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東山魁夷のハイデルベルクはドイツの京都

2012-03-18 00:03:18 | Weblog
東山魁夷は、
「ネッカー河畔のハイデルベルクは、
ドイツの京都とも言うべき山紫水明の古都である」
と言っている。

東山魁夷の「緑のハイデルベルク」を北澤美術館で見た。2012年。

絵はがきから。

「ハイデルベルクは、第二次世界大戦では、
少しの損傷も受けなかった町である。
京都のように爆撃の目標から外す、
という考慮があったのだろうか」
と、東山魁夷は言っている。

「ハイデルベルク」の写真がある(1989年)。

ネッカー川にかかるカール・テオドール橋を渡って、
対岸からハイデルベルク城や旧市街を眺めた。

ハイデルベルクのランドマーク、
「ハイデルベルク城」が山すそにあり、
その下に、ハイデルベルクの旧市街が広がる。
奥の2つの白い塔は、橋門ブリュッケン・トーア。

「緑のハイデルベルク」の実物を見たい!
それに、東山魁夷は、
なぜ「緑のハイデルベルク」を描いたのだろうか?
また、どうしてドイツなのか?
東山魁夷とドイツとのかかわりはつぎである。

東山魁夷は、25歳のときにドイツに渡り(1933年)、
ベルリン大学に留学している。しかし、
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して帰国した(1935年)。
ふたたび、ドイツを訪れるのは、34年後である(1969年)。
そして、「緑のハイデルベルク」を描いた(1971)。

東山魁夷とドイツとのかかわりを簡単に書くと、たった5行。
しかし、「東山魁夷画文集」1979年、新潮社を、
松本の古本屋「青翰堂」で、手に入れたから、
あちこちをめくって、ドイツとのかかわりを、
もう少し詳しく書くので、おつき合いください。

東山魁夷は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の、
研究科を修了すると、貨物船でドイツに渡った(1933年)。
在学中から、挿絵を描いて渡航費用を貯めながら、
ドイツ語を学ぶ生活を2年間続けて、遊学の準備をした。

遊学の動機を、日記に書いている。
「若い間に欧州を見ておく」
「日本画家としても将来自分の進路を判断する上に、
日本でない生活、日本でない芸術を見ておく必要がある」

ドイツを選んだわけも書いている。
「フランスはエレガントで、イタリアは明るいが、
ドイツの持つあの暗さ、荘重なものに私は牽(ひ)かれる」
「ドイツへ向かったのは、感覚的な世界に傾きがちの私の性質に、
しっかりした支柱を入れたい意味もあった」

ベルリンでは、語学教室に通い、
翌年の1934年には、4ヶ月のヨーロッパ一周旅行をする。

イタリアのフィレンツェでは、衝撃を受けている。
ルネッサンスの作品を眼の前にして、
私は身体が熱くなる程、昂奮したり、
打ちのめされたり、鼓舞されたり、
まるで熱病の発作のような状態でした」

「画家になろうとしたのは間違いだったと、
このフィレンツェに来てつくづく感じる」
「努力も勤勉も築き上げ得ないものがある。
自分には画家になる素質がないことを、
こんど程痛切に感じたことはない」

「しかし、自分を見失ってしまって何になるだろう」
「東洋の片隅で、不自由な日本画の絵具を使ってでも、
表現し得る世界がある。こう考えて来た時、
思わず眼の中が熱くなってきました」
と、気を取り直している。
マネするつもりは、サラサラない。
東山魁夷を生むことになる。重要なことだ! と思う。

ヨーロッパ一周の旅行からベルリンにもどると、
日独交換学生の制度ができたことを知り、
第一回の交換学生に選ばれた。
ベルリン大学の哲学科、美術史部に入学し(1934年)、
2年間の留学費がドイツから与えられることになった。

ところが、1935年に父の病状が悪化して、
残り1年の留学を断念して、帰国している。
帰国して、結婚。

「これまでは、私の遍歴の日々は順調だったといえるでしょう。
しかし、これから先は、暗い谷間を辿ることになるのです」

借財でどうにもならなくなっていた家の商売(船具商) の整理。
父の死。第二次世界大戦へ突入。召集されて熊本の部隊に配属。

戦局は悪化する一方である。
そして、ソ連との開戦になり、
「東山二等兵。再び絵筆をとる時は来ないぞ
と、同僚から言われている。
「自分ももとより承知の上だ。
自分のことより、日本の文化風前の灯だと思う」

そして、敗戦を迎える。
母が亡くなり、弟も病死した。
兄は、以前に亡くなっているから。
これで、肉親を失ったことになる。

「すべてが無くなってしまった私は、
また、今生まれ出たのに等しい。
これからは、清澄な目で自然を見ることができるだろう。
腰を落ち着けて制作に全力を注ぐことできるだろう。
また、そうあらねばならない」

第一回の日展に出品するが、落選する。
「友達は次々と展覧会で華々しい成績を挙げ、
一躍画壇の寵児となって活躍して行くのですが、
私はたいして良い成績も挙がらず、
生活もアルバイトに子供の絵本を描くのが、
主なものですから、ようやく暮らせる程度です」

そして、「第三回日展に出品した『残照』は、
特選となり、政府買上げとなって、ようやく、
私の仕事が世に認められるきっかけとなったのである」
東山魁夷39歳である(1947年)。
苦難だった、長い道のりだった!

残照」、1947年。

「東山魁夷画文集」、1979年、新潮社から。

それから、東山魁夷は、
日本の古都を「京洛四季」として描いた。
「その後、私の中に、当然、起こってくるのは、
残り半分であるドイツの古都を描くことであり、
それによって戦後における『古き町にて』を、
完成させることに他ならない」

こうして、東山魁夷は、
「京洛四季」を描き終わると、
ドイツ、オーストリアの旅にでた(1969年)。
36年ぶりのドイツである。こんどは、ご夫妻で。

「ネッカー河畔のハイデルベルクは、
ドイツの京都とも言うべき山紫水明の古都である」
そして、「緑のハイデルベルク」が生まれた(1971年)。

やっと、「緑のハイデルベルク」にたどりつきました。
長いおつき合い、ありがとうございました。
あとは、「緑のハイデルベルク」の実物を見たい!

「緑のハイデルベルク」は、北澤美術館が所蔵している。
「春になると展示します」と、電話で聞いていた。
その3月になった。雪は降ったが、
諏訪湖のほとりにある北澤美術館へ行った。2012年。


北澤美術館のチケットは、エミール・ガレの「ひとよ茸」。

「ひとよ茸」は、北澤美術館の目玉である。
ボランティア・ガイドの説明もあり、
お目当てのお客さんが多い。
1階の常設展示室にある。

今回は、展示替えをした2階である。
さっそく上がった。そして、ついに、
「緑のハイデルベルク」に逢えた!

「緑のハイデルベルク」は、やはり緑だった。
「青春時代に見たままだった!」
という、東山魁夷の安堵感が伝わってくる緑だ。

「ドイツ・オーストリア」、新潮文庫で、
東山魁夷はつぎのように言っている。
「ハイデルベルクを私は緑の色調で描いた。
は青春の色である」

ふたたびドイツを訪れる動機
そして、再会した感想を、
東山魁夷はつぎのように書いている。

「遠くの方からドイツの古都が、私を呼んでいるのを感じた。
老い疲れようとする心身に、少しでも若い日の鼓動を、
甦(よみがえ)らせたい願いもあって、
私は36年振りに再遊の旅に出た」

「私には懐しい期待と、同時に不安もあった。
戦争を経て、古い町々の面影が今も残っているだろうか。
もし失われていたならば、私の心の青春の残影も、
消え去ってしまうことになるだろう」

「幸いなことにドイツの北から南へ、
そしてオーストリアへの旅を通じて、
小さな町は昔日の姿をよく残していた。
私の夢の情景そのままでさえあったと言える」

自然古都、そのどちらをも、
美しく保とうとする『人間』の心が籠(こも)っていた」

「東山魁夷画文集」では、
つぎのようにも言っている。
ハイデルベルクは、
「私のような遠くの国からの旅人にさえ、
あたかも故郷ででもあるかのような、
親しい感情を起こさせるのである」

ハイデルベルク城から眺めた「ハイデルベルク」の街並み(1989年)。

右の白い塔は、カール・テオドール橋の橋門ブリュッケン・トーア。

ネッカー川の手前は旧市街で、
ネッカー川の対岸は新市街である。
「哲学者の道」は、対岸の丘の中にある。

旧市街の左の教会は、ハイリッヒ・ガスト教会Heiliggeistkirche。
教会は市庁舎と向かい合って、その間はマルクト広場。
マルクト広場一帯は、旧市街の中心地である。
ハイデルベルクで一番高い建物は、教会の尖塔。

ネッカー川の対岸の新市街は、
1978年に訪れたときと比べて、

建物が増えている。
しかし、まわりとの調和を保っている。
ごちゃごちゃと醜いことはなかった。

旧市街新市街と分けて開発している」
と、東山魁夷は言っている。
つぎののような予想がつくと思います。
旧市街で、一番高い建物は、教会の尖塔だった。
開発する新市街は、まわりとの調和を保っていた。

そして、
一番大切なことは、
そこに住んでいる人々が誇りと、
愛着を持っていることであろう」

「ハイデルベルクの大学は、ドイツ最古の歴史を持っている。
1386年に創立されたもので、その図書館は、
古文書、写本の類の世界的な蒐集で知られている」

ハイデルベルク大学」(1978年)。

「大学は、ちょっとした広場があるだけで、何もなく、
校舎の建物が町の家々と溶け合って存在している感じである」

東山魁夷が青春の一時期を過ごしたドイツ。
そして、古都「ハイデルベルク」に、
愛着を持っていることが伝わってくる。

そのドイツからご褒美があった。
「思いがけなく西ドイツ大統領から、
功労大十字勲章を贈られた」1976年。

「私はドイツに功労があったわけではないが、
戦前、若いときに留学した国が、その後、
現在までの私の日本における仕事を見守っていてくれて、
その意義を認めてくれたことをありがたく思った」

ドイツもありがたく思う「緑のハイデルブルク」である。
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