円空仏は、鉈(なた)で彫った「木っ端仏」。
荒削りで、手に持てる大きさ。そして、村人を、
病気、飢え、災害から守り、安らぎを与えるものとして、
大切にされていた。これが円空仏に対する予備知識だった。
福島県立美術館の特別展、「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」、を観た。
福島駅前の看板から。
円空仏に対する予備知識が変わったのは、まず大きさだった。
「金剛力士(仁王)像 吽形」(こんごうりきし(におう)ぞう うんぎょう)が、
いきなり、入口にあった。千光寺(岐阜県高山市)蔵。

福島民友新聞、2015年1月27日から。
開会式には、千光寺の大下大圓(おおした だいえん)住職も参加。
デカイ! 度肝を抜かれた。
木っ端仏ではない。大木だ。
高さが2メートルもある。それに、
自然に生えていた枯木に彫ったという。
興味が湧いてきて、「飛騨の円空展」を見た。
音声ガイドの語り部は、井浦 新さん。
NHK「日曜美術館」のキャスターをしている。
立木にはしごをかけて、鉈を振るう図があった。

「円空への旅」。早坂 暁著、日本放送出版協会から。
「近世畸人伝」(きんせいきじんでん)。羽島市立図書館蔵。
「金剛力士(仁王)像 吽形」は、こうして作ったのか。
福島県立美術館。2015年3月。
「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」には、
岐阜県高山市の千光寺の所蔵する61体を中心に、
高山市に残っている約100体の円空仏を展示している。
福島民友新聞が創刊120周年を記念した、
東日本大震災復興支援の特別展。
円空像が展示されていた。
特別展のリーフレットから。
岩座に座り、額にしわをよせ、独鈷(とっこ)と数珠を持って、
ぎょろりとにらみつけている。円空は、こういう顔だったのか。
円空のことを、もっと知りたくなった。
「歓喜する円空」と「円空 微笑みの謎」を参照した。
「歓喜する円空」。梅原 猛著、新潮社。
表紙の像は「護法神像」。音楽寺、愛知県江南市。
「円空 微笑みの謎」。長谷川公茂著、新人物往来社。
表紙の像は「十一面観音像」。観音堂、滋賀県米原市。
円空が生まれたのは1632年、岐阜県羽島市上中町中。
木曽川と長良川に挟まれた、洪水の多いところ。
石を盛り上げた堤防で囲まれた輪中があった。
を守り、付近の人は輪中に逃げ込む。
円空は、「まつばり子」といわれた、私生児だった。
円空が7歳のときに、お母さんは洪水で流された。
円空は、世間から白い目で見られる私生児であり、
幼くして母を失って、孤児になった。これが、
円空を放浪の人生に駆り立てた。
孤児となった円空は出家する。
自分が円空だったら、
冷たい視線を浴び、居るところはない、
お母さんを成仏させてあげたい、
と、円空と同じ気持ちになっただろう。
しかし、円空になるには、大きな問題がある。
苦行に耐えられるか? 即身仏になれるか?
それに、円空仏を彫る技術と芸術の才がない。
1654年、円空23歳の時に、放浪の旅に出る。
富士山や白山(はくさん)にこもって修行する。
雪を抱いた白山。2,702メートル。
西穂高から。2015年3月。
円空が初めて仏像を彫るのは1663年、32歳の時である。
岐阜県郡上市美並で、天照皇太神像(アマテラスオオミカミ)ほかを彫る。
荒削りのダイナミックさはまだない。写実的だった。
1666年、35歳の時に、青森から北海道へ渡り、
仏の道を説いて回って、「今釈迦」と言われた。
1年ほどで津軽に戻る。青森、弘前に円空仏を遺す。
1671年、40歳の時に、母の三十三回忌の供養をする。
生誕地の羽島市上中町中に観音堂を建て、
本尊の「十一面観音」を作る。2.22メートル。

「円空 微笑みの謎」から。
鉈だけではない、ノミも使った精巧なできである。
円空が7歳の時に亡くなったお母さん。
母の形見として肌身はなさず持っていた「鏡」を、
十一面観音の体内に納めて供養した。
お母さんの微笑みを見るようだ。
1685年、54歳のとき、岐阜県高山市丹生川町の千光寺に滞在。
住職と意気投合し、この時期に、優れた円空仏を遺す。
「両面宿儺坐像」(りょうめんすくなざぞう) を作る。

絵はがきから。千光寺蔵。
円空の屈指の傑作。高さが86センチ。
2つの顔、4本の手を持つ怪物は、飛騨の国を統治していた豪族という。
左が微笑みで、右が怒りの顔は、矛盾に悩む円空の自刻像で、
結局、善の顔が悪の顔を克服している。
「不動明王および二童子立像」(にどうじりゅうぞう)。95.8センチ。

絵はがきから。千光寺蔵。
1本の木を縦に2つに割って、片方に不動明王を彫り、
もう片方をさらに2つに割って、童子を彫った。
不動明王は、木の表皮側に彫刻し、
二童子は、木心側に彫刻している。
左は制多迦童子(せいたかどうじ)、
右は矜羯羅童子像(こんがらどうじぞう)。
「如意輪観音像」。75センチ。

「円空 微笑みの謎」から。
東山白山神社蔵。岐阜県高山市。
微笑みは、お母さんを見るようだ。
放浪僧、円空は、北海道から近畿まで、諸国を巡り、
滞在した旅先で、お世話になった人に、
お礼のしるしとして、仏像を置いていった。
村人は、病気、飢え、災害から免れるように祈った。
遺した仏像、神像は12万体と伝承され、
現存する円空仏は5千体を超える。
円空仏を、もっと見たくなった。
円空仏は長野県にも20体ある。
「弁財天ならびに十五童子像」。17.3センチ。木曽の等覚寺。

「円空 微笑みの謎」から。
各お寺に、突然訪れて、「円空仏を見せてください」と言っても、
お寺の都合があるから、円空仏を見る機会を探していた。
「円空・木喰展」が山梨県で開催されていた。
山梨県立博物館開館10周年の記念展。2015年4月。
「円空・木喰展」のリーフレットから。
「微笑みに込められた祈り」として、
円空と木喰(もくじき)を対比して展示されていた。
木喰は、山梨県の出身で、多くの作品があり、
円空仏は、千光寺と高山市以外の岐阜県からと、
近畿、東京、新潟県、長野県からが展示されていた。
リーフレットの左の円空仏は「観音菩薩」。
板葺町、阿弥陀堂、一宮市博物館寄託。
微笑みに、円空のお母さんを見るようだ。
1692年、円空61歳のとき、
入定(にゅうじょう)の準備に入る。
円空は、生の穀物を主食としていたが、
その穀物を徐々に絶って「千日行」に入る。
1695年、64歳、穀断ち、水絶ちで、
お母さんが眠る長良川の畔で、
静かに、その生を閉じた。
幼いころ、最愛の母を亡くして、
放浪して修行する僧のほとばしり、
円空仏を、今、見ている。
荒削りで、手に持てる大きさ。そして、村人を、
病気、飢え、災害から守り、安らぎを与えるものとして、
大切にされていた。これが円空仏に対する予備知識だった。
福島県立美術館の特別展、「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」、を観た。

福島駅前の看板から。
円空仏に対する予備知識が変わったのは、まず大きさだった。
「金剛力士(仁王)像 吽形」(こんごうりきし(におう)ぞう うんぎょう)が、
いきなり、入口にあった。千光寺(岐阜県高山市)蔵。

福島民友新聞、2015年1月27日から。
開会式には、千光寺の大下大圓(おおした だいえん)住職も参加。
デカイ! 度肝を抜かれた。
木っ端仏ではない。大木だ。
高さが2メートルもある。それに、
自然に生えていた枯木に彫ったという。
興味が湧いてきて、「飛騨の円空展」を見た。
音声ガイドの語り部は、井浦 新さん。
NHK「日曜美術館」のキャスターをしている。
立木にはしごをかけて、鉈を振るう図があった。

「円空への旅」。早坂 暁著、日本放送出版協会から。
「近世畸人伝」(きんせいきじんでん)。羽島市立図書館蔵。
「金剛力士(仁王)像 吽形」は、こうして作ったのか。
福島県立美術館。2015年3月。

「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」には、
岐阜県高山市の千光寺の所蔵する61体を中心に、
高山市に残っている約100体の円空仏を展示している。
福島民友新聞が創刊120周年を記念した、
東日本大震災復興支援の特別展。
円空像が展示されていた。

特別展のリーフレットから。
岩座に座り、額にしわをよせ、独鈷(とっこ)と数珠を持って、
ぎょろりとにらみつけている。円空は、こういう顔だったのか。
円空のことを、もっと知りたくなった。
「歓喜する円空」と「円空 微笑みの謎」を参照した。
「歓喜する円空」。梅原 猛著、新潮社。

表紙の像は「護法神像」。音楽寺、愛知県江南市。
「円空 微笑みの謎」。長谷川公茂著、新人物往来社。

表紙の像は「十一面観音像」。観音堂、滋賀県米原市。
円空が生まれたのは1632年、岐阜県羽島市上中町中。
木曽川と長良川に挟まれた、洪水の多いところ。
石を盛り上げた堤防で囲まれた輪中があった。
を守り、付近の人は輪中に逃げ込む。
円空は、「まつばり子」といわれた、私生児だった。
円空が7歳のときに、お母さんは洪水で流された。
円空は、世間から白い目で見られる私生児であり、
幼くして母を失って、孤児になった。これが、
円空を放浪の人生に駆り立てた。
孤児となった円空は出家する。
自分が円空だったら、
冷たい視線を浴び、居るところはない、
お母さんを成仏させてあげたい、
と、円空と同じ気持ちになっただろう。
しかし、円空になるには、大きな問題がある。
苦行に耐えられるか? 即身仏になれるか?
それに、円空仏を彫る技術と芸術の才がない。
1654年、円空23歳の時に、放浪の旅に出る。
富士山や白山(はくさん)にこもって修行する。
雪を抱いた白山。2,702メートル。

西穂高から。2015年3月。
円空が初めて仏像を彫るのは1663年、32歳の時である。
岐阜県郡上市美並で、天照皇太神像(アマテラスオオミカミ)ほかを彫る。
荒削りのダイナミックさはまだない。写実的だった。
1666年、35歳の時に、青森から北海道へ渡り、
仏の道を説いて回って、「今釈迦」と言われた。
1年ほどで津軽に戻る。青森、弘前に円空仏を遺す。
1671年、40歳の時に、母の三十三回忌の供養をする。
生誕地の羽島市上中町中に観音堂を建て、
本尊の「十一面観音」を作る。2.22メートル。

「円空 微笑みの謎」から。
鉈だけではない、ノミも使った精巧なできである。
円空が7歳の時に亡くなったお母さん。
母の形見として肌身はなさず持っていた「鏡」を、
十一面観音の体内に納めて供養した。
お母さんの微笑みを見るようだ。
1685年、54歳のとき、岐阜県高山市丹生川町の千光寺に滞在。
住職と意気投合し、この時期に、優れた円空仏を遺す。
「両面宿儺坐像」(りょうめんすくなざぞう) を作る。

絵はがきから。千光寺蔵。
円空の屈指の傑作。高さが86センチ。
2つの顔、4本の手を持つ怪物は、飛騨の国を統治していた豪族という。
左が微笑みで、右が怒りの顔は、矛盾に悩む円空の自刻像で、
結局、善の顔が悪の顔を克服している。
「不動明王および二童子立像」(にどうじりゅうぞう)。95.8センチ。

絵はがきから。千光寺蔵。
1本の木を縦に2つに割って、片方に不動明王を彫り、
もう片方をさらに2つに割って、童子を彫った。
不動明王は、木の表皮側に彫刻し、
二童子は、木心側に彫刻している。
左は制多迦童子(せいたかどうじ)、
右は矜羯羅童子像(こんがらどうじぞう)。
「如意輪観音像」。75センチ。

「円空 微笑みの謎」から。
東山白山神社蔵。岐阜県高山市。
微笑みは、お母さんを見るようだ。
放浪僧、円空は、北海道から近畿まで、諸国を巡り、
滞在した旅先で、お世話になった人に、
お礼のしるしとして、仏像を置いていった。
村人は、病気、飢え、災害から免れるように祈った。
遺した仏像、神像は12万体と伝承され、
現存する円空仏は5千体を超える。
円空仏を、もっと見たくなった。
円空仏は長野県にも20体ある。
「弁財天ならびに十五童子像」。17.3センチ。木曽の等覚寺。

「円空 微笑みの謎」から。
各お寺に、突然訪れて、「円空仏を見せてください」と言っても、
お寺の都合があるから、円空仏を見る機会を探していた。
「円空・木喰展」が山梨県で開催されていた。
山梨県立博物館開館10周年の記念展。2015年4月。

「円空・木喰展」のリーフレットから。
「微笑みに込められた祈り」として、
円空と木喰(もくじき)を対比して展示されていた。
木喰は、山梨県の出身で、多くの作品があり、
円空仏は、千光寺と高山市以外の岐阜県からと、
近畿、東京、新潟県、長野県からが展示されていた。
リーフレットの左の円空仏は「観音菩薩」。
板葺町、阿弥陀堂、一宮市博物館寄託。
微笑みに、円空のお母さんを見るようだ。
1692年、円空61歳のとき、
入定(にゅうじょう)の準備に入る。
円空は、生の穀物を主食としていたが、
その穀物を徐々に絶って「千日行」に入る。
1695年、64歳、穀断ち、水絶ちで、
お母さんが眠る長良川の畔で、
静かに、その生を閉じた。
幼いころ、最愛の母を亡くして、
放浪して修行する僧のほとばしり、
円空仏を、今、見ている。