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敦煌文書の謎、850年の秘密

2009-02-18 07:30:56 | Weblog
敦煌文書は、“すごい価値”がある」
という、西夏の熱い“思い入れ”によって、
1054年ころ、莫高窟に運び込まれてから、
1900年に、王圓籙(おうえんろく)が発見するまで、
敦煌文書は、“850年”もの間、グッスリと眠っていた。

自費出版した、『世界がみる日本の魅力と通知表』の、
「850年間眠った文化」を参照して、手を加えた。
ちょっと、長くなるが、おつき合いを。

「敦煌文書は、散らばったり、盗まれたくない。
回教徒に見つかって、破壊されたくもない」
と、西夏は考えて、第17窟に封印した。
しかし、盗難や、破壊を避けて、
――850年も、“秘密”を守り通せるだろうか?
この“850年の秘密”は、5番目の“”だ。

――敦煌文書を、少しでも知った人は、処刑した?
敦煌文書を、“集め”た人がいるはずだ、
それを、“グルグル巻き”にした人もいるはずだ、
第17窟に“運び”入れた人もいるはずだ、
入口の“”を塗り固めた人もいるはずだ、
第16窟の壁に“菩薩”を描いた人もいるはずだ、
そして、これらを“指示”した人もいるはずだ……、
関係した人は、みんな、処刑してしまった?

――敦煌を制圧した時、敦煌の人を、全員を殺した?
敦煌の城から莫高窟までの20数キロを、
大量の敦煌文書を運べば、異常に気がつく人がいるはずだ。
おそらく、ラクダの隊列が、夜陰に紛れて行進したのだろう?
それで、ラクダ曳(ひ)きまで処刑した? 念には念を入れて……。

写真は現代で、旅行者を運ぶ観光用のラクダとラクダ曳き。
後方は鳴沙山(めいさざん)。
莫高窟は、ここから南東へ13キロメートル。

850年の秘密”の“”は、生々しい話だ。
学芸員は、文化とはかけ離れた質問については、
ちょっと……という顔つきだったが、
それでも、いくつかに答えてくれた。
「西夏が、敦煌を制圧したときに、
敦煌の人を全員殺したわけではありません。
そのとき敦煌の人口は、3万5千人でした」
――たしかに、3万5千人は殺せない。

5番目の“”、“850年の秘密”はむずかしい。
ここは、敦煌文書に対する西夏の熱い、
思い入れ”を推測するしかない。

――敦煌文書を莫高窟に運び入れて、
封印するときに、西夏は、つぎのことを、
第17窟に、お願いしたに違いない。

――敦煌文書は、すぐには見つけてほしくない。
だから、そ~っと第17窟に運び入れて、
壁を塗り固めて封印した。
その上に壁画を描いて、カムフラージュまでした。
敦煌文書を封印したという記録を、
もちろん、残したりはしない。

――だが、“すごい価値”があるものだから、
何百年後、何千年後には、
カムフラージュを見破って、
必ず、見つけ出してほしい。

――価値がないものならば、
ゴミ”として燃やしたか、捨てていた。

大量のゴミならば、
一つひとつ巻物にしてから、
わざわざ、時間をかけて、
莫高窟まで、運び入れはしなかった。
その上、封印して、壁画まで描いて、
バレないように、カムフラージュはしなかった。

中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社に、敦煌文書の量を、
「測ったところ、体積は14立方メートル近くあった」
と、書いている。

この敦煌文書のうちの1万点は、
古文書24箱美術品5箱を大英博物館に搬入した」
ともある(1907年)。

オーレル・スタインは1914年に、
莫高窟を再度訪問して、王圓籙(おうえんろく)に会って、
「再訪の収穫として、運び去ることを許してくれた分だけでも、
仏教経典の写本約600巻5箱におよんだ」
「相当に寄進の増額をしたことはいうまでもなかった」
と、書いている。

ここで、敦煌文書の体積14立方メートル重さは?
敦煌文書を、連量64グラム/平方メートルの上質紙
とすると、密度は0.8だから、11トンになる。
これは、4トン積みのトラック3台分だ。
和紙とすると、密度は0.4だから、
重量は5.6トンになる。
――これだけ、よくも、集めたもんだ!
それも、経典から絵画まで、多岐にわたる文物を。

歴史的変化跡づけることができるのは、
文書記録が発見されるか否かにかっている」
と、言うオーレル・スタインにとって、
膨大な敦煌文書は、うれしかったに違いない。
遺跡科学的に調査する、大いなる証拠品である。

さて、西夏が滅び、敦煌はさびれていく。
莫高窟は、風に侵食され、砂に埋もれ、
荒れるがままになって、忘れ去られた。
異教徒の暴動で荒らされたこともあった。

敦煌は、シルクロードの交易地であったが、
海のルートができてから、重要性はなくなった。
危険な砂漠を、ラクダに荷物を乗せて曳く隊商よりも、
海上を船で大量の商品を運ぶ方が、楽だから。

しかし、敦煌文書は、世の中の動きは、
なんにも知らずに、グッスリと眠った。

「あ~、よく寝た。そろそろ、見つけてくれ!」
という敦煌文書の叫びは、
壁の割れ目から、王圓籙に届いた。

第16窟の壁の割れ目に気づいた王圓籙は、
菩薩の壁画を壊し、も壊して、封印をといた。
そして、敦煌文書は、“850年の眠り”から覚めた。

――西夏は、第17窟の入口の壁の厚さを、
850年後に、割れ目ができるように、
仕掛けておいた?

敦煌文書は、
20世紀最大の発見
と、学芸員は誇り、
「多方面の研究の対象になりうる大宝庫
と、イギリス人、オーレル・スタインは評価した。
そして、莫高窟は、1987年世界遺産になった。

「“すごい価値”がある」
という熱い“思い入れ”で、
敦煌文書を封印した西夏は、
砂漠の下で、ホッとしているに違いない?
「850年、秘密を守り通した敦煌文書を、
ちゃんと、評価してくれた。ゴミではなかった。
敦煌文書がきっかけで、莫高窟は世界遺産になった。
遠大な計画”だった……だが、ついに、陽の目を見た

「シルクロードを訪れる観光客の大半は日本人です。
敦煌を訪れる観光客の、一番は日本人で、
6割を占めます」
と、中国人ガイドは言う。

シルクロードは、
学校で学んだ歴史
井上靖氏の小説「敦煌」、
NHKのシルクロードの放送
平山郁夫画伯のシルクロードの画集
それに、敦煌文書発見のときもあって、
旅に、駆り立てられ、多くの旅行者が訪れる。


月牙泉(げっかせん)、鳴沙山の頂上から。
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がる。
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