季節の変化

活動の状況

三内丸山遺跡のなぞ

2012-02-05 00:12:05 | Weblog
三内丸山(さんないまるやま)遺跡」のなぞ
三内丸山遺跡のシンボルである「六本柱」は、なんのため?

「六本柱」は、屋根のない3層構造の「建物」として復元してある。
右の雪の小山は、「大型竪穴住居」の復元。

三内丸山遺跡の雪は深い! 雪の壁の間を歩く。
雪の壁は、ボランティア・ガイドの肩まである。

三内丸山遺跡へは、新青森駅からシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で9分。200円。

左は、三内丸山遺跡のシンボル「六本柱」を5本にした時計。新青森駅。2012年1月。

「ねぶたん号」の乗客は、
運転免許センターへ行く人と2人。
それに、女性ガイドさんが添乗した。

女性ガイドさんは、
三内丸山遺跡や、青森を説明してくれる。

iPadを操作しながら、
三内丸山遺跡の「縄文シアター」では、
6分の「遙かなるまほろばへのいざない」と、
15分の「クリの木の国・三内丸山縄文集落」のビデオがあるから、
最初に見れば、三内丸山遺跡の概要がわかること、
青森の積雪は、市内で116センチ、
それに、真冬日で、
最低気温はマイナス10℃、
最高気温はマイナス3℃であること、
を、すぐに調べてくれた。

そして、三内丸山遺跡のレストランには、
「栗が入ったソフトクリーム(栗夢)があります」
「ほかには、『縄文けの汁』があります」

「『縄文けの汁』には、
どんぐりと栗入りの『すいとん』が入っています」
と、iPadの画面で見せてくれた。

「うまそう!」
「縄文けの汁」とは、青森らしい。
それに、地ビール「縄文の癒」でいこう。

三内丸山遺跡の手前のバス停は、青森県立美術館。
青森が誇る偉大な板画家、
棟方志功の作品が展示されているという。

名古屋の愛知県美術館の企画展「棟方志功展」(2011年)で、
「釈迦十大弟子」を見ることができたから、今回はパス。
三内丸山遺跡に到着するまでの、
9分のうれしいガイド、ありがとうございました。

三内丸山遺跡の案内施設「縄文時遊館」は広い。2010年7月オープン。
観光地のショッピング・モールを、思い浮かべればいい。
ガラス張りの建物には、いろいろな部屋がある。
展示室の「さんまるミュージアム」のほかに、
ミュージアム・ショップ、
体験工房、
「れすとらん五千年の星」、
みやげ物や「北彩館」、
それに、受付と広いロビー。

100人の椅子がある「縄文シアター」で、
女性ガイドさんから紹介されたビデオを2本見て、
三内丸山遺跡の概要を知った。お客は一人だった。

空調は快適で、外の厳しい寒さを忘れさせる。
「さんまるミュージアム」は、解説員による説明があり、
館外の遺跡は、ボランティア・ガイドによるツァーがある。

しかも、「縄文時遊館」の入館料はタダ。
青森県は、財政が豊かだと思う。

信州の「縄文館」には、
暖房設備がないところがあって、
「古い建物で、すみません」
急遽、家庭用の石油ストーブを点けてくれた。

気持ちはうれしいが、
広い館内に暖は届かない。
吐く息が白い。
音声ガイドで見学する。
鼻水がでてきた。久しぶりだ。

三内丸山遺跡は、観光をメインにしている。
となりの青森県立美術館で棟方志功を見るという、
青森の観光ルートに組み込んで、観光バスを呼び込む。

100人の椅子がある「縄文シアター」で概要を知らせ、
解説員のガイドで、
展示室「さんまるミュージアム」の土器、土偶を見学し、
ボランティア・ガイドによって、
公園のように整備された遺跡を見学したあとは、
「れすとらん五千年の星」で食事をしてもらう。
「縄文けの汁」があるし、「ソフトクリーム(栗夢)」がある。
最後に、みやげ物や「北彩館」で、
「縄文せんべい」、「縄文かりんとう」、
地ビール「縄文の癒」などのオリジナル・グッズや、
青森の名産品を買ってもらう。

これに対して、信州の「縄文館」は、
調査、見学をメインにしている。
観光ルートに組み込まれてはいない、
ガイドは予約する、
レストランはない、
みやげ物やはない、
縄文せんべいもない、
暖房のないところもある。

観光をメインにするのか?
調査、見学をメインにするのか? の対照を見た。
三内丸山遺跡は、青森の観光コースに組み入れて、
訪れる観光客を多くしているから、
縄文時代を広める効果がある。

展示室「さんまるミュージアム」の目玉は、重要文化財「大型板状土偶」。

縄文時代中期。

重要文化財「深鉢形(ふかばちがた)土器」。

縄文時代前期(左)と中期。

交易の広さを示す展示があって、
黒曜石から作ったやじり、「石鏃」が、
はるばる、信州の霧ヶ峰から運ばれてきた。

「やじり」は、狩猟生活には欠かせない、矢の先になる。

「やじり」を見ていると、
女性の解説員が近寄って、説明してくれる。
「『やじり』は霧ヶ峰から海路で運ばれてきました。
陸路はまだできていませんでした。それに危険でした」
信州の真ん中、霧ヶ峰から海に出るまでも大変だ。
遠路はるばる、よく運んできたものだ。

定時にボランティア・ガイドによる遺跡ツァーがある。
集合場所のロビーに行ってみると、
お客は、一人だった。

外は、シバレル! それに、
曇り空は、気が向けば吹雪く。
ガイドさんには気の毒な天気だ。

長靴を貸してくれるが、
冬の靴をはいていたので、だいじょうぶ。

案内板は雪に埋まりそう。雪は、150センチはありそうだ。

「縄文時代前期から中期(約5,500年前~約4,000年前)にかけての、
多くの貴重な遺構群や多量の遺物が発見され、日本考古学史上例を見ない、
巨大な縄文時代集落であることが明らかになりました」

「10数棟の大型住居跡、100棟を超える掘立柱建物跡、
多量の遺物が廃棄された泥炭層、約1,000年にもわたって、
土器や土などが捨てられ続けて小山のようになった盛土遺構、
さらには約880基にもおよぶ子供の墓などが発見されています」
とある。

三内丸山遺跡は「大きい」、「多い」、「長い」が特徴である。
大きい」は、「六本柱」に代表され、
多い」は、大量の土器や土偶が出土し、
長い」は、約1,500年も続いたことである。

その「六本柱」の復元にあたっては、
学者さんから、いろいろな意見が出た、
と、ガイドさんは言う。

「祭殿、神殿のような高床建物とか、
物見櫓(ものみやぐら)で、むつ湾の船を見たとか・・・」

「屋根を乗せれば、佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡と、
同じになってしまう。吉野ヶ里遺跡は弥生時代だが、
三内丸山遺跡は、それより古い縄文時代だから、
屋根は乗せなかった」
「高さは吉野ヶ里遺跡よりも2メートル高くした」

「吉野ヶ里遺跡でも、建物として復元することには、
根拠がないとして、強い反対があった」

「クリの木は、ロシアから輸入した。
日本には、太くてまっすぐなクリの木がないから」

「六本柱」の現物。

展示室「さんまるミュージアム」で。

吹雪くと、視界が悪くなる。2012年1月。

ガイドさんは、たった一人の観光客のために、
およそ1時間も遺跡を案内してくれた。
冬は観光客が少ないという。

吹雪が止んで、なんと、晴れ間が出た。
この晴れ間に、写真を撮ることができた。2012年1月。

三内丸山遺跡の雪景色。旧展示館の屋根から。

左から復元した「六本柱」、復元した「大型竪穴住居」、
3棟の「掘建柱建物」、右に「竪穴住居」と「南盛土(みなみもりど)」。
「六本柱」の左奥の建物は、運転免許センター。

そして、だ~れもいない!

「このアングルで撮った唯一の写真です。
もう二度とあるかないかの北国の雪で、
目の覚めるような写真です」
と、ガイドさんから言われた。

うれしくなるじゃないか。
地元の人にも珍しい写真が撮れた。

さて、「三内丸山遺跡」のなぞ。
三内丸山遺跡のシンボル「六本柱」は、なんのため?

ガイドさんに、の方角を聞いた。
「あちらです」
と、ガイドさんは北を指し示した。
「六本柱」は、北東を向いていることになる。

「六本柱を見て、方角を聞いたのは、
あなたが初めてです」
そして、ガイドさんは、説明された。
冬至には、3本の柱の列の間を、
夕陽が、だんだんと沈んでいきます」

「六本柱」の写真を最初に載せたが、
夕陽は、この「六本柱」の右に沈んでいく。
影を見てください。時間は午後2時近く。
「六本柱」の右は、明るく照らされている。

夏至には、3本の柱の列の間から、
朝日が、昇ってきます」

「六本柱」の写真では、
左から太陽が昇ってくる。

夏至には、3本の柱の列の間から太陽が昇り、
冬至には、3本の柱の列の間に夕陽が沈むとは、
ワクワクするじゃないか!

「縄文時遊館」のミュージアム・ショップで本を買った。
「世界遺産 縄文遺跡」、小林達雄編著。同成社。

「六本柱は大形建物の柱組みではない」と書いてある。

「六本柱はただに6本の巨木柱が天を衝いて立つというだけでなく、
その等間隔の配置が作り出す図形には縄文人の二至二分の原理を、
心得た上での巧みなカラクリがこめられていたのである。
これを大形建物の柱組みと見倣すのは、
縄文人の知、縄文人の世界観を否定する誤りを犯すことになる」

小林達雄 国学院大学教授は、
復元した「六本柱」について、
デーリー東北新聞社のOnline Serviceで、
つぎのように言われている。
「床を三層も張った、見るも無残な姿をしている。
どうにか屋根だけは取れたが、床を張るなんてとんでもない。
縄文人の心を踏みにじるものだ、今のままでは困る」

「六本柱」は、
祭殿、神殿のような高床建物や、物見櫓ではない。
復元は、屋根がないのに、床がある中途半端なものになっている。
これらは、縄文人の知、縄文人の世界観を否定する誤りだ、としている。

小林達雄さんは、さらに、
「六本柱」は、「諏訪大社御柱のような信仰の対象」
と、主張されている。

小林達雄さんは、三内丸山遺跡を中心とした世界遺産登録の、
「縄文遺跡群世界遺産登録推進専門家委員会」の委員として、
「六本柱」は、
「縄文人の知」であり、
「祭祀」のモニュメント、
であることを、方向づけられた。

梅原猛、新潟県十日町市博物館名誉館長は、
「御柱」について、つぎのように言われている。
「柱は天と地を結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、
人間も柱を上がって神のところへ行く。
柱はそういう天と地、神と人間を媒介するものであると思います」

「柱の遺跡が、諏訪神社の6年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、
20年に一回、お遷宮をする伊勢神宮の神事と結び付いているに違いない、
と思います」

「六本柱」は「縄文人の知」である。
それに、太くてまっすぐなクリの木を切り出し、
曳いてきて、建てるのは、まるで諏訪大社の御柱だ。

最後に、ボランティアのガイドさん、
凍てつく中を説明していただきました。
おかげで、いい写真が撮れました。
ありがとうございました。

それに、「三内丸山遺跡」のなぞ。
三内丸山遺跡のシンボル「六本柱」は、なんのため? は、
「縄文人の」であり、
祭祀」のモニュメント、
であることがわかりました。

大雪と厳寒の中、体は冷え切ったが、
「三内丸山遺跡」へ来たかいがありました。

さて仕上げは、「れすとらん五千年の星」で、
「縄文けの汁」と地ビール「縄文の癒」でいこう!
しかし、レストランは「飲み物だけになります」。
昼飯をスキップして見学していて、夕方になってしまった。
それに、お客さんがいないから、レストランは食事の提供を止めた。

ホテルから外を見ると、振り続ける雪に、
除雪車と、雪を満載したダンプカーが、
一晩中、格闘していた。青森市内。

ブルドーザー。うしろにもブルドーザーのブレードが見える。

青森らしい大雪と厳しい寒さを見た。
だ~れもいない冬の三内丸山遺跡、いい思い出だ。

「縄文けの汁」にはありつけなかったが、
青森の酒「じょっぱり」にはありつけた。

雪の上で撮った。

「じょっぱり」は、うめかったぁ!
クイクイと進んだが、2日酔いしなかった。なんして?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 合掌土偶のなぞ | トップ | 御神渡りの神事 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事