
第17窟に“運び”入れた人もいるはずだ、
入口の“壁”を塗り固めた人もいるはずだ、
第16窟の壁に“菩薩”を描いた人もいるはずだ、
そして、これらを“指示”した人もいるはずだ……、
関係した人は、みんな、処刑してしまった?
――敦煌を制圧した時、敦煌の人を、全員を殺した?
敦煌の城から莫高窟までの20数キロを、
大量の敦煌文書を運べば、異常に気がつく人がいるはずだ。
おそらく、ラクダの隊列が、夜陰に紛れて行進したのだろう?
それで、ラクダ曳(ひ)きまで処刑した? 念には念を入れて……。
写真は現代で、旅行者を運ぶ観光用のラクダとラクダ曳き。
後方は鳴沙山(めいさざん)。
莫高窟は、ここから南東へ13キロメートル。
“850年の秘密”の“謎”は、生々しい話だ。
学芸員は、文化とはかけ離れた質問については、
ちょっと……という顔つきだったが、
それでも、いくつかに答えてくれた。
「西夏が、敦煌を制圧したときに、
敦煌の人を全員殺したわけではありません。
そのとき敦煌の人口は、3万5千人でした」
――たしかに、3万5千人は殺せない。
5番目の“謎”、“850年の秘密”はむずかしい。
ここは、敦煌文書に対する西夏の熱い、
“思い入れ”を推測するしかない。
――敦煌文書を莫高窟に運び入れて、
封印するときに、西夏は、つぎのことを、
第17窟に、お願いしたに違いない。
――敦煌文書は、すぐには見つけてほしくない。
だから、そ~っと第17窟に運び入れて、
壁を塗り固めて封印した。
その上に壁画を描いて、カムフラージュまでした。
敦煌文書を封印したという記録を、
もちろん、残したりはしない。
――だが、“すごい価値”があるものだから、
何百年後、何千年後には、
カムフラージュを見破って、
必ず、見つけ出してほしい。
――価値がないものならば、
“ゴミ”として燃やしたか、捨てていた。
大量のゴミならば、
一つひとつ巻物にしてから、
わざわざ、時間と金をかけて、
莫高窟まで、運び入れはしなかった。
その上、封印して、壁画まで描いて、
バレないように、カムフラージュはしなかった。
「中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社に、敦煌文書の量を、
「測ったところ、体積は14立方メートル近くあった」
と、書いている。
この敦煌文書のうちの1万点は、
「古文書24箱、美術品5箱を大英博物館に搬入した」
ともある(1907年)。
オーレル・スタインは1914年に、
莫高窟を再度訪問して、王圓籙(おうえんろく)に会って、
「再訪の収穫として、運び去ることを許してくれた分だけでも、
仏教経典の写本約600巻5箱におよんだ」
「相当に寄進の増額をしたことはいうまでもなかった」
と、書いている。
ここで、敦煌文書の体積14立方メートルの重さは?
敦煌文書を、連量64グラム/平方メートルの上質紙、
とすると、密度は0.8だから、11トンになる。
これは、4トン積みのトラック3台分だ。
和紙とすると、密度は0.4だから、
重量は5.6トンになる。
――これだけ、よくも、集めたもんだ!
それも、経典から絵画まで、多岐にわたる文物を。
「歴史的変化を跡づけることができるのは、
文書記録が発見されるか否かにかっている」
と、言うオーレル・スタインにとって、
膨大な敦煌文書は、うれしかったに違いない。
遺跡を科学的に調査する、大いなる証拠品である。
さて、西夏が滅び、敦煌はさびれていく。
莫高窟は、風に侵食され、砂に埋もれ、
荒れるがままになって、忘れ去られた。
異教徒の暴動で荒らされたこともあった。
敦煌は、シルクロードの交易地であったが、
海のルートができてから、重要性はなくなった。
危険な砂漠を、ラクダに荷物を乗せて曳く隊商よりも、
海上を船で大量の商品を運ぶ方が、楽だから。
しかし、敦煌文書は、世の中の動きは、
なんにも知らずに、グッスリと眠った。
「あ~、よく寝た。そろそろ、見つけてくれ!」
という敦煌文書の叫びは、
壁の割れ目から、王圓籙に届いた。
第16窟の壁の割れ目に気づいた王圓籙は、
菩薩の壁画を壊し、壁も壊して、封印をといた。
そして、敦煌文書は、“850年の眠り”から覚めた。
――西夏は、第17窟の入口の壁の厚さを、
850年後に、割れ目ができるように、
仕掛けておいた?
敦煌文書は、
「20世紀最大の発見」
と、学芸員は誇り、
「多方面の研究の対象になりうる大宝庫」
と、イギリス人、オーレル・スタインは評価した。
そして、莫高窟は、1987年に世界遺産になった。
「“すごい価値”がある」
という熱い“思い入れ”で、
敦煌文書を封印した西夏は、
砂漠の下で、ホッとしているに違いない?
「850年、秘密を守り通した敦煌文書を、
ちゃんと、評価してくれた。ゴミではなかった。
敦煌文書がきっかけで、莫高窟は世界遺産になった。
“遠大な計画”だった……だが、ついに、陽の目を見た」
「シルクロードを訪れる観光客の大半は日本人です。
敦煌を訪れる観光客の、一番は日本人で、
6割を占めます」
と、中国人ガイドは言う。
シルクロードは、
学校で学んだ歴史、
井上靖氏の小説「敦煌」、
NHKのシルクロードの放送、
平山郁夫画伯のシルクロードの画集、
それに、敦煌文書発見の謎ときもあって、
旅に、駆り立てられ、多くの旅行者が訪れる。
月牙泉(げっかせん)、鳴沙山の頂上から。
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がる。
という、西夏の熱い“思い入れ”によって、
1054年ころ、莫高窟に運び込まれてから、
1900年に、王圓籙(おうえんろく)が発見するまで、
敦煌文書は、“850年”もの間、グッスリと眠っていた。
自費出版した、『世界がみる日本の魅力と通知表』の、
「850年間眠った文化」を参照して、手を加えた。
ちょっと、長くなるが、おつき合いを。
「敦煌文書は、散らばったり、盗まれたくない。
回教徒に見つかって、破壊されたくもない」
と、西夏は考えて、第17窟に封印した。
しかし、盗難や、破壊を避けて、
――850年も、“秘密”を守り通せるだろうか?
この“850年の秘密”は、5番目の“謎”だ。
――敦煌文書を、少しでも知った人は、処刑した?
敦煌文書を、“集め”た人がいるはずだ、
それを、“グルグル巻き”にした人もいるはずだ、
第17窟に“運び”入れた人もいるはずだ、
入口の“壁”を塗り固めた人もいるはずだ、
第16窟の壁に“菩薩”を描いた人もいるはずだ、
そして、これらを“指示”した人もいるはずだ……、
関係した人は、みんな、処刑してしまった?
――敦煌を制圧した時、敦煌の人を、全員を殺した?
敦煌の城から莫高窟までの20数キロを、
大量の敦煌文書を運べば、異常に気がつく人がいるはずだ。
おそらく、ラクダの隊列が、夜陰に紛れて行進したのだろう?
それで、ラクダ曳(ひ)きまで処刑した? 念には念を入れて……。
写真は現代で、旅行者を運ぶ観光用のラクダとラクダ曳き。
後方は鳴沙山(めいさざん)。
莫高窟は、ここから南東へ13キロメートル。
“850年の秘密”の“謎”は、生々しい話だ。
学芸員は、文化とはかけ離れた質問については、
ちょっと……という顔つきだったが、
それでも、いくつかに答えてくれた。
「西夏が、敦煌を制圧したときに、
敦煌の人を全員殺したわけではありません。
そのとき敦煌の人口は、3万5千人でした」
――たしかに、3万5千人は殺せない。
5番目の“謎”、“850年の秘密”はむずかしい。
ここは、敦煌文書に対する西夏の熱い、
“思い入れ”を推測するしかない。
――敦煌文書を莫高窟に運び入れて、
封印するときに、西夏は、つぎのことを、
第17窟に、お願いしたに違いない。
――敦煌文書は、すぐには見つけてほしくない。
だから、そ~っと第17窟に運び入れて、
壁を塗り固めて封印した。
その上に壁画を描いて、カムフラージュまでした。
敦煌文書を封印したという記録を、
もちろん、残したりはしない。
――だが、“すごい価値”があるものだから、
何百年後、何千年後には、
カムフラージュを見破って、
必ず、見つけ出してほしい。
――価値がないものならば、
“ゴミ”として燃やしたか、捨てていた。
大量のゴミならば、
一つひとつ巻物にしてから、
わざわざ、時間と金をかけて、
莫高窟まで、運び入れはしなかった。
その上、封印して、壁画まで描いて、
バレないように、カムフラージュはしなかった。
「中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社に、敦煌文書の量を、
「測ったところ、体積は14立方メートル近くあった」
と、書いている。
この敦煌文書のうちの1万点は、
「古文書24箱、美術品5箱を大英博物館に搬入した」
ともある(1907年)。
オーレル・スタインは1914年に、
莫高窟を再度訪問して、王圓籙(おうえんろく)に会って、
「再訪の収穫として、運び去ることを許してくれた分だけでも、
仏教経典の写本約600巻5箱におよんだ」
「相当に寄進の増額をしたことはいうまでもなかった」
と、書いている。
ここで、敦煌文書の体積14立方メートルの重さは?
敦煌文書を、連量64グラム/平方メートルの上質紙、
とすると、密度は0.8だから、11トンになる。
これは、4トン積みのトラック3台分だ。
和紙とすると、密度は0.4だから、
重量は5.6トンになる。
――これだけ、よくも、集めたもんだ!
それも、経典から絵画まで、多岐にわたる文物を。
「歴史的変化を跡づけることができるのは、
文書記録が発見されるか否かにかっている」
と、言うオーレル・スタインにとって、
膨大な敦煌文書は、うれしかったに違いない。
遺跡を科学的に調査する、大いなる証拠品である。
さて、西夏が滅び、敦煌はさびれていく。
莫高窟は、風に侵食され、砂に埋もれ、
荒れるがままになって、忘れ去られた。
異教徒の暴動で荒らされたこともあった。
敦煌は、シルクロードの交易地であったが、
海のルートができてから、重要性はなくなった。
危険な砂漠を、ラクダに荷物を乗せて曳く隊商よりも、
海上を船で大量の商品を運ぶ方が、楽だから。
しかし、敦煌文書は、世の中の動きは、
なんにも知らずに、グッスリと眠った。
「あ~、よく寝た。そろそろ、見つけてくれ!」
という敦煌文書の叫びは、
壁の割れ目から、王圓籙に届いた。
第16窟の壁の割れ目に気づいた王圓籙は、
菩薩の壁画を壊し、壁も壊して、封印をといた。
そして、敦煌文書は、“850年の眠り”から覚めた。
――西夏は、第17窟の入口の壁の厚さを、
850年後に、割れ目ができるように、
仕掛けておいた?
敦煌文書は、
「20世紀最大の発見」
と、学芸員は誇り、
「多方面の研究の対象になりうる大宝庫」
と、イギリス人、オーレル・スタインは評価した。
そして、莫高窟は、1987年に世界遺産になった。
「“すごい価値”がある」
という熱い“思い入れ”で、
敦煌文書を封印した西夏は、
砂漠の下で、ホッとしているに違いない?
「850年、秘密を守り通した敦煌文書を、
ちゃんと、評価してくれた。ゴミではなかった。
敦煌文書がきっかけで、莫高窟は世界遺産になった。
“遠大な計画”だった……だが、ついに、陽の目を見た」
「シルクロードを訪れる観光客の大半は日本人です。
敦煌を訪れる観光客の、一番は日本人で、
6割を占めます」
と、中国人ガイドは言う。
シルクロードは、
学校で学んだ歴史、
井上靖氏の小説「敦煌」、
NHKのシルクロードの放送、
平山郁夫画伯のシルクロードの画集、
それに、敦煌文書発見の謎ときもあって、
旅に、駆り立てられ、多くの旅行者が訪れる。
月牙泉(げっかせん)、鳴沙山の頂上から。
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がる。