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川島芳子と松本

2015-05-24 00:00:25 | Weblog
男装の麗人川島芳子松本で親しまれている。
浅間温泉の住まいから、松本高等女学校(現在の蟻ケ崎高校)へ、
で通うエピソードがある。

川島芳子記念室、松本市歴史の里から。

蟻ケ崎高校の近くにある正麟寺(しょうりんじ)には、川島芳子のおがある、
松本市歴史の里には、川島芳子記念室があって、ゆかりの品が展示されている。
松本では、川島芳子に関する講演がしばしば開催されている。

正麟寺(しょうりんじ)。2015年4月撮影。


川島芳子のお

中央に「國士 川島浪速墓」、
右に「同婦人 福子」、
左に「同女 芳子」。
「国士」とは、大陸浪人。民間人、軍籍はない。

お墓には、「男装の麗人 川島芳子さん」の説明板がある。

「川島芳子さんは、1906(1907) 年、
清国 粛親王の第13(註:14)王女として生まれ、
大正3年 9(註:7)歳のとき、
旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し
国士といわれた故川島浪速翁の養女となり、
同翁とともに浅間温泉に居を移し、
松本高等女学校(現 蟻ケ崎高校)に入学、
馬に乗って通学するなど、お転婆娘といわれ 市民の話題の的となった。
その後 戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ、
満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが
昭和23年2(3)月、42歳の若さで その波乱の生涯をとじました。」

川島芳子記念室」の入口と説明板。松本市歴史の里で。

「川島芳子記念室」Memorial Room of Yoshiko Kawashima
「川島芳子は明治40(1907)年、清朝の皇族である粛親王(しゅくしんのう)の、
第14王女として北京に生まれ、本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。
同44年、芳子が4歳のとき辛亥革命がおこり 清朝は崩壊、
父親と親交のあった、松本出身の大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、
日本で育ちました。
芳子は川島の転居に伴い松本高等女学校に入学しますが、
学校まで馬で通ったエピソードは有名です。
20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するも、まもなく離婚。
のち清朝の復活を願い、日本軍に協力して、
さまざまな謀略工作に関わったといわれ、
「東洋のマタハリ」、「男装の麗人」などと、
世間の注目を浴びますが、その活動の実際は明らかになっていません。
戦後 中国国民党政府に逮捕、「漢奸(国賊)」として
昭和23(1948)年銃殺刑に処せられました。
没後50周年にあたる平成10(1988)年、芳子を偲ぶ有志により、
松本市歴史の里の前身である「日本司法博物館」(当時)内に、
記念室が設けられました。」

川島芳子に関する講演がしばしば開催されて、3回参加した。
松本文書館では「満洲への夢 川島浪速と川島芳子」、
「松本市芸術文化祭50周年記念 特別講演」は、
松本平の女傑 巴御前と川島芳子」。

新春講演。2010年1月31日、松本市で。
講師は「川島芳子を偲ぶ会」の穂苅甲子男(ほかり かしお)会長。林友取締役会長。
シベリア抑留の捕虜生活を「シベリア俘虜記」として出版されている。
穂苅甲子男会長は、2014年12月24日に亡くなられた、90歳。

これらの「川島芳子記念室」、
「男装の麗人 川島芳子さん」の説明板、
川島芳子に関する講演から、
川島芳子は、松本で名士であり、親しまれていることがわかる。

さらに、「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋、ほかを参照して、

まだあるモヤモヤを自分なりに、はっきりさせようと思う。
1)川島浪速粛親王の目指したものは?
2)川島芳子は、どうして男装したのだろうか?
3)川島芳子は、日本軍に利用され、そして不要となったのか?
4)川島芳子が、死刑になった理由、漢奸(中国人でありながら日本に協力した裏切り者)とは?
5)清朝が再興して、皇帝が再び即位する清朝復辟(ふくへき)はできたのか?
6)川島芳子が日本人に伝えたかったことは何か?

1)川島浪速と粛親王の目指したものは?

「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋から。

川島浪速(左)は、
ロシアの侵略から東アジアを守って、満蒙に独立国を再興したい。
粛親王(右)は、清朝の筆頭の名家で、清朝復辟(ふくへき)、
これは、清朝を再興させて、皇帝を再び即位させたい。
川島浪速と粛親王は、清朝復辟で利害が一致した。
それに、粛親王は、川島浪速の人格、手腕を高く評価した。
それは、義和団の乱の制圧である。
連合国軍は「紫禁城を攻略しなければ、
北京占領の意味はない」と、砲撃を開始しようとした。
川島浪速は、美しい宮殿が灰燼に帰すことにしのびず、
単身乗り込んで、得意の中国語で、籠城を解くように説得して、
無血開城に成功した。
粛親王は、第14王女の愛新覚羅 顕㺭(あいしんかくら けんし)を、
川島浪速の養女にすること申し出ると、川島浪速は喜んで受け入れる。
川島浪速には子どもがいなかった。顕㺭(けんし)は川島芳子である。6歳。

2)川島芳子は、どうして男装したのだろうか?
男装した理由は、いろいろと憶測して、「永遠の謎」としていることが多い。
講演では、多くの聴衆者がいるから、質問するのは難しい。

思春期の芳子。

「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋から。

それで、次の事実から、推測を試みた。
川島芳子は、大正13年10月6日の午後、床屋に走って頭を5分刈りにした。
「大正13年10月6日の夜9時45分」に「永遠に女を精算した」、
「あまり素直には記したくありません」と、手記にある。
川島芳子17歳、養父川島浪速59歳のとき、松本で。
実父の粛親王は、前年の大正11年2月17日に、
亡くなっている。旅順で、56歳だった。糖尿病。

17歳の娘が「5分刈り」にする…これは、異常なことだ!
「5分刈り」を、川島芳子は、誰に見せたかったのだろうか?
養父、川島浪速以外には、考えられない。
そうすると、芳子は川島浪速に犯された、
あるいは、執拗に迫られたことになる。

この乗馬姿は、髪を切った後だろうか。

「愛新覚羅王女の悲劇 川島芳子の謎」。太田尚樹著、講談社から。

次の事実も、考えてみた。
3年後の昭和2年、川島芳子20歳のとき、
旅順で蒙古王族の子息、カンジュルジャップ24歳と結婚する。

「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋から。

川島芳子はつぎのように言っている。
蒙古の王家と清朝の王女芳子との結婚は、
満蒙独立のためには、都合がいいとされた。
川島浪速もこの話を聞いて喜んだ。
大連で盛大な披露宴を行い、蒙古でまた、
王と王妃として、郷土的儀式の結婚式をあげて、王宮へ入った。
「動乱の蔭に -私の半世紀-」、川島芳子著、大空社から。

「川島浪速もこの話を聞いて喜んだ」
と、書いているが、気になるのは、つぎである。
川島浪速は、芳子の結婚式に出席していない。
それに、日記には、芳子の結婚については書いてない。
「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋から。

芳子は、養父を呼ばないで結婚式を挙げた。無視したとも思われる。
川島浪速は、良かったとも、激怒したとも、記録がない。
これは、異常だ!

厳格な川島浪速は、芳子の付き合いには目を光らしていた。
芳子は27歳のときに、相場師の伊東阪二(ハンニ)と同居するが、
このときは、川島浪速は、激怒している。

川島浪速は、芳子とカンジュルジャップの結婚式に呼ばれなかったが、
芳子の結婚には、触れたくなかった、そして、
口を挟むことができなかった、と考えたが、
女性のみなさん、どうでしょうか?

1930年、芳子23歳のときに、
カンジュルジャップと離婚している。
姑との関係や生活になじめなかった。
一時日本に戻るが、上海に渡る。そして、
関東軍の田中隆吉と知り合い、特務耕作、諜報活動に関わる。

3)川島芳子は、日本軍に利用され、そして不要となったのか?
関東軍は、満洲国を建立するにあたって、芳子を大いに利用した。
芳子の清朝の血筋、中国語、美貌、頭の良さ、行動力が役に立った。
満洲国は、清朝の王女が支援している、というプロパガンダにされた。
芳子が歴史の舞台に顔を出すのは、日本軍に利用される1931年、24歳から。

軍服姿の川島芳子。

「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋から。

関東軍は芳子を、一人前のスパイに仕立てあげることに全力を注いだ。
川島芳子は、後の満洲国皇帝にまつりあげられた溥儀(ふぎ)の皇后、婉容を、
天津から旅順に脱出させた。
つぎに、関東軍から1万円を渡されて、
世界の目を上海に集める謀略を依頼された。それは、
上海の抗日運動の中国人に、日本人の僧侶3人を襲撃させる。
その報復と見せかけて、日本人に中国人を襲撃させて殺害する。
そして、謀略は成功した、1932年1月18日。これをきっかけにして、
関東軍は中国に軍事行動をおこす。上海事変である、1932年1月28日。
世界の目が上海に注目しているときに、満洲国を建国した、1932年3月1日。
また、川島芳子は、ダンスを通じて、孫文の長男、孫科に接触して、情報を聞き出した。
情報部員として、かなり功績をあげた。

関東軍は、溥儀を執政として傀儡の満洲国を建国し、やがて、
溥儀を皇帝にすると、芳子は用済みとなり、不要となった。
満洲国の組織一覧には、粛親王の第7王子の金璧東があるが、
清朝復辟(ふくへき)とは、およそ縁遠いものだった。
川島芳子は女官長に任命さられたが、就任していない。
それに、奔放な行動に関東軍はもてあまし、
「芳子を始末しろ」との命令が出ている。

「利用するだけ利用して、あとは始末しろ」を知った川島芳子は、
のちに、胸の内を開けた手紙を山口淑子(李香蘭)へ届けている。
「振り返ってみると、ボクの人生は なんだったのだろう。
非常に虚しい気がする」
「人に利用されて捨てられた人間の良い例がここにある」
「ボクは孤独だ、どこへ歩いて行けばいいんだ」

4)川島芳子が、死刑になった理由、漢奸とは?(かんかん)
(中国人でありながら日本に協力した裏切り者)
川島芳子は農耕の漢民族ではない。
清朝を興した満洲族で、騎馬民族である。
漢奸には「漢」が使われているが、漢が中国を表すとしている。

裁判は、わずか3回の審議で、
芳子は死刑判決を受けた。1947年10月22日。
判決理由は次である。
①粛親王の子である以上、当然中国人である、
②日本の軍政界と親交があり、太平洋戦争勃発のころ、
 上海でダンサーを装って軍事機密を探った、
③9.18事変(満洲事変、1931年)の後は、関東軍に参加して、
 多田駿の率いる満洲国軍設立に協力し、
 満洲国の健全なることを主張した、
④「男装の麗人」は彼女をモデルにした小説である、
⑤7.7事変(盧溝橋事件、1937年)後、被告は溥儀を北京に移居させ、
 満清帝国の回復を命じた、
 (これは、当たっていないと、上坂冬子さんは指摘している)
⑥各方面の調査で被告は国際間で暗躍した人物であることが判明した、
漢奸懲治条例により極刑に処する。

川島芳子は上告したが、却下され、
1948年3月25日、北京で銃殺刑となる。
1907年5月24日生まれ。40歳。

辞世の詩」。

川島芳子記念室、松本市歴史の里から。

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
(冤:無実の罪)

5)清朝が再興して、皇帝が再び即位する清朝復辟はできたのか?
関東軍によって建国された満洲国は傀儡で、
川島浪速が望んだ、清朝復辟(ふくへき)を実現した国家ではなかった。
川島浪速は失望し、憤っている。川島浪速の望みは絶たれた。
川島浪速は、芳子の処刑の翌年1949年6月14日に死去。
1866年1月23日生まれ、84歳。

川島芳子は松本で、衆議院議長に話している。
「このままでは、日本の大陸政策は必ず失敗する。
もっと、中国人と日本人が理解し合えるような政策を進めないと、
両国民がだめになる」

川島芳子は、昭和12年3月23日、松本市の公会堂で演説した。
会場は立錐の余地もなかった、入り切れない人であふれた。
川島芳子は、満洲族の衣装であるチャイナドレスを着て演説。
「討つ人も討たれる人も心せよ
討つも討たれるも同じ同胞」
満洲国は日本の傀儡であって、
願っていた清朝復辟ではないことを批判し、
侵略された同胞に代わって、抗議をしている。
そして、
「現在の日本の対支外交は、
肺病患者に胃の薬を投与するような方向ちがいがある」
川島芳子の願いとはかけ離れたもの。望みは潰えた。

6)川島芳子が日本人に伝えたかったことは何か?
川島芳子は書や色紙を遺している。
日本も支那も 同胞ぞ

「男装の麗人 川島芳子伝」、上坂冬子著、文藝春秋から。昭和8年ころ。

「行く末は 日本も 支那も この通りなら
 なんで 討ったり 伐たれるぞ
 平和の光 大陸に
 日本も支那も 同胞ぞ
  川島芳子」

同胞が「討伐」しているが、
このままでは、日本も支那も骸骨になる。

「日本人たる前に 亜細亜人でなければならぬ」。

川島芳子記念室、松本市歴史の里から。昭和11年ころか。

「日本人は、しばし島国的根性を捨てて、大アジア人となり、
この天恵の大陸に進出、全アジア民族の雄々しき指導者であるという、
大なる自覚のもとに、発展していただきたいと思う」
「動乱の蔭に -私の半世紀-」、川島芳子著、大空社から。

日本人は、自分の利益だけを考えてきた。
中国やアジアのことを考えたものではなかった。
日本人は、島国根性を捨てろ、と川島芳子は言っている。

やがて

「日本も 支那も (註:同胞) ならば
 なんで
 討ったり
 伐たれよか

 昭和16年 春の宵
 ことね嬢 川島芳子」
「孤独の王女 川島芳子」。園本琴音著、智書房から。
園本琴音さんは、川島芳子と2年半ほど交流のあった福岡の女学生。

川島芳子は、清朝の血筋、中国語、美貌、頭の良さ、行動力を持っていた。
それに、日本を内と外から見ることができた。そして、70年前に激励している。
日本人は、島国根性を捨てて、大アジア人の気概を持ち、
アジア民族の雄々しき指導者になって発展してほしい。

アジア、また世界に進出した日本人で、川島芳子のように、
現地で親しまれ、名士になっている人は、だれだろうか?
川島芳子は、
☆記念室があって、ゆかりの品が展示されている、
☆お墓があって、経歴や功績が紹介されている、
☆70年たっても、講演会が開かれている、
☆書や色紙が遺されている、
☆映画や劇になっている、
☆本が出版されている、
☆偲ぶ会がある。
川島芳子は稀有な人だ。
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