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奇跡の一本松と希望のかけ橋

2015-03-15 00:01:01 | Weblog
2011年3月11日の東日本大震災から4年になる。
陸前高田の「奇跡の一本松」を見たい。
それに、復興の様子も見たい。
希望のかけ橋」があり、
巨大なベルトコンベアーがあるという。

奇跡の一本松」。

モニュメントになっていた。2015年3月6日。

近くで工事をしている人に声をかけると、
「高田松原には7万本の松の木があって、
1本だけが生き延びた。高さは27メートル」
「それも枯れたから、人工の保存処理をした」
「奥の盛り土は堤防で、高さ12.5メートルになる」
「右はユースホステルで、津波で破壊された」
と、説明してくれた。

吊り橋、「希望のかけ橋」。

大津波は、手前の気仙川を右の上流に、8キロメートルもさかのぼった。

奥の山を削って、土石を「希望のかけ橋」で運ぶ。
ベルトコンベアー専用で、人や車は渡ることができない。

奥にある高さ130メートルの山を削って、高さ45メートルの台地にする。
おむすびのようだった山は、今では、平らに削られていた。
山が削られて、後ろの山並みが見えるようになった。

⇒の高台の上で、ショベルカーが山を切り崩している。
→の破砕設備で岩石を粉砕して、ベルトコンベアーで運ぶ。
→の破砕設備がある位置まで、山を切り崩して、高台にするという。
山一つを削って、その土石で沿岸部をかさ上げし、
高さ12メートルの市街地を造成するという大工事だ。

海側から見た「希望のかけ橋」。

⇒は、切り崩されている山、
→は、岩石を30センチ以下に粉砕する破砕設備。

「希望のかけ橋」は立派でも、あくまで仮設
2014年3月に稼働して、2015年5月まで。
作業終了後に取り壊される。

「見るなら、早い方がいい」
と、建設関係の人から言われて、やって来たが、
仮設が、こんなに立派で、大がかりだとは思わなかった。

吊り橋の塔と塔の間は220メートルあり、
塔の高さは42.6メートルと、説明板にある。
吊り橋を架けています」。


山を削り取って、今泉地区を高台の住宅地にする。
削り取った土石は、ベルトコンベアーで沿岸部の高田地区に運んで、
かさ上げして、市街地を造成する。

説明板の写真では、⇒のおむすび山は、まだ残っている。
樹木はすでに伐採されて、赤茶けた山の地肌が出ている。
そして、今では、山自体が削り取られて、なくなっている。
それで、陰になっていた後ろの山が見えるようになった。

写真の右には、「希望のかけ橋」という名前は、
陸前高田の小学生から募集して、選んだとある。

工事は大がかりにした方が、大きな復興費が得られる。
ベルトコンベアーは、総延長3キロメートルになって、
大蛇のように沿岸部を走り回る。

手前は、津波で破壊された「しおさい橋」。
ベルトコンベアーを下から見ると、ベルトが高速で走っていた。

かさ上げする沿岸部。


かさ上げの高さは12メートルという。
この沿岸部には、大型商業施設が建設されるが、
建設には、長いパイル(杭)を何本も打ち込む必要がある。

12メートルのかさ上げ地は、住宅地には向かない。
地震に耐えるように、長いパイル(杭)を何本も打ち込んで、
その上に住宅を造ることは、大がかりで、建設費がかかり過ぎる。

BRT(バス輸送高速システム)で、

「気仙沼」駅から、「奇跡の一本松」駅へやって来た。

2012年6月に気仙沼まで来ている。気仙沼が大船渡線の終点だった。
その先は不通で、陸前高田へ行くことができなかった。BRTはなかった。
気仙沼港から北に800メートルまで打ち上げられた漁船「第18共徳丸」。

BRTはなかったころで、気仙沼の人が車で連れて行ってくれた。

この気仙沼のことは、つぎの記載を参照してください。
「気仙沼に打ち上げられた漁船」、2013年8月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c0345513824e6906e59b2ff51b9c8142

BRTはBus Rapid Transit。
大船渡線の気仙沼から先の盛(もり)間は、
2014年3月から運行を開始した。
鉄道ではなく、開通した国道を走る。

「第18共徳丸」があった場所を見回した。
面影はなかった、2013年に撤去されていた。
気仙沼市の犠牲者は1,212人、行方不明は226人。
1,438人は、気仙沼市の人口73,500人の2%が失われたことになる。

BRTはBus Rapid Transit。
気仙沼から45分で、「奇跡の一本松」に着いた。

国道45号に340号がつながるコーナー。
仮設の観光物産施設と大きな駐車場がある。

震災の前は、繁華街だったが、平になっている。
商店も病院も陸前高田駅も民家も、何もかも、津波に流された。

それに、人の命までも流された。犠牲者は1,601人。
4年経った今でも、まだ207人が行方不明という。
1,808人は、陸前高田市の人口23,300人の8%が失われたことになる。

「奇跡の一本松」への案内図があった。
経路のご案内」。陸前高田市。


下の現在地から、黒の点線に沿って、
右上の◎「奇跡の一本松」へ向かう。
途中に「希望のかけ橋」がある。
帰りに、◎「展望台」に上がる。

展望台から見るベルトコンベアーと「奇跡の一本松」。


新しくできた「陸前高田駅」近くの、
高台の造成地へ行ってみたくなった。
案内図で下方向(北)になるが、かなり距離がある。
BRT(バス輸送高速システム)に乗って、5分ほど上がる。
新駅には仮設の「陸前高田市役所」があった。

道路の左には、新築された「陸前高田防災センター」(消防署)がある。
高台にある新「陸前高田駅」には、この2つの施設とコンビニがあった。

ここから、高台の造成地を見る。

右奥は高田第一中学校だろう。

上の写真の左手前の造成工事

ショベルカーが落ちそうだ。

高台の造成地のすぐ右に仮設住宅があった。

ここに4年も押し込められていたのか。
⇒のさらに先が、「奇跡の一本松」駅がある沿岸部。

仮設住宅に入っている人は、命からがら助かった人だ。
そして、多くの人は、身内を亡くしている。
極限状態を体験した人で、当初は、
生かされたんだから、亡くなった人の分まで頑張ろう! だった。

震災から4年たって、
生活の苦しさと将来の不安から、
これから、どうやって生きていこうか?
生きていることがつらい、
に変わってきた。

「頑張ってきたのに…」、突然 折れる心
PTSD心的外傷後ストレス障害のおそれが39.6%になる。
(Post Traumatic Stress Disorder)
これは、NHKが2015年3月8日に放映した、
震災4年 被災者1万人の声 - 復興はどこまで進んだのか」。
NHKと早稲田大学が、岩手県、宮城県、福島県の仮設住宅などで暮らす人に、
アンケート調査をして(2015年の1月~2月)、1万人から回答を得た。

半数の人が「気持ちが前向きになりつつある」一方で、
43.5%が「生きていることがつらいと感じることがある」。

うつ状態の要因は、相談者がいない、経済状況に困っている、
体調が心配、住宅・まわりの環境に不満がある、である。

「経済的に困っている」人が68.5%。
震災前と震災後の「世帯の年収」。

年収200万円以下の人が、震災前の22%から、38%に激増している。
収入が減った人が42%。失業した人が36.5%。

業種による「売り上げの回復状況」。

地域産業の回復が遅れている。
建設業は、数年で収束するが、
その後の産業の育成が目に見えない。
災害で土木会社がもうかる構図が、陸前高田に見えてくる。

被災者は、生活に困窮し、先が見えない不安に苦しみ、
長い仮設暮らしで心の病気を抱えて、ここには希望はないと、
16.1%の人が流出した。それに、若い人はもどらない。

陸前高田市で、命が助かった人にとっては、
早く地域産業を復興させ、次の産業を育成し、
困っている経済状況から抜け出したい。
4年も住み続けた仮設住宅から抜け出し、
陸前高田に住み続ける希望を見出したいが、
見えてくる光明はなんだろうか?
支えはなんだろうか?
大工事だろうか?
知りたい。
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