季節の変化

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東山魁夷の「残照」

2012-04-29 00:01:00 | Weblog
東山魁夷の「残照」。

「東山魁夷画文集」、東山魁夷著、新潮社、1979年から。

東山魁夷の「残照」を見たとき、
八ヶ岳だ!」と思った。

塩尻の「高ボッチ」(1,655メートル)から撮った、
「八ヶ岳」がある。2004年12月。

ちょうど、夕暮れ。
「八ヶ岳」が紫色に変化しはじめた。
それに、重なる山並みは、「残照」のイメージだ。

高ボッチから、南に「八ヶ岳」のほかに、
富士山」や「南アルプス」を見ることができる。2011年10月。

左から「八ヶ岳」、「富士山」、「南アルプス」。
「南アルプス」の中央の三角は「北岳」で、
「富士山」のつぎに高い山。
手前は「諏訪湖」。

そして、高ボッチの北に「北アルプス」が見える。2004年12月。

左に「穂高連峰」、中央に「槍ヶ岳」、右のピラミッドは「常念岳」、
右端は「大天井岳」(おてんしょうだけ)。手前は松本平。
高ボッチには、多くのカメラマンが集まる。

「残照」の説明が、「東山魁夷画文集 旅の環」、
東山魁夷著、新潮社、1980年にある。

「夕暮れ近い澄んだ大気の中に、
幾重もの襞(ひだ)を見せて、
遠くへ遠くへと山並みが重なっていた」

「褐色の山肌は夕ばえに彩(いろど)られて、
淡紅色を帯びたり、紫がかった調子になったり、
微妙な変化をあらわした」

これは、「八ヶ岳」にピッタリ、合うではないか。
でも、「八ヶ岳」ではなかった。
風景は千葉県鹿野山だった。

「昭和21年の冬、私は千葉県鹿野山へ登った。
山頂の見晴らし台に立ったとき、
夕暮れ近い澄んだ大気の中に、
幾重もの襞(ひだ)を見せて、
遠くへ遠くへと山並みが重なっていた」

「東山魁夷画文集 旅の環」には、
現実としての風景を、心の姿に写し出し、
さらに、絵に仕上げていく過程が書いてある。

「人影のない草原に腰をおろして、
刻々に変わってゆく光と影の綾(あや)を、
寒さも忘れて眺めていると、
私の心の中にはいろいろな思いが湧き上がってきた」

「喜びと悲しみを経た果てに、
見出した心のやすらぎともいうべきか、
この眺めは、対象としての、現実としての風景というより、
私の心の姿をそのまま写し出しているように見えた」

心の姿をそのまま写し出し、
切実な祈りを絵にしていく説明が、
「東山魁夷画文集 風景との対話」、
東山魁夷著、新潮社、1978年にある。

「数日を過ごすうち、
私は、この風景の上に、
いままで私が歩き廻っていた、
甲信や上越の山々の情景が重なり合い、
雄大な構想となって展開されていくのを感じた」

「中央のいちばん遠くに、
八ヶ岳か妙高の遠望を連想するような山嶺を置き、
そこに、夕陽の最後の残映を明るく与えることによって、
漠然(ばくぜん)とした構図をひき締めることができた」

やはり、「八ヶ岳」を連想していた。

「光の明暗と、大気の遠近による諧調、
嶺々の稜線が作り出す律動的な重なり合いが、
この作品を構成する要素であるが、
それによって表そうと希(こいねが)ったものは、
当時の私の心の反映、私の切実な祈り
索漠(さくばく)の極点での自然と自己との、
緊密な充足感ともいうべきものであった」

こうして、「残照」はでき上がった(1947年)。
「第三回日展に出品した『残照』は、
特選となり、政府買上げとなって、ようやく、
私の仕事が世に認められるきっかけとなったのである」
と、東山魁夷は言っている。

東山魁夷39歳である。
画壇に認められるまで、
苦難で、長い道のりだった!


「東山魁夷画文集 風景との対話」、
東山魁夷著、新潮社、1978年の、
「風景開眼」には、「八ヶ岳」のことが書いてある。

「私は一年の大半を人気(ひとけ)の無い高原にたって、
空の色、山の姿、草木の息吹を、
じっと見守っていた時がある」

「八ヶ岳の美し森と呼ばれる高原の一隅に、
ふと、好ましい風景を見つけると、
その同じ場所に一年のうち十数回行って、
見覚えのある一本一草が季節によって変ってゆく姿を、
大きな興味をもって眺めたのである」

山梨県北杜市の「美し森」から「八ヶ岳」の主峰「赤岳」を見る。2012年4月。


「冬はとっくに過ぎたはずなのに、
高原に春の訪れは遅かった。
寒い風が吹き、赤岳権現岳は白く、厳しく、
落葉松(からまつ)林だけがわずかに黄褐色に萌え出している」

「ところどころに雪の残る高原は、
打ちひしがれたような有様であった」

長野県、原村の「八ヶ岳中央農業実践大学校」から見た、
「八ヶ岳」。2012年4月。

阿弥陀岳(あみだだけ)②の奥に重なる赤岳①、権現岳(ごんげんだけ)③。

東山魁夷が、
「一年のうち十数回行って、
季節によって変ってゆく姿を、
大きな興味をもって眺めた」
「八ヶ岳」をさらに追ってみる。

特急「あずさ」から見た「八ヶ岳」。2007年12月。

南からみた「八ヶ岳」。権現岳③、編笠岳⑧。

富士見町の「入笠山」(1,955メートル)から見た「八ヶ岳」。2005年6月。

赤岳①、阿弥陀岳②、権現岳③、横岳④、硫黄岳⑤。
裾野の町は、左から原村、富士見町へと続く。

茅野市の「杖突峠」(つえつきとうげ)1,247メートルから見た、
「八ヶ岳」。2011年11月。

天狗岳⑥、右端は西岳、編笠岳が重なっている。
「八ヶ岳」には、すでに雪がある。
裾野の町は、左から茅野市、原村へと続く。

佐久の「茂来山」(もらいさん)1,717メートルから見た「八ヶ岳」。2008年5月。

西の諏訪から見た「八ヶ岳」は、見慣れているが、
東の佐久から見た「八ヶ岳」は、並びが反対で、左が南。
「茂来山」には、浩宮様が登られている。

「霧ヶ峰」の「山彦谷」(1,838メートル)から見た「八ヶ岳」。2009年2月。

「スノー・シュー」で登ると、冬の「八ヶ岳」が現れた。

茅野市」から見た「八ヶ岳」。2011年12月。

西岳⑦、編笠岳⑧。
八ヶ岳山麓は「縄文人」が居住していたところ。
日本最古の国宝「縄文のビーナス」は、
近くの「棚畑遺跡」(たなばたけいせき)から出土した。

原村の「阿久遺跡」(あきゅういせき)から見た「八ヶ岳」。2012年1月。

縄文人は八ヶ岳の裾野に住んでいた。

諏訪湖」から見た「八ヶ岳」。2012年2月。

諏訪湖を右から左に走る氷の盛り上がりは、
御神渡り」(おみわたり)の卵。
清冽、神々しさを感じる。


東山魁夷は、
東京美術学校(現在の東京藝術大学)の研究科を修了すると、
ドイツに留学した。そして、
「帰国してから私は、なかなか、
画壇に認められないで暗中模索の時代が長かったが、
先生は写生が足りないと度々、注意された」
と、言っている。
「東山魁夷画文集 風景との対話」、
東山魁夷著、新潮社、1978年、「師のこと」から。
「先生」とは、結城素明(ゆうきそめい)である。

「『スケッチブックを持って、どこかへ写生に行くんだね。
心を鏡のようにして自然を見ておいで』
と、先生は話を結ばれた」

「今でも、その時のことを思うと、目頭が熱くなる。
私は先生の言葉の通りにスケッチブックを持って、
すぐ、旅に出たが、この言葉の意味が、
闇を照らす光明のように私の体内を貫いて、
強い感銘を与えてくれたのは、もっと後のことだった。
戦争で私がすべてを失った時であった」


東山魁夷は、「残照」をつぎのようにして描いた。
千葉県鹿野山が、対象としての、
現実としての風景だった。

この風景の上に、歩き廻っていた、
甲信や上越の山々の情景を重ね合わせて、
雄大な構想とした。

そして、八ヶ岳か妙高の遠望を連想するような山嶺を置き、
そこに、夕陽の最後の残映を明るく与えた。

東山魁夷の心の反映、
東山魁夷の切実な祈りを表す作品、
「残照」が生まれた。

「残照」は、
東山魁夷の仕事が世に認められるきっかけとなった。
そして、「風景画家」としての地歩を固めた。
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