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東山魁夷の「年暮る」から半世紀

2012-03-04 00:03:03 | Weblog
東山魁夷の「年暮る」から半世紀になろうとしている。

山種美術館のリーフレットから。
「年暮る」(としくる)は1968年の作品。

「年暮る」のような「街並み」を探してきた。
これが、探しあてた「年暮る」のイメージ。2004年。

瓦屋根に雪が降り、夜になって、静まり返れば、
「年暮る」の世界になる。

でも、なんだか物足らない。
もっと、「年暮る」に、ピッタリの「街並み」があるはずだ?

そもそも、東山魁夷が「年暮る」を描いたきっかけは、
川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「年暮る」である。

東山魁夷は、京都ホテルオークラから、
東山方面を眺めて、「年暮る」を描いた。
その京都ホテルオークラは、
京都市役所のとなりで、
京都の中心街にある。

高級ホテルだが、いつかは、行ってみたい。
そして、東山魁夷の「年暮る」を見たい!

探しあてたイメージの写真から8年後、
ついに、京都ホテルオークラから、
東山方面を眺めることができた。2012年。

ワクワクする!

手前、左から右に鴨川が流れている。
中央奥はウェスティン都ホテル。
左奥の屋根は、南禅寺。そして、
中央にお寺がある。

「年暮る」には、お寺が描かれている。
それで、このお寺へ行ってみた。

要法寺」(ようぼうじ)だ。

左が新堂、右が本堂。

「年暮る」では、大きな屋根と、
その前に小さな屋根が描かれている。

大きな屋根は、「要法寺」の本堂だ。
その前の小さな屋根は、新堂で、
形も位置関係も同じだ。
「年暮る」は、間違いなく、
「要法寺」あたりの「街並み」を描いた。

東山方面を眺めた写真を、
「年暮る」のサイズに切り取った。

中央奥は「要法寺」。

東山魁夷の「年暮る」(1968年)から、
半世紀たった「街並み」(2012年)である。

「年暮る」のイメージはなかった。
「京都のあるうちに」描いた「年暮る」は、
半世紀たって、雑然とした「街並み」になった。

「年暮る」から半世紀たって、
「年暮る」は、なくなってしまった。

「要法寺」は本堂も新堂も、
「年暮る」のまま残っているが、
周囲は、新しい建物がごちゃごちゃと建った。

新しい建築は、まわりとの調和をまったく考えていない、
自分だけが主張する建築で、
調和を考えていない、
景観も考えていない。

半世紀前は、こういう家並みだったんだろうな?

京都ホテルオークラの北の高瀬川一乃舟入で。2012年。
お客さんが、料亭のオープンを待っている。
京都の中心街だが、電柱・電線がある。

せっかく京都ホテルオークラへ行ったが、
東山魁夷が想う京都の街「年暮る」は、
半世紀たって、なくなっていた。
「残念!」
もう、「年暮る」探しは、やめる。

半世紀前よりも、建築の「技術」は進歩した。
それに、「美意識」も向上しているだろうから、
京都の街は、半世紀前よりも、きれいになっていい。

ところが、きれいになっていない。
雑然としていた。
半世紀前のほうがきれいだった。
なぜだろうな?

まわりとの調和をまったく考えない建築、
自分だけが主張する建築、
街の景観を考えていない建築、
だからだ。

京都や街の景観について、つぎに書いてきた。
「醜い国に気付かない日本人」、2010年9月29日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/84ef875b17c21a107ab0554785b8825a

「美しき日本の残像」、アレックス・カー著、朝日文庫。

「京都の醜さは意図的なものです」
「京都はわざと京都の文化を壊しています」

京都の破壊は凄まじいものであって、
『今の日本人は昔の美に対して何らかの恨みを、
持っているのではないか』と考えるようになりました」
と、アレックス・カーは言っている。

「京都のランドマークは金閣寺」、2010年10月6日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4c8224da937ed43ef476808744200942

京都タワーができたことによって、
京都の屋根並みが劇的な致命傷を受けてしまいました」
と、アレックス・カーは言っている。

「京都人が京都駅前にローソクの化けもののような京都タワーを、
出現させたときは仰天した」
と、司馬遼太郎は言っている。

京都駅は、京都タワーによるダメージを払しょくして、
文化都市としてのイメージを回復する絶好のチャンスだったのだが」
と、アレックス・カーは言っている。


京都駅。

「1500億円をかけた新しい駅は、
建設ブームの日本でも、屈指のスケールであり、
京都タワー、京都ホテルなど足元にも及ばない。
線路に沿って500メートルの幅で、
巨大な灰色の軍艦ビルがのしかかる。
戦後の京都の慣わしにしたがって、
街の歴史を力強く否定し、
世界に向かって、否定を大声で叫んでいる」

「京都の街は、フィレンツェやローマに並ぶ文化都市として、
世界の人々に愛されていた」
「第二次世界大戦の末期に、連合国軍司令部が京都を、
空爆対象からはずしたのもそのためだ」
と、アレックス・カーは言っている。

そして、
「東山魁夷の『年暮る』」、2011年11月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a5dac37b237ee890a9b85629131e1808

東山魁夷の「年暮る」に描かれたような「街並み」は、
半世紀たって、もう、京都にはなかった。

川端康成の「京都は今描いていただかないとなくなります。
京都のあるうちに描いておいて下さい」、
は、現実であった。

それに、
東山魁夷の「美しい自然や建築や町の風致を破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である」
は、そのとおりだった。


「日本は、日本の伝統や文化を切り捨て、
自然を破壊しながら、
無秩序に開発を進めてきた。
このために、世界の中で、
醜い国』の一つになってきている。
問題は、このことに、
日本人は気付いていないことです」
これは、アレックス・カー(東洋文化研究家)の講演である。

どうして、『醜い国』になったのだろう?
みなさんは、どう思いますか?

それで、講演のあとで、質問した。
「建設関係者に欠けているものはなんですか?
日本の伝統の良さや、日本文化の良さを教える美術教育が、
足らないために、無秩序な開発がおこなわれるのですか?
学校では、どのような教育が必要と思われますか?」

「建設や開発には、自然や周囲との調和が大切です。
日本の文化にプライドを持つ教育が重要です」
アレックス・カーは答えた。

日本は、どこぞの大国の植民地だったわけではない。
宗主国から命令されるがままに、やむを得ず、
京都の町並みを壊してきたのではない。
日本人が進んで、壊してきたのだ。

京都は、どこを目指しているのだろうか?
日本は、どこへ向かおうとしているのだろうか?

日本人も外国人も同じことを言っている。
東山魁夷と川端康成の悲痛の叫びと警告、
それに、アレックス・カーの「醜い国に気付かない日本人」。
「伝統文化と発展を、調和させることができなかった」
「日本人が、京都の町並みを壊している」
「手遅れだが、再生を考えよう」
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