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『ツァラトゥストラはこう言った』(読書メモ)

ニーチェ(氷上英廣訳)『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』岩波文庫

『この人を見よ』『道徳の系譜学』を経て、本書を読み、ようやくニーチェのすごさがわかってきた。

いちばん感銘を受けたのは「運命愛」「永遠回帰」の考え方。

「人生は偶然によって、良いことも悪いことも起きるが、それをまるまる感謝して受けとめよ。同じ人生が何回も繰り返されたとしても、それを受け入れることができるくらい、自分の人生を愛せよ」という考え方だが、それができるのが「超人」である。

ツァラトゥストラ(ニーチェ)は言う。

「わたしはしばしば自分を慰めるためにこう言った。『よし、よし、親愛なるわが心よ!おまえは不幸な目にあったな。その不幸をおまえの — 幸福として喜び味わうがいい!』」(上、249)

人生という贈り物を与えられたと考え、いつもこれに対して、何を報いたらいちばんいいかと考える!そしてまことに、つぎのように言うのが高貴な者にふさわしいことばである。『人生がわれわれを選んで、何か約束してくれるなら、— その約束を、われわれは守ってやろう』」(下、p. 97)

「わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ」(下、p. 139)

「陰気くさい人間や夢想家などではなく、どんな困難なことにもまるで自分の祭りに行くようにいそいそと応じる、健やかで明るい者でなければならぬ」(下、p. 252)

こうした「困難や不幸を含む人生=贈り物」という考え方には、神に感謝するニーチェの気持ちが込められているような気がした(表面上、ニーチェは神を否定しているが)。

気になったのは、「よろこび」についての次の箇所。

「すべてのよろこびは、万物の永遠を願う(中略)それは愛を欲する。それはあまりにも豊かであり、贈り与え、ほどこし、だれかによって奪われることを懇望し、奪う者に感謝し、好んで憎まれようとする。— よろこびはそのように豊かであるから、嘆きだろうと、苦労だろうと、憎悪だろうと、恥辱だろうと、畸形だろうと渇求する」(下、p. 326-327)

イエス・キリストをイメージさせる文である(表面上、ニーチェはキリスト嫌いであるが)。

しかし、永遠回帰を信じ、つらいことも喜ぶためには、どうしたらよいのか?

そのヒントは、第1部で語られる「精神の三段の変化」にあるような気がした。

「わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝(ラクダ)となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ」(上、p. 37)

「こうしたすべてのきわめて重く苦しいものを、忍耐づよい精神はその身に引きうける。荷物を背負って砂漠へいそいで行く駱駝のように、精神は彼の砂漠へといそいで行く。しかし、もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化がおこる。ここで精神は獅子となる。精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする。(中略)しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん、獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか?どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。一つの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」(p. 38-40)

この箇所を読み、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイによる福音書18章3節)というイエスの言葉を思い出した。

ただ、「獅子マインド」から「幼な子マインド」への変化が難しい。究極のアンラーニングだな、と感じた。

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