松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
『道徳形而上学の基礎づけ』(読書メモ)
カント(中山元訳)『道徳形而上学の基礎づけ』光文社古典新訳文庫
カントが書いた本は初めて読むが、感動した。
まず、善について。
「善い意志が<善い>ものであるかどうかは、それがどんな働きをするか、それがどんな結果をもたらすかによって決まるのではないし、何らかの定められた目的を実現するのに適しているかどうかによって決まるのでもない。善い意志はそれが意欲されることによって、すなわちそれだけで善いものである」(p. 32)
結果ではなく、「思い」が重要になるのだ。次の箇所にもグッときた。
「とにかく運が悪くて、あるいは自然が[意地の悪い]継母のようにごくわずかな天分しか与えなかったために、この[善い]意志にはその意図するものを実現するための能力がまったく欠けていたとしても、さらにこの意志ができるだけ努力したにもかかわらず、何も実現できなかったとしても、あるいはこの意志がたんなる願望のようなものではなく、わたしたちが利用できるすべての手段を尽くしたにもかかわらず、[何も実現されずに、ただ]善い意志だけが残っているような場合でも、善い意志はあたかも宝石のように、そのすべての価値をみずからのうちに蔵するものとして、ひとり燦然と輝くのである」(p. 32-33)
「行為の本質的な善を作りだすのは、その人の心構えであって、その結果がどうであるかは問題とならない」(p. 97)
この考えには勇気づけられる。たとえ、障害のために十分な働きができなかったとしても、善い思いを持つ人は「燦然と輝く人」なのだ。
さらに素晴らしいのは「人間性は目的そのものである」(p. 137)という考え方。
「しかし人間は物件ではなく、たんなる手段としてのみ使用されうるものではない。人間はそのすべての行為において、みずからをつねに目的そのものとみなさねばならない」(p. 137)
つまり、カントによれば、自分の命を守ることは義務であり、自殺することは自分自身への義務を放棄することになる。
さらにカントは言う。
「ところで人間性のうちには、現在の状態よりもさらに大きな完全性を目指すという素質がある。この素質は、自然がわたしたち主体のうちの人間性について定めた目的の一つなのである」(p. 140)
したがって、自身の人間性を開発することを放置する人は、自分自身の義務を果たしていないことになる。
では、他者に対してはどのようにふるまうべきなのだろうか。
「他者への功績的な義務については、自然はすべての人間が、自己の幸福を実現することを目的としていることを指摘しておこう」(p. 141)
先ほどの「人間性=目的」という考え方からすれば、他者の幸福を促進することも大切な義務なのだ。
こうした「意志としての善」「目的としての人間性」「自己成長の義務」「他者の幸福の促進」という前提に基づき、道徳性の哲学を構築しようとしているのが本書である。
西田幾多郎は『善の研究』において、「社会のために個人性を実現することが完全な善である」と述べているが、カントの考え方がベースとなっているようである。
なお、本書の後半は、訳者の中山元氏による解説なのだが、とても参考になった。
カントが書いた本は初めて読むが、感動した。
まず、善について。
「善い意志が<善い>ものであるかどうかは、それがどんな働きをするか、それがどんな結果をもたらすかによって決まるのではないし、何らかの定められた目的を実現するのに適しているかどうかによって決まるのでもない。善い意志はそれが意欲されることによって、すなわちそれだけで善いものである」(p. 32)
結果ではなく、「思い」が重要になるのだ。次の箇所にもグッときた。
「とにかく運が悪くて、あるいは自然が[意地の悪い]継母のようにごくわずかな天分しか与えなかったために、この[善い]意志にはその意図するものを実現するための能力がまったく欠けていたとしても、さらにこの意志ができるだけ努力したにもかかわらず、何も実現できなかったとしても、あるいはこの意志がたんなる願望のようなものではなく、わたしたちが利用できるすべての手段を尽くしたにもかかわらず、[何も実現されずに、ただ]善い意志だけが残っているような場合でも、善い意志はあたかも宝石のように、そのすべての価値をみずからのうちに蔵するものとして、ひとり燦然と輝くのである」(p. 32-33)
「行為の本質的な善を作りだすのは、その人の心構えであって、その結果がどうであるかは問題とならない」(p. 97)
この考えには勇気づけられる。たとえ、障害のために十分な働きができなかったとしても、善い思いを持つ人は「燦然と輝く人」なのだ。
さらに素晴らしいのは「人間性は目的そのものである」(p. 137)という考え方。
「しかし人間は物件ではなく、たんなる手段としてのみ使用されうるものではない。人間はそのすべての行為において、みずからをつねに目的そのものとみなさねばならない」(p. 137)
つまり、カントによれば、自分の命を守ることは義務であり、自殺することは自分自身への義務を放棄することになる。
さらにカントは言う。
「ところで人間性のうちには、現在の状態よりもさらに大きな完全性を目指すという素質がある。この素質は、自然がわたしたち主体のうちの人間性について定めた目的の一つなのである」(p. 140)
したがって、自身の人間性を開発することを放置する人は、自分自身の義務を果たしていないことになる。
では、他者に対してはどのようにふるまうべきなのだろうか。
「他者への功績的な義務については、自然はすべての人間が、自己の幸福を実現することを目的としていることを指摘しておこう」(p. 141)
先ほどの「人間性=目的」という考え方からすれば、他者の幸福を促進することも大切な義務なのだ。
こうした「意志としての善」「目的としての人間性」「自己成長の義務」「他者の幸福の促進」という前提に基づき、道徳性の哲学を構築しようとしているのが本書である。
西田幾多郎は『善の研究』において、「社会のために個人性を実現することが完全な善である」と述べているが、カントの考え方がベースとなっているようである。
なお、本書の後半は、訳者の中山元氏による解説なのだが、とても参考になった。
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